デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

演歌の女王、ジャズを歌う

2012-10-28 08:29:23 | Weblog
 ラジオからヘレン・メリルのユービーソーが流れてきた。来年4月に決まったメリル札幌公演のチケット先行発売の宣伝だ。この曲を聴くと反射的に思い浮かべるのはあの官能的なジャケットで、聴かずとしてジャケットからは溜め息が聴こえてくる。微かな吐息さえ捉えるノイマンのコンデンサーマイクに、EmArcyのレーベルロゴ、あの有名なジャケットに構図が似ているアルバムが最近発売された。

 「夜のアルバム」という。歌っているのは演歌の女王で、銀座のナイトクラブで歌い始めた頃を思い出して作ったそうだ。「サマータイム」や「枯葉」というスタンダードに加え、クラブシンガーなら酔客のリクエストに応え、必ず歌わなければならない曲も入っている。それは薄野のシンガーなら「ブルー・ナイト・イン札幌」、大阪なら「宗右衛門町ブルース」、そして銀座なら「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」だ。毎晩のように歌ったであろうその選曲は、オーディション番組「全日本歌謡選手権」で10週連続勝ち抜いてチャンピオンに輝く前の一番辛い時代でありながら一番楽しかった時代を思い出してのことかもしれない。

 似ているといえばこの「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」もかつて盗作騒ぎを起こした曲である。この曲が発表されたのは1963年で、作曲したのは当時TBSに勤めていた鈴木道明氏だが、1934年の映画「ムーランルージュ」の主題歌でハリー・ウォレンが作曲した「The Boulevard of Dreams」、邦題「夢破れし並木路」に似ていると指摘があったことから裁判にまでなった曲だ。最終的に最高裁まで争われたが盗作ではなく偶然の一致、という判決が下された。疑惑があったにせよ日野てる子をはじめ和田弘とマヒナスターズ、越路吹雪、西田佐知子等々、多くの競作を生んだ魅力的な歌に変わりはない。

 このアルバムにはメリルも賞賛のコメントを寄せていたが、ここまでジャケットを似せるのならメリルのように顔を歪め、ユービーソーも入れて欲しかった。そこまで似せても小西康陽氏のプロデュースなら誰も文句を言わないだろうし、八代亜紀がただの演歌歌手ではないことを知っている人は喜び、メリルのファンは納得する。そしてメリル本人は、この曲を歌ってくれて嬉しいわ、と言うだろう。
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アーノルド・ロスがシナモンで過ごした日々

2012-10-21 08:28:25 | Weblog
 50年代に入ってからパリを中心に欧州ツアーが盛んになり、アメリカのミュージシャンはこぞって出かけた。本国では停滞するジャズもヨーロッパでは人気があり、そのうえ待遇もギャラも悪くない。そのツアー中にライオネル・ハンプトン楽団の一員だったクリフォード・ブラウンが有名な例だが、契約の網の目をくぐるように若手のプレイヤーがレコーディングを重ねた。今となっては貴重なセッションを録音したのはフランスの名門レーベル、ヴォーグである。

 同レーベルのジャズ部門の監修にあたったフランスのジャズ評論家シャルル・ドロネイと、プロデューサーとして辣腕を振るったアンリ・ルノーのジャズに向ける熱い視線が、血気盛んな若者に火をつけた形だ。その中にアーノルド・ロスのアルバムがある。リナ・ホーンの伴奏者としてパリを訪れたときにツアーのメンバーであるベースのジョー・ベンジャミンとドラムのビル・クラークを誘って録音したものだ。ツアー中にリーダーの了解なしに録音するのは御法度だったが、本国ではなかなか録音する機会に恵まれなかったため、発覚すれば解雇を覚悟しながら厳重な監視をすり抜けてヴォーグのスタジオに集まったという。

 ロスというとシナノン療養所に入所していたメンバーで録音されたジョー・パスの「サウンド・オブ・シナノン」で有名だが、ハリー・エディソンをはじめバーニー・ケッセル、バディ・チルダーズ等、地味ながら燻し銀の味わいのあるアルバムに参加していた。テディ・ウィルソンのスウィング・スタイルをややモダンにしたピアノで、小気味良いのは勿論だが、歌伴で培った歌心が歌物の生命線である歌詞の深い意味合いをも引き出している。おそらくリナ・ホーンのレパートリーと思われる「ジーパーズ・クリーパーズ」がトップだが、今日の主役は俺だ、という自信にあふれた縦横無尽なピアノが楽しい。

 1921年に生まれたロスは、2000年に79歳で亡くなっている。若い頃から活躍していた割にはレコーディングが少ないが、それは人生の何分の一かを麻薬常用者のリハビリ施設で過ごしたからだ。更に快癒後はその施設で患者の更生にあたっている。退院の許可が下りると街に出て、同じ道を辿る常用者の悪癖を知っているロスが選んだ道は懸命だった。その後、健康を取り戻したロスにとってシナモンで過ごした時間はロスではなかったろう。

