「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大詰めのモスル奪回作戦と古代遺跡

2017-06-20 06:47:08 | 2012・1・1
イラク軍によるイスラム過激派IS(イスラム国)の最後の拠点、モスル旧市街奪回作戦が大詰めを迎えているようである。現地からの報道では、旧市街に立て篭もるIS兵力は500人ほどだが、10万人の市民を”人間の盾”としているようで、戦闘は出来るだけ市民が犠牲にならないように、また空港、駅などのインフラが破壊されないよう慎重に行われているという。しかし、モスル周辺には、古くは紀元前8世紀の古代メソポタミヤ遺跡、二ネヴアなどがあるが大丈夫なのだろうか。

イラクといっても一般日本人にはサッカーを通じて名前を知るだけ。ましてモスルがイラクのどこにあるかは知られていないが、調べてみると、モスルは日本人でも馴染のモスリンの原産地で、毛斯倫の語源でもある。戦前、毛織物産業が盛んだった時代に建てられた大阪の淀川区の神崎川には工場跡に、今でも「毛斯倫橋」の名前の橋がある。

半世紀以上前だが新聞社の新年企画「アラビアンナイトは生きている」という記事取材のため、岩波文庫で「千夜一夜物語」を読んだが、その中にも”モスルのイブラヒムと悪魔”というページがあった。すっかり内容は忘れてしまったが、たしかモスルの商人が悪魔に騙された話であった。

イラクのフセイン独裁政権が倒れたのは2008年、やっと平和が訪れたかに見えたが、このISとの内戦である。原因の一つは同じイスラム教内の対立だという。世界三大文明発祥の地であり、紀元前からの遺跡も残されている。何か悪魔につかれてしまったのであろうか。一日も早く、モスルの戦闘が終わり、イラクの地に平和が訪れるのを願っている。


都議選 民進党の迷走

2017-06-19 04:57:29 | 2012・1・1
昨日の新聞折込に”私は一貫して豊洲移転に反対してきた”と訴える、隣接の世田谷区から民進党公認立候補者を推薦する保坂展人区長との座談会を載せた、民進党広報紙「民進」の号外が入ってきた。号外には、平成24年3月、都議会が当時第一党であった民主党(49人)などの賛成で、豊洲移転を可決した際、民主党議員11人が造反したことを伝える新聞記事が転載されていた。号外で紹介している候補者は、その11人のうちの一人である。

都議会の民進党議員団は何故か、党派名に「民進」をつけず「東京改革議員団」と呼んでいるが、都議選を前にして幹事長をはじめ10人近くが離党している。「民進」では選挙に勝てないという判断なのだろう。その点、号外の立候補予定者は、筋をまげず”立派”といえば”立派だが、民進党の前身、民主党は豊洲移転に賛成ではなかったのか。今回の都議選の民進党の公約は”追加の安全対策がとられ、都民の理解がえられなければ移転に反対”となっている。苦しい弁明である。

公示を前に,町には候補予定者のポスターが目に見え始めてきた。公明党立候補者は山口奈津男代表と小池百合子都知事とのスリー.ショットの写真入り、自民党候補予知者には安倍晋三総理と丸川珠代五輪担当相のスリ―.ショットがめだつが、「都民ファースト」の小池知事の迫力はない。わが目黒区は区長が民主党出身者、実姉も区議だが、民進党から候補者がたつのかどうか。連舫代表と候補者と一緒のポスター写真は見たことがない。

「父の日」に50年前亡くなった父を想う

2017-06-18 06:20:14 | 2012・1・1
6月の第3日曜日は「父の日」である。と、いっても僕には「父の日」に改まって父に感謝し祝った記憶がない。当然なことだ。「父の日」がリンドン.ジョンソン大統領によって米国の正式な国の祝日になったのは1966年、まだ半世紀ほど前の事。日本のコマシャリズムがこれに便乗して「父の日」と騒ぎ出したのはその後である。69年に他界している父の時代にはまだなかった。

父母は遅い子持ちで、父が48歳、母が39歳のと帰の誕生である。9歳上の姉がいたが、両親、特に父にとっては初めて生まれた男児だったので、僕は寵愛の中で育った。父が残した「わが家の記録」には、その模様が書かれている。僕の誕生当日の事から宮参り,初節句、初めて座れた日、這い這いした日、口がきけた日など克明に記されている。そして、誕生日ごとに近くの写真館で記念の写真を撮ってくれている。

