今週の散歩に9年前に発売され多いに入れこんだFuji FinepixS5と、EOS1Ds mark3とを使い分けてみた。前者は1200万画素(iPhone7と同じ)だが特殊な素子の配列なので実効は600画素、ツァイスのレンズ(iPhoneにもツァイスのレンズがある)をつけても色は綺麗だが今ひとつシャープさに欠けるのは画素数の差か。後者は今風に使えているがレンズがいささか古い。そしてそれらよりシャープなのがiPhone7だったりする。レンズの明るさf1.8で5倍のデジタルズーム機能を持つiPhone7の優れもの感がわかる。
そうなる、iPhone7だけあればよいことになる。せいぜい互角なのはオリンパスぐらいだから、これを残して以前あれほど入れ込んだすべての機材を処分するのがデジタル時代の合理的判断なのだろう。
しかし、そういう風に感情が合理的精神に追随しないところに時代の差を感じている。つまり思い入れや思い出しがあって、困ったことに古い機材をネチネチといじりまわしている。
今はその一眼レフという言葉自体がなくなりつつある。iPhoneにサードパーティー製の超望遠ズームなんかつければいいじゃん、といわれれば確かにその通りである。 実際Lantooというブランド名で18倍ズームレンズが三脚付き3,588円だよ。
だから次第に撮影機材というが概念自体がなくなりつつある。それは、つまり撮影機材自体もいらなくなりつつあるということだ。そして撮影を商売にする仕事もなくなるかもしれない。それは写真家です、なんてふんぞりかえっているいる場合ではない。そんな存在自体がなくなりつつあるのだから。
研究者からみれば、研究機材と素人機材とは仕様も価格も決定的に違う。それが写真の世界では、みんな同じ機材を使用している。そのこと自体がこれからのプロという概念を成立できにくくしている。もはや写真の世界でプロという概念が存在する余地があるのだろうか。そのように問いただせば写真の弱さがそこにある。
もう一ついえば、研究機材と素人機材との差もなくなりつつあると思われる。つまり科学技術というのは一般化する方向を目指しているからだ。パソコンも専門的なオペレーションをすることなく使えるというのも一般化の結果なのだ。そうなるとこちらも研究者ですなんてふんぞり返っている場合ではない。こちらも危うい仕事になっちまうではないか。さらにその上を目指さなければ。
今や誰でもがiPhoneを始めとするスマホカメラで最もよい瞬間をとらえられるようになった。そこにいあわせた誰でもが文章を書き写真も撮りアップさせるという時代なのだ。雑誌出版社の要請でもなければ、写真家達が登場する余地はないのだろう。
つまり、スマホカメラ!!!が結構優秀なんだという話。今日のアップ画像なんかスマホカメラで望遠ズームなんか付けちゃうと連写モードで撮れるんじゃないですか。
鎌倉市コジキ浜
2005年5月7日
EOS KIss Didital,EF100-400mm
ISO200,焦点距離330mm,露出補正-1/3,f/8,1/500