デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

霧深きロンドン

2012-07-29 07:57:46 | Weblog
 オリンピックといえばロンドン、ロンドンというと霧、霧のロンドンなら霧のロンドン・ブリッジ、霧のロンドン・ブリッジはジョー・スタッフォード・・・先日開幕したロンドン・オリンピックからは幾つかのキーワードを連想する。これでスタッフォードのジャケット写真を掲げてあれば実に素直で分かりやすいとお褒めの言葉の一つや二つをいただけるのだろうが、どうにも皮肉れているのでこう素直にはいかない。

 ここで全く違う話題になるとセシル・テイラーの展開だが、正統に広げると「ア・フォギー・デイ」が出てくる。当初のタイトルは、「A Foggy Day In London Town」だから的の得た選曲、ということにしておこう。ガーシュイン兄弟が37年に映画「踊る騎士」のために書いた曲で、劇中では主演のフレッド・アステアが歌っていたが、歌ってよし、演奏してよし、のラブバラードである。バラードの演奏となるとスリングスをバックにホーンがじっくり歌い上げると絵になるが、この曲はアヴァンギャルドでも、速いテンポでも様になるから不思議だ。ガーシュインというスケールの大きさが演奏スタイルを選ばないのだろう。

 小澤征爾氏が指揮するオーケストラと共演したこともある盲目のピアニスト、マーカス・ロバーツが、「ガーシュイン・フォー・ラバーズ」でこの曲を取り上げている。87年の第一回セロニアス・モンク・コンペティションで優勝して一躍有名になったマーカスだが、同時代のピアニストでは最も歌心を持っているといっていいだろう。ソロで弾くこの曲にしても霧、ロンドン、恋人、太陽といった歌詞のキーワードから鍵盤で組み立てたストーリーを語るように弾いている。ロンドンには行ったことがないが、繊細なタッチからは霧の降る速度や湿度、温度も体感できるし、霧が晴れて心までもが晴れる情景が見えてくるようだ。

 回りが見えないことから霧は不安な心模様に例えられるが、大きな山をも隠してしまう自然にロマンティックを重ねることもある。前者の代表といえばエロル・ガーナーの「ミスティ」だが、後者は?ギターの名曲「夜霧のしのび逢い」や「霧のカレリア」、日本ではディック・ミネの「夜霧のブルース」、北海道の名曲「霧の摩周湖」、カラオケで歌うときは必ず石原裕次郎になりきる「夜霧よ今夜も有難う」・・・挙げると「キリ」がない。
コメント (22)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハイノート・ヒッター、ボビー・シューの憂鬱

2012-07-22 08:15:00 | Weblog
 演奏旅行がメインであるビッグバンドのトランペット・セクションには、非常に高い音域を出すことで聴衆を沸かせるハイノート・ヒッターと呼ばれる奏者がいる。高音域の正確さでは群を抜いているエリントン楽団のキャット・アンダーソン、自分が目立ちたいがために、それだけが売り物のビッグバンドを結成したメイナード・ファーガソン、最近ではキューバ生まれアルトゥーロ・サンドヴァル等、数えるほどしかいない。

 そして忘れてならないのがボビー・シューだ。元々はアドリブ奏者でハイノートには縁のないトランペッターだが、バディ・リッチ楽団にいたとき、或る日突然不幸(笑)が訪れる。バンドのリード・トランペット奏者が急に退団することになり、リードのポジションを任されることになった。いきなりリード奏者になったからといってハイノートは出せないが、そこは不可能という言葉を知らない鬼のリーダーの命令とあればやるしかない。早速シューはあらゆる教則本を試し、さらに数々のバンドに引っ張りだこのハイノート・ヒッター、バド・ブリスボイスの教えを乞い、短期間で完全にマスターしたというから凄い。

 「You and the Night and the Music」は、81年にアトラス・レーベルに吹き込まれたアルバムで、ビッグバンドを渡り歩いてきたシューには珍しいコンボ作品だ。プロデュースしたのは石原康行氏で、ウエスト・コーストの乾いたサウンドを再現した録音は、シューやバド・シャンク、マイク・ウォフォードというウエスト・コースター特有の明るい音を楽しめる。都会の夜景が浮かぶタイトル曲も素晴らしいが、ノスタルジックな趣きがある「アイ・ヒア・ア・ラプソディー」にシューらしさが出ている。ジミー・ドーシー楽団でヒットした曲で、おそらく何度も吹いたであろうシューの良くコントロールされた音色が心地良い。