父は明治17年生まれで、昭和44年、84歳で亡くなっている。実は今年は50年回忌の年だ。幸い、父の没年齢より長く生きられた。父の残した「わが家の記録」によると、父は僕が生まれた年の昭和6年、僕にとっては祖父の33回忌の法要をしているが、50回忌は戦後の混乱もあってしていない。どうやら,僕は50年回忌法要が出来そうだ。

他国のお祭りにならっての「父の日」だが、一年に1回でもよい。亡くなった父親を想い出すのは好いことだ。わが家のベランダからみる「父の日」の花、赤いバラは真っ盛りである。今宵は亡父の好きだった酒を仏壇に供え、”養老の酒”にしたい。

反省の安倍総理と謝罪する小池知事

2017-06-17 05:35:12 | 2012・1・1
毎週金曜日の午後、東京では知事の記者会見があり、ローカル.テレビ局のMXがナマ中継する。石原慎太郎知事時代より、下手なワイドショー番組より面白いので見ているが、昨日は同じ時間帯で、NHKが「加計文書」問題の事実上の”幕引き”ともいえる国会(参院予算委員会)中継しており、僕はチャネルを変え変え、対応に忙しかった。

結論から言って、国会での安倍総理の答弁は政治家としては合格点なのかもしれないが、誠実さに欠けている。総理はこれだけ国中を騒がせている問題について”真摯に率直に反省している”とはいったが、謝罪はしていない。僕も総理が直接関与したとは、思わないが、取り巻き連中が総理を”忖度”してチョロチョロしたのは文科省文書ではっきりしている。それなのに、一時は文科省文書は、存在しない怪文書だとしながら結局、再調査して存在を認めている。これは誰がみても政府が「テロ準備罪法」の国会通過をねらった時間稼ぎであたわけだ。

小池都知事は、今日築地市場を訪れ、市場関係者と会い、市場問題の混乱について謝罪する。昨年11月、豊洲への市場移転が延期されて以来、知事としては解決への”ロードマップ”に従って政策を進めているが、関係者が延期によって迷惑を受けているのも事実だ、来月の都議選を前にしての知事のデモンストレーションでもあるが、好感は持てる。

「加計文書」の政府の対応をみていると、あまりにも”見え見え”で、国民を愚弄している。文書にある”総理のご意向”的な表現はどこの社界にもあることだ。総理の直接関与はなくとも、なんらかな形で総理は国民に謝罪すべきだ。”過ちは改ムるに憚ることなかれ””過ちは好む所にあり”という格言もある。

長寿日本一 信州の”かみさんの味”

2017-06-16 05:24:22 | 2012・1・1
厚労省から都道府県別の2015年の死亡率が発表になった。これによると、男女とも最も低いのが長野県である。平均寿命番付でも長野県は80・88歳でトップ。文字通り”信濃の国”は長寿ナンバーワンだ。長野県を第二の故郷とする僕にとっては、まことに同慶の至りである。

縁あって善光寺さまの門前で生まれた老妻と結ばれのは昭和30年、すでにダイヤモンド婚(60年)を過ぎた仲だ。だから、僕には”おふくろの味”よりいも”かみさんの味”のほうが長くなっている。長野県が長寿日本一になったのは、ここ2、30年ほどだそうだから、老妻の料理が直接、今の長寿県、長野とは関係ないのだが、僕は勝手にそうだと思っている。

長野県の長寿の秘訣は、県をあげての減塩運動と”野菜をたっぷり食べる”運動だとされている。老妻は60年前に東京にきており、この運動には無関係なのだが、何故か料理は、東京生まれの”おふくろの味”より薄味で野菜料理が多い。とくに毎朝の味噌汁は東京流に比べて具の野菜が圧倒的に多い。

僕が老妻と初めて知り合った頃の信州では、人の家を訪ねると、どこの家でも、お茶請けがわりに、塩のきいた野沢菜を出したものだが、今、この習慣は減塩運動の効果なのだろうか、少なくなってきた。それに、もともと”信濃の国”は海なし県の山国で、粗食の地である。今は全国的になった”オヤキ”も素朴な食だが、具には野菜が入っている。名物の蕎麦にしてもそうだ。豪華な料理とは思えない。今日も老妻に所望して、信州名物の”したし豆”を茹でてもらう。特産の大豆をただ茹でただけのものだが、絶品である。


