「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「読売」”御用新聞”と「加計文書」の再調査

2017-06-10 07:09:03 | 2012・1・1
「読売」は”御用新聞”だと、「週刊文春」の見出しにあった。”御用新聞”とは時の政府におもね、迎合する新聞社のことだ。これを受けた形で「読売」が、社会部長名で、反論する記事を載せている。事の起こりは、「読売」が「加計文書」をめぐって渦中の人物である前川喜平前事務次官の在任中の”出会い系バー”通いのスキャンダルをスッパ抜いたことに始まる。

新聞業界では、他紙が書いた記事で、追いかけざるを得ないのを「特ダネ」という。「加計文書」はあるのかどうなのか連日、国会で問題になっているさ中である。常識から行って中央官庁の事務次官といえども、個人的な”出会い系バー”程度の事は新聞には報道されない。その意味では「読売」の記事は「特ダネ」の意味はあるが、他紙の間では多少記事を抜かれたヤッカミもあり報道姿勢に批判があった。その背景には、安倍総理の国会での改憲審議のさいの”詳しくは「読売」を熟読せよ”という発言があったかもしれない。

安倍総理は昨日、松野文科相に対して、これまで一貫して”怪文書”だと存在を否定してきた「加計文書」の再調査を命じた。前川前事事務次官は終始”白を黒とはいない”と文書の存在を認めていた。事実、野党の調査でも現実に文科省内に文書は残っているとのことだ。”被害者”は、前川前事務次官だ。先日の菅義偉官房長官の記者会見で、前川氏は過去の”出会い系バー”通いの一件について口汚く言われていた。

文科省の再調査の結果がどう出るか。最高トップの意向がどう反映されるか。政府御用達新聞が、へんな小細工をしなければよいが。長期政権の驕りが出てきたのであろうか。

増え続ける老人の生活保護費受給

2017-06-09 05:49:31 | 2012・1・1
厚労省の平成27年の生活保護受給調査が発表になった。これを伝える産経新聞(6月8日付首都圏版)の記事は、その主見出しに”受給者20年ぶりに減”、副見出しは”27年度世帯数は過去最高”とあり、一見した読者は戸惑うのではないか。両見出しとも事実なのだが、内容実態の分析によって違ってくる。

受給者が20年ぶりに減に転じたのは、おそらくアベノミクスの効果もあってか、ここへきて有効求人数が増え、失業者がなくなってきたこと。行き過ぎとの批判がったが、小田原市市の”保護なめるな”といった保護費不正受給に対する役所の窓口の努力もあったのかもしれない。

しかし、一方では27年度の受給世帯は過去最高だという。それも65歳以上の高齢者世帯が83万人7000人と、総受給者数の51パーセントと、初めて高齢者受給者が半分を超えた。団塊世代の高齢化入りに従って、無年金、低年金者が急増してきた。また、核家族化の影響で、独りきりの単身世帯が増えてきている。これが”過去最高の世帯数の増加”となっている。

今年の大型連休の最後の日、北九州市の小倉北区の格安アパートで火事があり、6人が亡くなっているが、大半が生活保護費受給の老人だったという・先年、川崎市日進町の簡易宿泊所での火災の犠牲者も生活保護の受給者が多かった。受給額の多寡ではなく、貧困な高齢者にとって、この国は無策で冷たいのではないだろうか。国民年金だけでは、老後の生活は送れない。生活保護の実態をふまえて
もう一度、高齢者問題を考えるべきである。

陸軍船舶部隊築城班に属していた過酷な日々

2017-06-08 05:56:59 | 2012・1・1
昨日、日本列島はほとんどの地で梅雨入りしたが、僕はこの時季になると毎年、人生最大の過酷であった昭和20年6月から7月にかけての梅雨の季節を想い出す。当時中学(旧制)3年生であった僕らは焼跡の東京を後にして、千葉県東葛飾郡梅郷村(現在の流山市)の利根川と江戸川を結ぶ運河の河口で、敵の本土上陸に備え、浚渫工事に学徒動員されていた。沖縄戦は最終段階を迎え、次は九十九里浜への本土上陸だといわれていた。僕らは広島に本部がある陸軍船舶部隊(暁2492部隊)の築城班に配属され、軍隊さながらの生活をしいられた。

僕らは江戸川の堤の上に仮設された”掘立小屋”の兵舎にに詰め込まれ、軍隊の内務班さながらの生活だった。起床ラッパで起こされ就寝ラッパで寝る生活。食事は三食、堤下の農家の納屋の前の広場で食べたが、、食器はなく孟宗竹が2個支給され、まさに一汁一食の毎日であった。ただ救いだったのは、その頃東京では”米のメシ”は食べられなくなっていたが、ここでは雑炊ではなく”米のメシ”が食べられたことだ。それでも育ちざかりの僕らには足りず空腹の毎日で、農家の畠の野菜を盗んで食べた。

仕事は、敵が上陸してきた際、迎撃の味方の船舶を自由に運河を運行させるための浚渫工事であった。当時、シャベルカーなどなく、すべて人力で、僕らは二人、組になってモッコを担ぎ浚渫した泥を地表に運んだ、体力のない子供である。疲れて休むと監督の兵隊から”沖縄を思え”と怒声がとんだ。ドラムカンを改造した屋外の五右衛門風呂に入り、星空の下で軍歌演習をした楽しい想い出もあるが、甘味欲しさに薬局から糖衣剤の胃腸薬を買ってきて食べ、黒い便が出て驚いた苦い想い出もある。14,5歳の子供にとっては過酷すぎる日々であった。

百年前 ロンボク島にいた日本人

2017-06-07 06:27:32 | 2012・1・1
外資系会社に勤める男の孫が仕事の合間をぬってLCC(格安航空)を乗り継いでロンボク島へ遊びに出かけている。いくら外資系といっても日本人の”働き方””遊び方”も僕らの現役時代とは変わってきたものだ。                                                             ロンボク島とは、インドネシアの名の通った観光地バリ島の東隣の小さな島で、近年、マリンスポーツのメッカとして日本の若者たちの間でも人気がああるようだが、30年ほど前までは、訪れる日本人はほとんどいなかった。バリ島と違って、ヒンズー寺院遺跡や、ケチャ踊りといった観光資源があるわけではない。かってロンボクは、ヌサトゥンガラ列島の貧しい小さな小島の一つににすぎなかった。1966年僕が初めてバリを訪れた時も、ロンボクは飢饉に見舞われ、日本政府から義捐金が贈られている。ただ、戦争末期、南方戦線にいた日本軍兵士の中にはは、その末期、豪北から島伝いに西へ移動する作戦の中継地として短期間駐屯した人が多いが、全体的には少数にすぎない。

こんなロンボク島のアンペラという町に1世紀ほど前の大正5年、日本人の博徒13人が居住しており、和蘭人とのケンカで捕まり、親分格は1年3か月の刑に処せられている(「カメラとペン蘭印踏破行」渋川秀樹著 昭和16年)。東海林太郎の歌った”流れ流れて落ち行く先は北はシベリア、南はジャワよ”で始まる「流浪の旅」がヒットしていた時代である。

ロンボク島の博徒たちがどこから流れてきたのか。何を生活の糧にしていたのか。そして末路はどうなったのか。戦前、蘭印に居住していた日本人の記録集「じゃがたら閑話」には、往時の日本人の生活ぶりの一端が残されているが、今と違って大都会だけでなく、蘭印の島々の片隅にまで日本人の足跡を残さている。遊びではなく、生活のためにである。100年の時の流れを感じる。

第三次中東戦争から50年 アラブの亀裂

2017-06-06 05:20:19 | 2012・1・1
すっかり忘れてしまっていたが、新聞の「今週の予定」欄に”第三次中東戦争から50年”とあった。1967年6月5日、イスラエルがエジプト、ヨルダン、シリアの隣接アラブ3か国に侵攻したが、一方的にアラブ側は敗退、戦争は6日間で終った。このことから「6日間戦争」とも呼ばれているが、当時、僕は新聞社の外信部デスクをしており、系列のテレビ局の特別番組に出演したことを想い出した。

”あれから半世紀か”と時の流れの速さに感慨していたら、「6日間戦争」の当事国であった、エジプト、ヨルダンにサウジアラビア、UAE(アラブ首長連邦)バーレーン、イエメン7か国が、同じアラブ国のカタールと外交を断絶したという。理由はカタールがIS(イスラム国)など過激派を支援しているからだという。カタールはUAEやバーレーンと同じ湾岸の小国だが、ISに対しては米国主唱の「有志連合」の一国で国内に米国空軍基地もあるはずだが、よく解らない。

「6日間戦争」前のアラブ世界は、1956年の第二次中東戦争(スエズ戦争)の結果、当時のナセル.エジプト大統領の威信があがり、シリアのバース党(アラブ復興社会党)との連携で「アラブ連合共和国」(UAR)が成立、一時はイエメンもこれに参加、汎アラブ主義が吹いていた。しかし、「6日間戦争」のアラブ側の一方的な敗北で”アラブは一つ”というナセリズムはいっきにしぼんでしまった。

エジプト、サウジアラビアといえば、アラブの大国である。この大国が同じアラブのカタールと国交を断絶するなど昔は考えられなかった。断絶の背景には,カタールが国家資源である天然ガスをめぐってアラブと対立関係が深いイランと融和的であり、サウジアラビアのスンニ派に対して、シーア派のイランがイエメンなどの内乱を助長している、ということらしい。アラブの統一は難しい。亀裂がこれ以上深まらなければよいが。