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銀巴里の灯は消えて

2012-10-14 07:56:54 | Weblog
 毎週日曜日の朝、記事をアップするころラジオから美輪明宏さんの声が聞こえる。リスナーから寄せられた人生の悩みに最良と思えるアドバイスをしたり、歯に衣を着せない時評や昔話で構成された「薔薇色の日曜日」という美輪さんの冠番組だ。思い出話でよく登場するのは銀座にあったシャンソン喫茶の草分けである銀巴里で、美輪さんをはじめ多くのシャンソン歌手がここを登竜門として育っている。

 60年代初頭、そのシャンソン喫茶で毎週金曜日の午後にフライデイ・ジャズコーナーと呼ばれたセッションが開かれていた。当時はレコードを主体とするジャズ喫茶は多数あったたものの、定期的に生演奏を聴かせる場所はなく、意欲的な演奏を発表する場がない。そんな現状と若いプレイヤーの熱意に打たれて場所を提供したのが本来ジャズとは関わりのない銀巴里で、そこに集まったのは新世紀音楽研究所という集団である。高柳昌行や金井英人をはじめ、菊地雅章、富樫雅彦、日野皓正、山下洋輔という今ではビッグネイムのプレイヤーが勉強を重ね、自身のスタイルを模索し、切磋琢磨した熱いグループだ。

 当時の音を持ち込んだテープレコーダーで録音したのはドクター・ジャズこと内田修氏である。モカンボ・セッションと並んで日本のジャズの変遷が記録された大変貴重なものだ。このアルバムは63年に行われたライヴの模様を収録したもので、新世紀音楽研究所というおどろおどろしい名前からはフリージャズを思わせるが、「グリーンスリーブス」をはじめ「ナルディス」や「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」というスタンダードを中心に演奏しているのが驚きだ。「グリーンスリーブス」は高柳のギターをフューチャーしたものだが、美しいメロディを損なわないテーマ処理ながら弦は鋭く、徐々にその音が増幅するあたりは日本のジャズの広がりを見るようでもある。

 銀巴里といえば、先月29日に札幌ススキノの銀巴里が閉店した。銀座の銀巴里から唯一のれん分けされた由緒あるシャンソンの店である。経営者の浅川浩二さんは銀座「銀巴里」の総支配人だったおじのもとで修業された人で、ご子息はジャズピアニストの浅川太平さんだ。ススキノでシャンソンを聴ける店はなくなったが、ジャンルを越えて音楽文化がつながってゆくのは心強い。今夜もススキノの賑わいは変わらないが、心なしかネオンがかすんで見える。

一部敬称略
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ニカの夢、栗山監督の正夢

2012-10-07 08:21:44 | Weblog
 北海道日本ハムファイターズが3年ぶり6度目となるリーグ優勝を決めた。優勝どころかAクラスすら予想した解説者が一人もいなかっただけにファンの喜びは倍増だ。斎藤佑樹を開幕投手に指名したり、打てない中田翔を4番に固定したり、リリーフを出したばかりに負け試合になったりと、指導者経験のない栗山英樹監督には批判もあったが、就任1年目の優勝で采配に間違いがないことを証明した。

 その監督の座右の銘は「夢は正夢」だが、ジャズの楽曲で夢といえば「ニカの夢」を思い出す。ホレス・シルヴァーが56年に書いた曲で、モンクの「パノニカ」やジジ・グライスの「ニカズ・テンポ」と同じくジャズ界のパトロンとして知られるニカ男爵夫人に捧げたものだ。世界的な大富豪であるロスチャイルド家の一族ということもあって生活に不自由がなかった夫人だが、大金持には小生のような貧乏人には想像もつかない窮屈や退屈があったようで、それを満たしてくれたのがジャズだと語っていた。ニカはミュージシャンから3つの願いを聞いているが、それを叶えるのが夢だったのかもしれない。

 ニカが抱いた夢のように大きなスケールを持った曲で、シルヴァー自身が詞を付けたものをディー・ディー・ブリッジウォーターが歌うほどメロディアスでもある。初演はシルヴァーが参加したジャズ・メッセンジャーズのアルバムになるが、以降多くのカヴァーが生まれた。なかでもメロディの美しさを前面に押し出したのはカル・ジェイダーで、ライトハウスのライブながら完成度は高い。ジェイダーといえばウエストコースト・ジャズにラテン・リズムを強調したスタイルで一般市場に受けたことからコマーシャルのイメージが強いが、ヴァイヴ奏者としても一流でここでも華麗なマレットさばきが見られる。

 「北海道が一番になりました」と熱く語った新人監督にはまだ日本シリーズ制覇という大きな夢が残っている。それは2004年に巨人ファンしかいないと言われた北海道に本拠地を移転して以来、応援してきた北海道のファンの夢でもあるだろう。そういえば家人が優勝記念セールや感動ありがとうセールの紙袋を抱えて嬉しそうにしていた。野球のルールを知らない人にまで栗山監督は夢を与えてくれた。
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