小池知事の”煙(ケム)にまく”横文字戦法 アウスヘーブン

2017-06-15 05:42:21 | 2012・1・1
東京都の築地市場から豊洲市場への移転をめぐって検討されてきた専門家会議の結論も出、一方、市場の持続性をテーマに論議さてきたプロジェクト(PT)会議の報告もまとまり、小池百合子知事は15,16両日、東京都の「市場のあり方戦略」会議を開催、これを受けて最終結論を出す模様である。正直いって政治の素人には、会議が幾つもあって解りにくい。

そこへ持ってきて小池知事の横文字好きだ。先日の記者会見では”アウスヘーブン”という、まったく庶民には馴染のない言葉が飛び出してきた。知事お得意の庶民をケムにまく横文字戦法だ。”アウスヘーブン”とは、ドイツの哲学者、ヘーゲルの弁証的哲学の学術語で、日本では「止揚」と訳されている。僕は初めて聞く言葉なので広辞苑(新村出編 岩波書店)で調べてみると、こうあった。
「事象の低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存される」

小池知事が就任後の昨年11月、豊洲市場の移転延期を発表して以来の知事の、この問題についての言動を僕は、非哲学的な頭を絞って考えてみたが、知事の”アウスヘーブン”の論理は解けない。むしろ問題が複雑化するばかりでありる。知事の厚労相時代の言葉だという”クールビズ”は、なんとはなく、この季節、男性のノーネクタイ姿をみて解る。しかし”アウスヘーブン”に至っては、横文字の礫(つぶて)の一つ。知事の庶民をケムにまく戦法の一つにしか見えない。

コッペパンと戦後すぐのあの時代

2017-06-14 05:37:15 | 2012・1・1
テレビのワイドショー番組で最近都会で高級食パンや高いハンバーガーが流行していると知った。食糧難時代で育った僕はあまりパンにはこだわらない。コンビニで一斤6枚から8枚切り、150円程度の量販店の食パンでも充分だ。ハンバーガーに至っては、子供時の食習慣がないためか、それほど食べたいとも思わない。

そんな折、老妻が買物ついでに隣駅の繁華街に出来た、行列の出来るコッペパン店から、人気の卵入りコッペパンを200円で買ってきた。その一つを相伴しながら、僕は戦後すぐの昭和20年代後半を想い出した。ようやく、配給切符がなくとも外食が出来るようになった時代である。安サラリーマンの僕は、新聞社の地方支局近くのパン屋から、マーガリンを塗りたくったコッペパン一つと牛乳で昼食を済ませていた。ラーメン一杯30円の時代である。

普段、僕は何も気にせずにコッペパンと言っていたが、恥ずかしながら語源を知らなかった。ネットで「コッペパン」を検索してみると、なかなか肝心の語源が出てこず、老妻が買ってきたコッペパン.チェン店の紹介ばかりである。店の宣伝には、こういった方法もあるのかと感心しながら、やっと「コッペパン」の”コッペ”が、フランス語の”Coupe"(切る)からきているのを知った。しかし、日本であの形をしているのが、コッペなのかわからない。多分、パンに切り込みを入れて中に具を入れていたことからきているのであろう。

何故、今、コッペパンに人気が出てきたのか。貧しかった戦後すぐの時代への一種の回顧趣味なのだろうか、それとも実際に昼食代の節約からサラリーマンが、コッペパンで済ますようになってきたのであろうか。

他人の病気を笑いのネタにするな 円楽

2017-06-13 05:13:40 | 2012・1・1
日曜日の夕方の「笑点」を昔からの視聴習慣で見ていたが、最近,番組が落語本来の大喜利ではなく、ドタバタ化し下品になってきた。なかでも三遊亭円楽師匠の、番組終身司会者、桂歌丸師匠(80)に対する”病気ネタ”は頂けない。二人は大の仲良しで歌丸師匠了解の下での話だそうだが、病気を持つ視聴者にとっては聞くに耐えない。歌丸師匠はまた肺炎で入院され、ネットで死亡説まで流れていたそうだが、それでも円楽師匠はしつっこく”病気ネタ”で笑いを誘おうとしていた。僕はたまりかねてテレビを消した。 
 