ロンドン橋のテロと不寝番の警備

2017-06-05 06:13:12 | 2012・1・1
ロンドンの中心街を流れるテームズ川にかかるロンドン橋とその近くのマーケットで週末の土曜日の夜、イスラム過激派によるテロが発生、7人が殺され48人が負傷した。最近、英国ではマンチェスターでもISに同情的なリビア人のテロで25人が犠牲になったテロが発生したばかりである。

ロンドン橋と聞いて僕は日本でもよく歌われている童謡「ロンドン橋」を思い起こした。戦争中、英語は敵性語と軽視されていた時代に育った僕だが何故か「London Bridge」を英語で歌える。
♯  London Bridge is falling down, falling down
falling down London Bridge is falling down ,My fair lady 
(ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる ロンドン橋  落ちる マイ フェア レデイ)  
恐らく、戦争直後の英語ブーム時代、どこかで教わったのだろう。

平成2年(1990年)息子がロンドンに在勤、テームズ川の上流に住んでいた時、この歌の歌詞全文を調べた。10番まであって、橋が木や泥、モルタルや銅など、どんな材料を使っても流されてしまう歴史を歌い、最後に仕方がないから”set a man watch all night"(不審番の夜警を置こう)でしめている。

息子の家はテームズ川の上流で川幅も狭く、護岸も整備されていなかった。おそらくシェクスピア時代のロンドン橋も木と泥で造られていたのだろう。流失されないために不寝番の夜警が必要であった。今は橋自体は堅固に出来ているが、昔はあったのかどうか知らないが、テロの警備のために警察が寝ずの警備をしている。時の川の流れを感ずる。

                                                            

  











”働き方改革” 深夜勤務への配慮も

2017-06-04 06:04:54 | 2012・1・1
現役時代の先輩(90)から”初夏の侯いかがお過ごしですか。住所と電話の変更についてお知らせします”と転居の葉書が届いた。転居先の住所を見ると、先輩が住んでいた南関東の市の近くの老人施設である。先輩は夫人に先立たれたあと、大学で教えながら独り暮らしで長い間頑張ってこられた。しかし、老人の独居生活はやはり限界があるのだろう。引っ越された施設は医療介護設備が整っている。

政府は今、大臣まで置いて”働き方改革”に取り組んでいる。過労死から端を発したもので、もう一度日本人の働き方を見直そうというものだ。例えば残業時間の上限を月45時間、年間360時間に抑えこもうという案のようである。僕は先輩の転居葉書から、半世紀近く前、先輩と職場を共にしていた時代を想起した。僕らの会社は「残酷」と世評があったほど、労働条件が悪かった。そのうえ、深夜の勤務が多く、週に三回も宿泊があった。そのためであろう。当時の仲間は先輩を除き、ほとんど早逝している。

”働き方改革”は残業だけであなく、例えば深夜勤務なども検討する必要がある。先輩と宿泊勤務を一緒にしたとき、彼は会社から支給される深夜食は一切口にしなかった。深夜食にしてはボリュームが重く、それに不味かった。先輩は必ず夫人が作った弁当を持参してきた。先輩は酒も飲まずタバコも吸わず、ある意味では”つき合い”の悪い男の代表であった。

今でも職種によっては宿泊勤務が多い職場もあると思うが、よほど強靭な肉体と心の持ち主ではないと健康に害がある。先輩のお元気な転居届から、半世紀前の劣悪な職場環境と、その犠牲になった仲間たちのことを想いだした。

プーチンの本心 ”食い逃げ”御用心

2017-06-03 06:02:49 | 2012・1・1
”北方四島が日本の主権下になれば、米国の基地が置かれる”とプーチンが変な理屈をつけてきた。所詮、彼には四島を日本に返還する気持ちはほんのカケラもないのである。これはつい先日、サンクトぺテルブルグであった、世界主要通信社代表者会談の席上でのプーチン大統領の発言である。プーチンは一か月ほど前の大型連休にモスクワを訪れた安倍総理に対しては、顔に笑みを浮かべ「日露間の共同経済活動」について握手を交わしていた。

北方領土、四島返還を目指す両国間の平和条約締結については、昭和31年(1956年)の日ソ(当時)共同宣言で、条約締結後は四島の内、歯舞、色丹については、日本に返還される、とはっきり明言されている。在日米軍基地の問題は昭和35年1月の「日米地位協定」で決めらえたもので、日露間の問題ではない。

安倍総理は昨年12月、プーチン大統領を故郷の長門に招き大歓迎し、さらに今年の大型連休にもモスクワへ足を運び、プーチンと”17回目”の話し合いをしている。安倍総理は。自分たちの世代で、懸案の問題を解決したいと抱負を述べている。日本人の誰でもが解決を望んでいる問題である。しかし、プーチンには、日ソ共同宣言を遵守して、四島を返還する気持ちはない。元島民の航空機による墓参とか「共同経済活動」だけである。言葉は悪いが、ロシアの”食い逃げ”がありありだ。

