ミラノ・スカラ 第3夜 ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』
<キャスト>
トリスタン~イアン・ストーリー(T)
イゾルデ~ワルトラウト・マイア(S)・・・この人、本来はメッツオ・ソプラノということだけれど。
マルケ王~マッティ・サルミネン(Bs)
クルヴェナール~ゲルト・グロホウスキ(Br)
メロート~ウィル・ハルトマン(T)
ブランゲーネ~ミシェル・デ・ヤング(Ms)
合唱…ミラノ・スカラ座合唱団,管弦楽…ミラノ・スカラ座管弦楽団,指揮…ダニエル・バレンボイム
【演出】パトリス・シェロー
☆ 天才作曲家のリヒャルト・ワーグナー(ドイツ語読みではヴァーグナー)の代表的な作品『トリスタンとイゾルデ』全3幕。
スカラのオーケストラはドイツ系のオーケストラよりも明るくメリハリのきいた音質、指揮は天才と名高いバレンボイム、
指揮者であるとともにベートーヴェンの111番ピアノソナタを若いころ弾いて魅了した「神童」でもあった。
同時に料理の名人、これはシノーポリもそうだったが。(シノーポリは指揮者・作曲家・料理人というマルチぶりだった)
仲間を呼んで料理をふるまっていたのをテレビで見たことがある。シノーポリのほうが料理は上か?・・・
それはさておき、オペラだが、かつてはニルソンやホッターが歌った。
ホッターのマルケ王は切々と歌い、泣けてくるほどの感動、そしてニルソンの強靭な美声には魅了なんていうものでなかった、
これは空前絶後のイゾルデだった。
ゲネプロ(練習)も見に行ったが、練習ではニルソンは高音は出さず、歌う真似をしているだけだが、力強い中低音の美感でも十分だった。
ところでやはり今の歌手はワーグナーでもリリカルというか、繊細とでもいうか、声が十分ではないと・・・(書いてしまった)
マルケ王を歌ったベテランのサルミネンはホッターのような説得力や慈愛という表現の大きさよりも、孤独で優しい老翁のイメージ、
トリスタンを歌ったテノーレは力強い高音、ワーグナーの音楽を十分に歌っていた。しかし、髪も髭も真っ白というのは青年には程遠い。
なぜそのままステージに? トリスタンは青年なのに。
ヘルデンテノールという英雄的な声を持った歌手だ。悩み深い役柄をよく歌っていた。
でもワーグナーのヘルデン・テノールをよく歌っているとこのように、声に揺れが出てくるのも早いのか、ヴイブラートが気になる。
イゾルデを歌うマイアはベテラン。
メッツオ・ソプラノ出身であるというが声そのものは決してドラマティックな重量感はない。
少し全盛期を過ぎたのかなと思った。骨粗鬆症かのような?スカスカの響きに思う。
メードルやヴァルナィなどニルソンが出てくるまでも偉大なワーグナー歌手がいた。
マイアはまるでドイツリート(歌曲)を歌うかのような繊細さ。世界的にドラマティックな声の歌手が少なくなったのかも知れない。
イタリアオペラでないのでベルカントがどうなどと気にしなくていい、ワーグナーの旋律そのもので聴かせるというのでなく、歌の背景の
オーケストラが歌詞では表現していない裏側の心理を奏でて、それが独特の魅力となっている。
物語は美しいイゾルデ姫をマルケ王の花嫁として届けるはずのトリスタンは、イゾルデに恋しているのをあきらめようとしているが、
イゾルデ姫はトリスタンをあきらめることができず「毒薬」をともに飲んで死のうとするが、侍女のブランゲーネが「惚れ薬」と
入れ替えてしまい、トリスタンとイゾルデは「不倫」をコントロールできずに、破滅の奈落の底に・・・。
イゾルデがフィナーレに「愛の死」を歌うが、ニルソンは素晴らしかった。マイアは線が細いし・・・。
それにイゾルデが血まみれになって「愛の死」を歌うなんて、ちょっとショックな演出、カーテンコールも血まみれなまま。苦手だ。
三島由紀夫氏がこのオペラの前奏曲を好きで自作の映画にも取り入れていたことは有名。
当時、パトリス・シェローの演出は斬新でワーグナーの孫である演出家ヴィーラントが舞台を光と影の証明だけで「能」のように象徴的な
演出をしていたのに比べ、賛否両論だったときいたが、今のバイロイトなどの演出を思うとなんとクラシックに思うことか。
舞台装置も昔の城壁を分厚く作っており見た目も重厚。
指揮のバレンボイムは歌手にとって歌いやすいように思うが、音の渦巻きのようなワーグナー独特の分厚さよりも、繊細で透明と思った。
スカラのオーケストラは美しく申し分ない。
戦後まもなく、フルトヴェングラーがどこにも受け入れてもらえず、ミラノスカラで指揮して忘れられない魅力ある名演だったことを
youtubeで聴いたが、1950年代はイタリア・ドイツとも敗戦国で貧しかったに関わらず、芸術の水準はどれほど高かったか、そして
聴衆がどれほどオペラを愛し、育ててきたことか。