 バディ・リッチは今更説明を必要としない偉大なドラマーだが、予備のスティックを数十本用意していたそうだ。手が滑り、落とすこともあるので、スペアはドラマーにとっては必需品だが、リッチはミスをしたプレイヤーにリハーサルであろうとステージであろうと容赦なくスティックを投げるのだという。ハイノートで苦労していたシューが聞いたのはラプソディーではなく、スティックが飛んでくる音だったかもしれない。
コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私をジャズ・フェスに連れてって

2012-07-15 08:12:21 | Weblog
 夏だ!ビキニだ!サマージャンボだ!1等4億円だ!ではなく夏といえばジャズ・フェスだ。ここ札幌でも今月初めからサッポロ・シティ・ジャズが始まった。特設会場を中心に長期に亘って多くのプログラムが組まれているが、メンバーを見て吃驚仰天!日本ジャズ界の重鎮の名もあるとはいえ、このプレイヤーのどこがジャズよ!と言いたくなるメンバーばかりだ。本物のジャズより、Jポップのほうが人を呼べるということだろうか。

 今や全国で開催されるジャズ・フェスはニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに倣ったものだが、60年のその第7回フェスに抗議したのはミンガスである。怒れるミンガスの声を聞いてみよう。「フェスティヴァルが経済的にも大成功を収めているにもかかわらず、その出演料が不当に安い!」と。出演できるのが名誉だからギャラは安くてもかまわない、が主催者側の主張か。日本の某放送局の年末の番組のような構図だ。さらに、「同フェスが回を重ねるごとに当初の主旨から逸脱し、非音楽的で、コマーシャリズムにのったお祭り騒ぎに終始している!」と。何と、サッポロ・シティ・ジャズのプログラムを開いた小生と同じ意見ではないか。

 同年、フェスの出演を拒否したミンガスは、親友のナット・ヘントフの協力を仰ぎ、同会場の近くのホテルで独自にコンサートを開催している。そのとき集まったジャズ・アーティスト・ギルドと呼ばれるメンバーで録音したのが「ニューポート・レベルズ」で、盟友のマックス・ローチをはじめエリック・ドルフィー、ロイ・エルドリッジ、トミー・フラナガン、ジョー・ジョーンズ等、錚々たる顔が並ぶ。反逆児の抗議となると騒々しい感じがするが、音楽的には優れたもので、「Wrap Your Troubles in Dreams」というスタンダードも取り上げている。「苦しみを夢に隠して」という邦題が付いているが、ミンガスが隠したのは怒りだろう。怒りを全て顕わにしたら翌年のフェスはなかったかもしれない。

 大規模のジャズ・フェスを運営するためには出演プレイヤーのスケジュールの調整や、スポンサーの意向等々、一観客には想像も付かない苦労もあるだろうが、サッポロ・シティ・ジャズが「札幌がジャズの街になる」をスローガンに創設されたなら、ジャズの冠に恥じない本物のジャズで構成されたフェスティヴァルにすべきではないか。来年は、「私をジャズ・フェスに連れてって」の声がかかるのを期待したい。
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グッド・モーニング・ハートエイクは哀しい

2012-07-08 07:52:49 | Weblog
 恋人に去られた悲しみ、そんな哀しい女心を歌わせたらビリー・ホリデイに敵うシンガーはいない。「グッド・モーニング・ハートエイク」もそのひとつで、曲紹介には作者のアイリーン・ヒギンボサムはテディ・ウィルソンの元妻、と書かれているが、どうやら別人のアイリーンで、チェック・ウェッブやルイ・アームストロングの楽団で豪快なトロンボーンを吹いていたJ.C.ヒギンボサムの姪らしい。どちらにしても女性でなければ書けないバラードである。