一昨年暮の日韓間の慰安婦をめぐる”最終的、不可逆的”条約といい、安倍内閣の外交交渉は美辞麗句で歌い上げているが、何か今一つ心もとない。したたかなプーチンに引きずりまわされないようご用心。

気になる多発する現代版「姨捨山」

2017-06-02 05:28:43 | 2012・1・1
産經新聞の6月1日付け首都圏版の社会面横組み雑報欄に”ロッカー死体遺棄事件2年情報呼びかけ”という小さな記事が載っていた。僕も忘れかけていたが、2年前、JR東京駅構内のロッカーの中からトランク詰めの老人女性の遺体が発見された。記事は2年経過してもいまだに被害者の身元さえ発見されず未解決なので、所轄の丸の内警察署が、被害者の似顔絵入りポッケット.ティッシュを配布、解決へ改めて協力を求めているというものだ。

日本の首都東京の表玄関口、東京駅構内で起きた、いわば象徴的な現代版”姥捨山”事件である。これが2年経過してもまだ未解決とは驚きである。しかし、毎日、新聞を見ていると、あまりにも老人にかかわる事件事故が多すぎる。同じ日の産經新聞都内版には”民家で高齢者女性死亡、男が首切り搬送”という記事があった。個人秘密情報の関係からか、持って回った表現だが、50代の息子が介護疲れからか、80代の女性を殺して自分も死のうとした心中未遂事件である。調べると、東京では前日も渋谷区神山町の3階建ての住居で80代の老夫婦の遺体が発見されたり、練馬区春日町では、住民の女性(80代)が首にベルトを捲かれ死亡しているが、詳報も続報もなく詳細は不明だ。

福井県敦賀市の海岸でも80代の男性の遺体が放置され、50代の息子が保護責任者遺棄で逮捕された。北海道の砂川でも80代の女性が親類の男たちよってカネを奪われたうえ土中に埋められた事件もあった。こういった事件が全国的に日常茶飯事のようになってきたのだろうか。新聞が詳しく系統的に伝えなくなってきたのでよく判らない。佐藤愛子さんの「九十歳何がめでたい」がベストセラーになっているそうだが、現代は長寿万歳の時代ではなくあってきたのか。

「食品ロス」 71年前の飢餓の日々を想う

2017-06-01 05:15:50 | 2012・1・1
孫の男の大学生がアルバイト先のスーパー―店から”賞味切れ”期限が迫った握り寿司を頂戴してきた。わが家ではめったにお目にかかれない高級品だ。こういった”賞味切れ”食品の事を業界言葉で「食品ロス」というのだそうだ。昨日テレビ番組で、この「食品ロス」の特集をしており、デパートの食品売り場に大勢の客が押しかけているのを見た。まさに飽食の”もったいない”時代である。「政府オンライン」のHPによると、わが国では年間630万トン、日本人一人当たり、お茶碗一杯分(136グラム)「食品ロス」が出ているとのことだ。

戦中戦後の食糧難時代に育った僕は中でも日本が飢餓寸前に陥った71年前のことが忘れられない。昭和21年(1946年)5月から6月にかけて日本列島は飢餓寸前であった。”米寄こせメーデー”(5月19日)があり、群衆が赤旗を掲げ皇居前広場に押しかけた年である。亡父の残した日記によると、わが家3人の5月1か月分のコメの配給は5キロと小麦粉少々であった。6月9日には、遅配の小麦粉にかわって”マ司令部”(マッカーサー連合軍司令部)から牛肉のカン詰の配給、6月12日には”空腹と寒さ(この年は雹が降るなど異常気象)に耐えられず、夕刻5時就寝”とある。僕も連日、母親が小麦粉に乾燥芋の粉などを混ぜたスイトンや雑炊でハラペコだった記憶がある。学校は午前中だけの授業だった。

横浜新港の一角に昭和天皇の御妃、香淳皇后が昭和24年、昭和天皇と共にLALA(米国の民間救済団体)の倉庫を視察された時に詠まれた御歌二首の歌碑がある。
▽ ララの品積まれたるを見て、とつくにのあつき心になみだこぼれる
▽ あたたかき とつくに人のこころつくし、ゆめな忘れそ
戦後の学校給食の始まりとなったララからの救援物資を積んだ初めての船が横浜港に着いたのは昭和21年11月30日である。亡父のの日記は、わが家の緊急備蓄食糧も底をつき、亡母が遠い祖先の地までSOSで買い出しに出かけ、ほっと一息つくとある。思えば空前絶後の厳しい時代であった。