「ハリー・ジェイムスは音楽的にも個人的にも魅力のある人で、私の心はとろけてしまった。私は3回結婚したけれど、ハリーとは結婚できなかった。でも、今も彼を想う気持ちに変わりはない」と自伝の巻頭で告白している女性がいる。ファンはもとより、シンガーや女優、ハリーを愛した女性は数知れない。SSJの三具保夫さんのライナーノーツからの引用になるが、一度でいいからそんなことを言われてみたいものだ。
この熱い想いを語ったのはヘレン・フォレストである。スタートはビリー・ホリデイの後任として1938年に入団したアーティー・ショー楽団、次いでベニー・グッドマン楽団、そしてハリー・ジェイムス楽団とキャリアを積んだバンドシンガーだ。当時一流の楽団を渡り歩いたのだからビッグバンドの華と呼ぶに相応しい。この「ザ・デヴィル・アンド・ザ・ディープ・ブルー・シー」と題されたアルバムはリーダーズ・ダイジェスト社の通信販売用レコードの音源を集めたものだ。1969年から1972年にかけてハリウッドとロンドンで行われたスタジオ録音で構成されているので、ヘレンの年齢でいうと50歳代前半になる。
年齢的にもシンガーとして安定していたころで声はよく伸び、音域も広い。アルバムタイトル曲はロンドンで録音されたもので、ハロルド・アーレンのリズミックなメロディを気持ち良さそうに歌っている。「Between the Devil and the Deep Blue Sea」は 「進退窮まる」という慣用句で、「絶体絶命」という邦題が付いているが、歌詞の内容はタイトルほど切羽詰ったものではなく、恋のゲームを楽しんでいるような明るい曲だ。コーラス部分を一気に歌ったあとゴージャスなアンサンブルが入り、再び2コーラス目から歌いだすのだが、聴き所はラストの「the Devil and the Deep Blue Sea」というフレーズだ。チャーミングなことこの上ない。
先の自伝は自身のヒット曲である「I Had the Craziest Dream」というタイトルが付けられ、1982年に発刊された。そしてハリー・ジェイムスが癌のため亡くなったのは翌1983年である。ヘレンがハリーのバンドを去ったのは、ハリーが映画で共演したベティ・グレイブルとの間にロマンスが生まれたからだという。身の引き際の潔さといい、亡くなる間際の秘めた想いの告白といい、ビッグバンドの華は、女としても華がある。
この熱い想いを語ったのはヘレン・フォレストである。スタートはビリー・ホリデイの後任として1938年に入団したアーティー・ショー楽団、次いでベニー・グッドマン楽団、そしてハリー・ジェイムス楽団とキャリアを積んだバンドシンガーだ。当時一流の楽団を渡り歩いたのだからビッグバンドの華と呼ぶに相応しい。この「ザ・デヴィル・アンド・ザ・ディープ・ブルー・シー」と題されたアルバムはリーダーズ・ダイジェスト社の通信販売用レコードの音源を集めたものだ。1969年から1972年にかけてハリウッドとロンドンで行われたスタジオ録音で構成されているので、ヘレンの年齢でいうと50歳代前半になる。
年齢的にもシンガーとして安定していたころで声はよく伸び、音域も広い。アルバムタイトル曲はロンドンで録音されたもので、ハロルド・アーレンのリズミックなメロディを気持ち良さそうに歌っている。「Between the Devil and the Deep Blue Sea」は 「進退窮まる」という慣用句で、「絶体絶命」という邦題が付いているが、歌詞の内容はタイトルほど切羽詰ったものではなく、恋のゲームを楽しんでいるような明るい曲だ。コーラス部分を一気に歌ったあとゴージャスなアンサンブルが入り、再び2コーラス目から歌いだすのだが、聴き所はラストの「the Devil and the Deep Blue Sea」というフレーズだ。チャーミングなことこの上ない。
先の自伝は自身のヒット曲である「I Had the Craziest Dream」というタイトルが付けられ、1982年に発刊された。そしてハリー・ジェイムスが癌のため亡くなったのは翌1983年である。ヘレンがハリーのバンドを去ったのは、ハリーが映画で共演したベティ・グレイブルとの間にロマンスが生まれたからだという。身の引き際の潔さといい、亡くなる間際の秘めた想いの告白といい、ビッグバンドの華は、女としても華がある。