過去に膀胱ガン4回、大腸ガン2回の摘出手術がある僕にとって、他人のガン情報には神経質である。昨日もネット情報を見ていたら映画監督の大林宣彦氏(79)が、昨年8月、末期の肺ガン(ステージ4)を宣告されて以来初めて公の場で挨拶された。監督は”3か月の余命といわれたが、こうして生きています。(師匠の)黒沢明監督の映画への遺言を継承します”と挨拶された。黒沢監督にはガン患者の生き様を描いた作品「生きる」(昭和27年東宝)がある。学生の時見たが、今、ガン患者となってもう一度見たくなった。

幸い僕の場合はガンが早期発見だったため、再発転移はないが、年に数回の事後検査の度に”生きている”喜びを実感している。歌丸師匠は腸閉塞など過去に数回も入院歴があり、テレビの画面を見ても激やせされている。それでも高座に立とうとされている。しかし、本人は了解しているといっても他人から、あれほど病気を笑いのネタにされては好い気持ちはしないと思う。病気のある視聴者は円楽師匠の顔を見たくない。

半世紀前のカタールと「休戦土侯国」

2017-06-12 06:07:59 | 2012・1・1
今は”開店休業中”の僕のもう一つのブログに「1000都物語」というのがある。生まれてから80余年、自分が一日でも住んだ町の紹介と想い出を綴ったものだが、確か”1000都”には届かなかった。その海外編の中で、アラブの一国でありながら今、周辺の他のアラブ諸国から肘鉄を食わされいる国、カタールを書いたのを想い出した。

半世紀前の1962年11月、新聞社の中東移動特派員として僕は、アラビア語で「噴出」を意味する、カタールの首都ドーハを訪れている。取材の目的は「アラビアンナイトは生きている」という、当時まだ日本では秘境の地とされていたペルシャ湾湾岸の地を写真で紹介することであった。僕はカメラマンと一緒にイエメンから当時、「休戦海岸」(Trucial States)と呼ばれていたドバイ、シャルジャを取材し、砂漠の中の飛行場であったアブダビ経由、カタールに入った。つ
半世紀前のドバイは超高層建築など一つもなく、入江にそったスーク(市場)には伝統衣裳を着た鷹匠がたむろしていて,僕らの取材心を満足させてくれた。砂嵐が吹くと離着陸できないといわれたアブダビ飛行所には管制塔しか建物はなかった。アブダビで石油が採掘が始まったばかりの頃である。

僕らは新しい期待に胸を躍らせてカタールに入ったが、残念ながらドーハの町は近代化されていた。戦前1935年から西欧資本による「カタール石油会社」が出来て採掘がはじまっていた。その恩慶で町は発展し、「休戦海岸」の”土侯国”ではなかった。僕らは砂漠の中での中古自動車のセリ市場をカメラに収めただけで、早々にドーハを後にした。

湾岸諸国の石油可採年数は限られており、どこの国もポスト石油の国造りに入っている。今回の仲間内の争いも天然ガスの利権争いにからむという説もある。半世紀前、ドバイの小学校では、自前の教科書がなく、カタールの教科書を使用していた。”アラブは一つ”という半世紀前のスローガンも色褪せてしまった。

梅雨の晴れ間 都会のあらまほしき家居

2017-06-11 07:40:16 | 2012・1・1

7日に梅雨入りしたのに東京首都圏は今のところ雨がない。困っているのは、ガーデニングの真似事をしている老妻である。猫の額ほどの庭先と出窓の草花の水やりで大変である。僕はといえば、杖をつきつつでも、駅前まで買物をかねた散歩ができて大喜びだ。たった往復1500歩でも自分の足で歩ける喜びは健常者にはわからない。

わが家のあたりは都心と違ってまだ自然が残っている。車も少なく散歩しながら他家の家々を見るのも楽しい。”家居のつきづきしくあらまほしきこそ、仮の宿と思えど興ありものなれ(中略)大方は家居にこそ、ことざまの、おしはからるれ”( 大意=住居はその住む人に似合っているのが面白い。なにか、その住む人の心がおしはかられる)(徒然草第十段)