★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

親父

2017年10月30日 19時43分15秒 | 徒然(つれづれ)
 おふくろの葬儀を終えて、親族で会食をしている時に、叔母が私に耳打ちした。
「お父さんの、ちょっとおかしかとよ。喋る時に、ちょっと言葉がもつれると」
 長男であるにもかかわらず、私は大学卒業と同時に、大阪で就職していたので、九州の実家に帰るのは盆か正月くらいで、それもここ数年は間遠になり、いつしか私は不惑を越えていた。
 アルツハイマー病で長らく入院していたおふくろが亡くなり、葬儀のために久しぶりに帰省した。
 喪主を務めた親父は参列者への挨拶も、流暢とはいえないまでも、ちゃんとこなし、言葉のもつれなど気がつかなかった。
「おふくろが亡くなって、気落ちしたせいやろう?」
「あんたは、たまにしか会わんけん、わからんやろうけど、ここ数ヵ月でもつれが目立って来とるとよ」

 それが兆しだった。
 葬儀からひと月ほどあとに、親父と同居していた弟から電話で、親父がALSという難病を発症しているという連絡があった。
 食事の時に、汁物やお茶を口から垂れこぼすことが目立つようになり、病院で診てもらったところ、筋委縮性側索硬化症、いわゆるALSと診断されたのだ。
 治療法はなく、進行状況も人によって異なり、最後は全身麻痺の状態になるという。
 この病気の恐ろしいところは、全身の筋肉が完全に麻痺しても、五感や意識は最後まで正常という点だ。
 弟に聞いたところでは、その時点までに、手足にも若干の麻痺があることを、親父は自覚はしていたものの、そのうち治るだろうと思っていたようだ。

 病は気からというが、病名を知った時点で、親父の症状は急速に悪化し、それから三ヵ月後には入院を余儀なくされた。
 入院当初はリハビリと称して、歩行器で院内を歩いていたが、半年も経つと、ベッドで寝たり起きたりの状態、二年、三年と経つうちに、寝たきり状態となり、瘻管、呼吸器の装着となった。
 それがせめてもの親孝行だと自分に言い聞かせ、私は盆、正月には極力帰省するようにし、そのうち一日は親父の病室で過ごした。

 親父は元来無口で、私が反抗期を経て、中学を卒業するあたりから、親子の会話は少なくなった。
 別に敵対していたわけではないが、親父と息子、男同士とはそういうものだろう。

 微動だにしない親父の身体で、唯一動くのが瞼だった。
 その目はじっと私を直視していた。
 耳は聴こえても、反応はできない親父に向けて、私は嫁の事や娘の事、仕事の事などを思いつくままに、独り言のように話すのだが、すぐに話題は尽きる。
 親父と共通の話題は、それこそ小学校低学年まで遡るが、いかんせん私もほとんど忘れているか、淡い映像としては浮かぶのだが、それを言葉にするのが難しい。
 思考はその映像を辿りながら、遠い昔を思い出そうと努めるが、セピアの靄の奥は見えない。

 親父には私が見えているし、声も聴こえているはずだ。
 物言わぬ親父が何を思っているのか、正直わからない。
 なんでもない会話というのが、いかに大切かということを思い知る。
 心と心が通じ合うなんてことはないと思う。
 言葉にしてこそ分かり合えるのだ。

 もっと話をしておけばよかった。

 話題のなくなった私は、鞄からハーモニカを出した。
 私は趣味のバンドで、ギターとブルースハープという十穴のハーモニカを吹いていた。
「故郷」を吹いてみる。
 小学生の時に親父に習ったやつだ。
 霞んだ視界の中で、親父は目をつぶって聴いていた。

 今年はそんな親父の十三回忌だった。
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京都青春セレナーデ

2017年10月30日 07時13分55秒 | 徒然(つれづれ)
 昔の日本酒のCMに「甘口の酒が多いとお嘆きの貴兄に、辛口の菊正を贈ります」というのがあった。

 それは私の小説にもいえるかもしれない。
「甘口の青春小説が多いとお嘆きの貴兄に、辛口の京都青春セレナーデを贈ります」

 時は1973年、大学入学を機に、熱く燃える青雲の志を胸に、九州の田舎町から勇躍、京都へやってきた修二。
 パソコンも携帯電話もなかったあの頃だが、そんなことなどおかまいなく、修二の青春は花開いていた。
 懐かしい京都の街でのキャンパスライフ、バンド活動や男女交際、アルバイトや合宿、酒に煙草、パチンコに競馬、青春のモラトリアムは、ジェットコースターのように疾走する。

 同年代にはノスタルジーの甘く切ない、痛みにも似た感動を、若い世代にはアナログ感覚の温故知新を贈ります。
 

拙著「京都青春セレナーデ」、10月30日17:00~11月4日17:00までアマゾン・キンドルにて無料キャンペーン実施中

 続編の第2弾「京都青春ラプソディ」、第3弾「京都青春コンチェルト」は、もっともっとヒートアップしていきます。
 そちらも合わせてご購読ください。

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昭和30年

2017年10月30日 00時04分39秒 | 徒然(つれづれ)
 私は昭和29年生まれだ。
 私たちの学年は昭和29年生まれと、早生まれの昭和30年組が併存する。

 昭和29年と30年の1年の違いは、昭和64年と平成元年ほどではないが、それなりに大きい。

 昭和29年は、第二次世界大戦が終わった昭和20年と同じ20年代だ。
 あの悲惨な終戦から、ほんの9年しか経っていないのだ。
 私の田舎では、まだまだ戦後を引きずっていた灰色の時代だ。

 昭和30年代は戦後が終わり、高度成長の上昇カーブの中、東京オリンピックの開催、東海道新幹線の開通と、輝ける飛躍の時代だ。

 悩み多き青春時代には、生年月日を聞かれ、昭和20年代生まれというのが、なんとなく恥ずかしかった。
 30年生まれの奴に、少なからず嫉妬を覚えたものだ。
 なんで学年の区切りを中途半端な月にしたのだろう。
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