 46年にビリー自身の歌で大ヒットしているが、この女心に一歩入り込んだ曲に刺激を受けてフランソワーズ・サガンは、「悲しみよこんにちは」を書いたそうだ。「心の痛み」を擬人化した曲だが、その「心の痛み」は当時18歳だったサガンの乙女が持つ繊細な痛みであり、主人公である17歳の少女が抱える悩める痛みなのかもしれない。ビリーに憧れたシンガーなら一度は歌う曲でカヴァーも多いが、サガンといえばフランスの作家である。意図したわけでもなく、こじ付けでもないが、偶然にも(笑)トリコロールのデザインのジャケットで、この曲を取り上げているアルバムがあるではないか。

 オードリー・モリスである。パリジェンヌが小洒落たビストロで歌う情景が浮かぶが、モリスは10代のころビリーを夢中で聴いたというアメリカ人だ。ピアノの弾き語りでクラブに出演していたところ、たまたま聴いたXレーベルのプロデューサーが気に入り、レコーディングしたのがこの作品である。勿論得意の弾き語りで、バックにはベースとシンバルが配置されているもののアクセントを付ける程度の音なので十二分にモリスのピアノとヴォーカルを堪能できる。声もフレージングも滑らかで、喩えればじっくり牛肉を煮込んだポトフに合う、さして高級ではなくても味の良いフランスワインといったところだろうか。

 ビリーは58年11月に二度目のヨーロッパ・ツアーを行っているが、当時の様子をサガンは「私自身のための優しい回想」で綴っている。「それはビリー・ホリデイだった。だが、彼女ではなかった。痩せ細り、年老い、腕は注射針の痕で覆われていた。(中略)集まった人々が拍手を送ると、彼女は聴衆に向って皮肉とも哀れみともとれる眼差しを投げかけるのだった。それは自分自身に対する容赦ない眼差しでもあったのだろう」と。亡くなる8ヶ月前である。最期までビリーは哀しい。だから今なお心を打つのだろう。
コメント (43)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

難曲ジャイアント・ステップスに挑む

2012-07-01 07:47:21 | Weblog
 アシュリー・カーン著「ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実」に、当時コルトレーンの近所に住んでいたトミー・フラナガンのインタビューが紹介されている。「最初から最後まで意欲をかき立てさせられるセッションだった」と。そして「彼の作った曲は、コード進行は論理的なんだけど、ほとんどが思ったように解決しないんだ(中略)当時としてはいっぷう変わった構成の曲ばかりだった」とも答えている。

 そのセッションとは59年の「ジャイアント・ステップス」で、シーツ・オブ・サウンズと呼ばれるコルトレーンのスタイルがほぼ完成したアルバムだ。特にタイトル曲は複雑なコード進行のうえ高速テンポで演奏されたため、名手フラナガンでさえ躊躇した難曲である。そのフラナガンも二人目のピアニストで最初に選ばれたのはシダー・ウォルトンだったが、コルトレーンについていけずソロすら取っていない。演奏の難解さゆえ、60年代は誰もカヴァーできなかった曲だったが、70年代に入ってからテクニックと理論の解明が進んだこともあり多くのプレイヤーが挑戦するようになった。

 コルトレーンの影響は大きく、今でもテクニックを競うように演奏されるが、ヨーロッパ・ピアノ・ブームを巻き起こしたスイスのティエリー・ラングが93年の「プライベート・ガーデン」で取り上げている。多くのヨーロッパのピアニストでそうであるようにラングも抜群のテクニックを誇る一方、ややもすると美しさを強調するあまりイージー・リスニング的な方向に向いてしまうが、ラングは緊張感に包まれており難曲に挑む姿勢が見えるようだ。82年にトリオで再挑戦したフラナガンやテテ・モントリューの世界とは異質だが、「ジャイアント・ステップス」が持つ美しさを引き出した演奏ではこれが最初かもしれない。

 同書に、「彼はわたしに楽譜を見せて、何をやろうとしているか教えてくれたんだ。わたしはそれを彼と一緒にレコーディングしたかった。だけど彼は『きみが弾けるのは判っている。でも若すぎるよ』と言っていた」。後にコルトレーン・バンドの一翼を担うマッコイ・タイナーの話も載っている。「ジャイアント・ステップス」のセッションでサイドメンを模索していたコルトレーンは、「至上の愛」に向かう大きな一歩を踏み出したのだろう。
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする