おふくろの葬儀を終えて、親族で会食をしている時に、叔母が私に耳打ちした。
「お父さんの、ちょっとおかしかとよ。喋る時に、ちょっと言葉がもつれると」
長男であるにもかかわらず、私は大学卒業と同時に、大阪で就職していたので、九州の実家に帰るのは盆か正月くらいで、それもここ数年は間遠になり、いつしか私は不惑を越えていた。
アルツハイマー病で長らく入院していたおふくろが亡くなり、葬儀のために久しぶりに帰省した。
喪主を務めた親父は参列者への挨拶も、流暢とはいえないまでも、ちゃんとこなし、言葉のもつれなど気がつかなかった。
「おふくろが亡くなって、気落ちしたせいやろう?」
「あんたは、たまにしか会わんけん、わからんやろうけど、ここ数ヵ月でもつれが目立って来とるとよ」
それが兆しだった。
葬儀からひと月ほどあとに、親父と同居していた弟から電話で、親父がALSという難病を発症しているという連絡があった。
食事の時に、汁物やお茶を口から垂れこぼすことが目立つようになり、病院で診てもらったところ、筋委縮性側索硬化症、いわゆるALSと診断されたのだ。
治療法はなく、進行状況も人によって異なり、最後は全身麻痺の状態になるという。
この病気の恐ろしいところは、全身の筋肉が完全に麻痺しても、五感や意識は最後まで正常という点だ。
弟に聞いたところでは、その時点までに、手足にも若干の麻痺があることを、親父は自覚はしていたものの、そのうち治るだろうと思っていたようだ。
病は気からというが、病名を知った時点で、親父の症状は急速に悪化し、それから三ヵ月後には入院を余儀なくされた。
入院当初はリハビリと称して、歩行器で院内を歩いていたが、半年も経つと、ベッドで寝たり起きたりの状態、二年、三年と経つうちに、寝たきり状態となり、瘻管、呼吸器の装着となった。
それがせめてもの親孝行だと自分に言い聞かせ、私は盆、正月には極力帰省するようにし、そのうち一日は親父の病室で過ごした。
親父は元来無口で、私が反抗期を経て、中学を卒業するあたりから、親子の会話は少なくなった。
別に敵対していたわけではないが、親父と息子、男同士とはそういうものだろう。
微動だにしない親父の身体で、唯一動くのが瞼だった。
その目はじっと私を直視していた。
耳は聴こえても、反応はできない親父に向けて、私は嫁の事や娘の事、仕事の事などを思いつくままに、独り言のように話すのだが、すぐに話題は尽きる。
親父と共通の話題は、それこそ小学校低学年まで遡るが、いかんせん私もほとんど忘れているか、淡い映像としては浮かぶのだが、それを言葉にするのが難しい。
思考はその映像を辿りながら、遠い昔を思い出そうと努めるが、セピアの靄の奥は見えない。
親父には私が見えているし、声も聴こえているはずだ。
物言わぬ親父が何を思っているのか、正直わからない。
なんでもない会話というのが、いかに大切かということを思い知る。
心と心が通じ合うなんてことはないと思う。
言葉にしてこそ分かり合えるのだ。
もっと話をしておけばよかった。
話題のなくなった私は、鞄からハーモニカを出した。
私は趣味のバンドで、ギターとブルースハープという十穴のハーモニカを吹いていた。
「故郷」を吹いてみる。
小学生の時に親父に習ったやつだ。
霞んだ視界の中で、親父は目をつぶって聴いていた。
今年はそんな親父の十三回忌だった。
「お父さんの、ちょっとおかしかとよ。喋る時に、ちょっと言葉がもつれると」
長男であるにもかかわらず、私は大学卒業と同時に、大阪で就職していたので、九州の実家に帰るのは盆か正月くらいで、それもここ数年は間遠になり、いつしか私は不惑を越えていた。
アルツハイマー病で長らく入院していたおふくろが亡くなり、葬儀のために久しぶりに帰省した。
喪主を務めた親父は参列者への挨拶も、流暢とはいえないまでも、ちゃんとこなし、言葉のもつれなど気がつかなかった。
「おふくろが亡くなって、気落ちしたせいやろう?」
「あんたは、たまにしか会わんけん、わからんやろうけど、ここ数ヵ月でもつれが目立って来とるとよ」
それが兆しだった。
葬儀からひと月ほどあとに、親父と同居していた弟から電話で、親父がALSという難病を発症しているという連絡があった。
食事の時に、汁物やお茶を口から垂れこぼすことが目立つようになり、病院で診てもらったところ、筋委縮性側索硬化症、いわゆるALSと診断されたのだ。
治療法はなく、進行状況も人によって異なり、最後は全身麻痺の状態になるという。
この病気の恐ろしいところは、全身の筋肉が完全に麻痺しても、五感や意識は最後まで正常という点だ。
弟に聞いたところでは、その時点までに、手足にも若干の麻痺があることを、親父は自覚はしていたものの、そのうち治るだろうと思っていたようだ。
病は気からというが、病名を知った時点で、親父の症状は急速に悪化し、それから三ヵ月後には入院を余儀なくされた。
入院当初はリハビリと称して、歩行器で院内を歩いていたが、半年も経つと、ベッドで寝たり起きたりの状態、二年、三年と経つうちに、寝たきり状態となり、瘻管、呼吸器の装着となった。
それがせめてもの親孝行だと自分に言い聞かせ、私は盆、正月には極力帰省するようにし、そのうち一日は親父の病室で過ごした。
親父は元来無口で、私が反抗期を経て、中学を卒業するあたりから、親子の会話は少なくなった。
別に敵対していたわけではないが、親父と息子、男同士とはそういうものだろう。
微動だにしない親父の身体で、唯一動くのが瞼だった。
その目はじっと私を直視していた。
耳は聴こえても、反応はできない親父に向けて、私は嫁の事や娘の事、仕事の事などを思いつくままに、独り言のように話すのだが、すぐに話題は尽きる。
親父と共通の話題は、それこそ小学校低学年まで遡るが、いかんせん私もほとんど忘れているか、淡い映像としては浮かぶのだが、それを言葉にするのが難しい。
思考はその映像を辿りながら、遠い昔を思い出そうと努めるが、セピアの靄の奥は見えない。
親父には私が見えているし、声も聴こえているはずだ。
物言わぬ親父が何を思っているのか、正直わからない。
なんでもない会話というのが、いかに大切かということを思い知る。
心と心が通じ合うなんてことはないと思う。
言葉にしてこそ分かり合えるのだ。
もっと話をしておけばよかった。
話題のなくなった私は、鞄からハーモニカを出した。
私は趣味のバンドで、ギターとブルースハープという十穴のハーモニカを吹いていた。
「故郷」を吹いてみる。
小学生の時に親父に習ったやつだ。
霞んだ視界の中で、親父は目をつぶって聴いていた。
今年はそんな親父の十三回忌だった。