デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

さようならノーキー・エドワーズ、ありがとうベンチャーズ

2018-03-25 09:40:49 | Weblog
 ノーキー・エドワーズの訃報に接したとき、しばし時間が止まった。ステージでかっこよくモズライトを弾く姿を客席から見ているだけの遠い存在だったが、小中学校からの友人を亡くしたような寂しさだ。拙ブログをご覧いただいている若いジャズファンはご存じないギタリストだが、団塊前後の世代にとっては懐かしい名前であり、60年代後半にエレキギターを手にした人にとっては神様である。

 一大エレキブームが訪れたのはベンチャーズが来日した1965年だったろうか。「ウォーク・ドント・ラン」に「クルーエル・シー」、「10番街の殺人」、「ダイアモンド・ヘッド」、「パイプライン」、「秘密謀報員」・・・次から次へとヒットした。エレキギターが飛ぶように売れ、全国各地で多くのバンドが結成される。今のように映像で簡単にテクニックを学べる時代ではないので、ノーキーのチョーキングや速弾きを会得するため、譜面と睨めっこしながらレコードを何度も聴いて練習を重ねたものだ。お祭りやイベントにエレキバンドは引っ張りだこで、エレキ合戦というテレビ番組に出ることを目指していたバンドは多い。

 ある日、ラジオで驚くべきことを知る。「ベンチャーズでヒットしているキャラバンをオリジナルのデューク・エリントン楽団でお聞きください」と。当時は曲の作者にまで興味がいかず、ヒット曲は全てベンチャーズのオリジナルだと思っていた。後に知ることになる1936年12月19日録音の初演だ。作者の一人ファン・ティゾールも参加したセプテットで、幻想的なアンサンブルは砂漠を行くキャラバン隊を想起させる。そして何よりもクーティ・ウィリアムスにハリー・カーネイ、バーニー・ビガードの煌めくソロはそれまでの音楽観を覆すことになる。体中に電気が走った。いや、正確に言うなら電気が抜けたのだろう。エレキ小僧がジャズ少年に変わった瞬間である。

 「Walk Don't Run」はジョニー・スミスのオリジナルで、ロジャース&ハートが作った曲「Slaughter on Tenth Avenue」はアニタ・オデイが歌っている。マリガンのレパートリー「Lullaby Of The Leaves」や、ビリー・ホリデイの名唱に涙する「Blue Moon」もベンチャーズの演奏で知った。ジャズへの入り口は様々だが、ベンチャーズからこのジャズという魔界に迷い込んだ人もいるだろう。エレキの神様。享年82歳。テケテケテケ・・・合掌。
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ジミー・ヒースのビルボード

2018-03-18 09:17:53 | Weblog
 「スリー・ビルボード」がアカデミー賞の作品賞、主演女優賞、助演男優賞、脚本賞、作曲賞、編集賞にノミネートされたとき、間違いなく受賞するのは主演女優賞だと思った。フランシス・マクドーマンドである。迫真の演技とはこれをいうのだろうか、感情がスクリーンを通り越してダイレクトに響く。暴力的且つ破壊的な作品で、主人公の根底にあるのは「怒り」なのだが、この女優が演じると怒れる女ではなく、イカれた女になる。

 「The Three Sounds」に「Three Blind Mice」、「Three Little Words」、比較的新しいのではジャコ・パストリアスの「Three Views of A Secret」・・・コンボもアルバムも曲もネタに事欠かないが、ここはスリーではなくファイブ・ビルボードを持ってきた。映画では3枚の看板だが、上空から見るとこんな感じだろう。ジミー・ヒースは本国で高く評価され、多くのセッションに参加しているのだが、日本での人気はさっぱりだ。20枚以上のリーダー作を全部揃えているジャズ喫茶もなければ、参加作品を全て収集しているコレクターに会ったこともない。ビッグネイムとの共演が少ないと評価されない傾向にあるのは残念だ。

 マイルスが自叙伝で語っている。「オレがトレーンの代わりに雇ったのは、すっかりヤクと切れて刑務所から出てきたばかりの古い友達ジミー・ヒースだった・・・彼ならオレ達がやっている音楽をかなり知っているだろう・・・だが、1953年にジミーと初めてブルーノートでレコーディングした頃に比べて、オレの音楽はずいぶん変っていた・・・だから、彼が得意にしていたビバップ的な演奏から抜け出すのは難しいかもしれないとも考えた」。マイルスの友情に目頭が熱くなる。5年間のブランクがなければ「Someday My Prince Will Come」にクレジットされていたのはハンク・モブレーではなくヒースで、知名度も上がったに違いない。

 ネタバレになるので詳しく書けないが、中盤あたりからどんなラストを迎えるのだろうと推理を巡らしていると、何とエンディングは観客に解釈を委ねる形だ。こういう手法は珍しくないし、作品によってはこれが決定的なラストと語られるのだが、この映画はモヤモヤ感が残った。「怒り」で始まる映画なら「怒り」で終わってこそ観る側の「怒り」を抑えることができる。映画館を出た後、看板を蹴ったのは小生だけではあるいまい。

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フランク、ジョン、ポールのジャズチームパシュート

2018-03-11 09:26:33 | Weblog


 始まる前は興味がなかった平昌オリンピックも日本人選手の活躍をみるとテレビの前に釘付けになる。「そだねー」が早くも流行語大賞の候補に挙がっているカーリング女子の最終戦は、ルールがよく分からないものの固唾を呑んで見守った。銅メダルとはいえ会心のジャンプを決めた高梨沙羅のもとに伊藤有希がかけより抱き合ったシーンは何度見ても涙がこぼれる。

 そして華はフィギュア女子だ。金メダルを獲得したロシアのアリーナ・ザギトワの美しいこと。15歳とは思えないほどの色気を放っていた。美しすぎる何々とよく言われるが、ことフィギュア選手は美女であることが条件の一つかと思うほど揃っている。スクリーンから飛び出したようなタニス・ベルビンに、自国フィンランドでモデルの仕事もしているキイラ・コルピ、出てくるだけで銀盤が輝くスイスのサラ・マイヤー、フィンランドの才色兼備といえば数ヶ国語を話せるキーラ・コルピ、今回のオリンピックでは惜しくも銀メダルだったエフゲニア・メドベージェワ・・・

 要らぬ妄想をする前に1957年録音のスケートジャケット「Wheelin’ & Dealin’」を出した。プレスティッジのハウスセッションだが、フランク・ウェスにコルトレーン、ポール・クィニシェットというテナーの組み合わせは余程のチャンスがない限りありえない。リズム陣はマル・ウォルドロンにダグ・ワトキンス、アート・テイラーという以心伝心の面々だ。曲によってフルートも吹いているウェスのテナーはコールマン・ホーキンスの流れを汲む正統派で、クィニシェットはレスター派、そしてコルトレーンはマイルス・バンドで急成長を遂げた時期になる。企画物ながら三者三様のスタイルを楽しめるお徳用盤だ。

 美しいといえば金メダルに輝いた日本女子チームパシュートの隊列である。1000分の1秒が金メダルと銀メダルを分ける競技だけに一瞬たりとも気が抜けない。フランク、ジョン、ポールのアンサンブルのように息がピッタリ合っていた。先頭交代はこのアルバムのソロリレーのように実にスムーズだ。9日にはパラリンピックが始まった。応援したい選手がたくさんいる。
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マキシン・サリバンを聴きながら川田貞さんを偲ぶ

2018-03-04 09:38:45 | Weblog
 先月19日に川田貞さんが亡くなられた。退職後、2003年に開いたジャズ喫茶「Lush Life」で下火になったジャズを盛り上げようと数多くのライブを開いた方だ。また、川田貞家のペンネームでジャズ批評誌に寄稿されていたのでご存知の方もおられるだろう。なかでも1982年の同誌46号に掲載されたソニー・スティット最後の演奏となった日本公演のレポートは、幅広い人脈から得た取材と文章の巧みさでドキュメンタリーを超えていた。

 最後にお会いしたのは昨年の暮れだったろうか。「DAY BY DAY」を一緒に出て、それぞれの帰宅方向に別れた。小生より一回り上の大先輩だがとてもお元気だっただけに、ジャズ仲間からメールが届いたときは目を疑った。2016年に亡くなったジャズ喫茶「ジャマイカ」のマスター、樋口重光さんと一緒に1966年のコルトレーン来日公演を聴かれていて、生でしか分からないコルトレーンの魅力を教えていただいた。アメリカにも度々旅行されているので、日本では知り得ないジャズクラブ事情やジャズメンの動向を聞くのは楽しみだったし勉強にもなる。

 マキシン・サリバンのコレクターとしても知られている人で、ジャズ誌で特集を組むときは声がかかった。マキシンがクロード・ソーンヒル楽団の専属になり、50万枚売れたと言われる「Loch Lomond」を吹き込んだのは1937年のことだ。87年に亡くなる前年に富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァルに出演しているので、ブランクがあるとはいえキャリアは相当なものだ。SP、EP、LPを合わせるとどのくらいの数になるのか想像もつかないが、コレクションした全てが愛聴盤だったに違いない。「こんなに歌の上手い人がいるのかと感心した」とおしゃっていたのを思い出す。

 会場は静かにコルトレーンが流れていた。「マイ・アイデアル」と「A列車で行こう」の生演奏もあり、ライブが好きだった川田さんを追悼するに相応しい葬儀である。「ドームに付き合うから、一度温泉に付き合えよ」の約束を果たせなかったのが残念だ。今年いただいた年賀状に「1958年にジャズを聴き始めてから今年で61年を迎えます」とあった。ジャズを愛して、ジャズマンに愛された川田貞。享年76歳。合掌。
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