アート・ペッパーの熱心なファンではないが、リーダー作はかなり集めた。整理序でに並べてみるとジャケット写真は翳りのある音と喩えられるように、ほとんどがその音のように暗い過去を引き摺った面持ちで容易に人を近寄せない雰囲気だ。笑った写真といえば「ゲッティン・トゥゲザー」があるが、これとてよく見るとカメラマンに「ハイ、チーズ」とでも言われてポーズを作っているようにしか見えない。
その中にあって楽しくてしようがないという写真は、ザナドゥの「ポポ」で、盟友のショーティ・ロジャースとのツーショットだ。録音されたのは51年で、場所はベースのハワード・ラムゼイが参加していることからおそらくライトハウスだろう。51年というとペッパーもショーティもスタン・ケントン楽団を退団し、ソロイストとして、またアレンジャーとして独り立ちした頃である。このとき26歳のペッパーはダウンビート誌の人気投票でパーカーに次いで2位に選ばれており、一方27歳のショーティは編曲の才能を高く評価されジャズばかりかポップスのシーンでも活躍を始めている。因みにモンキーズの大ヒット曲「デイドリーム・ビリーバー」は彼の手によるものだ。
ライブらしくスタンダード中心の選曲で、そのなかに将来ペッパーの重要なレパートリーになるチャノ・ポゾの「ティン・ティン・デオ」があった。ガレスピーが取り上げて以来、ラテン・スタイルで演奏されるが、ここでもそれに倣ってシェリー・マンがリムショットでリズムを刻むなかショーティが気持ちよくソロを取り、次いでフランク・パッチェンのピアノ、そしてペッパーかと思いきや、またショーティが出てくる。エンディングのテーマでペッパーが音を重ねているので、その当時はこの曲を知らなかったか、或いはショーティの得意曲なので遠慮したかのどちらかだろう。どちらにしてもこのセッションがきっかけで後のペッパーの名演が生まれたといっていい。
ペッパーの初リーダー作は、このセッションの翌52年に吹き込まれているが、麻薬癖でジャズシーンと療養所を行き来しながらも82年のラスト・アルバム「ゴーイン・ホーム」まで100を超える作品がある。そのどれもが美しい。「ゴーイン・ホーム」のジャケットを今一度見てみよう。盟友ジョージ・ケイブルスと抱き合った笑顔の素敵なこと。最期はこんな満面の笑みを浮かべたいものだ。
その中にあって楽しくてしようがないという写真は、ザナドゥの「ポポ」で、盟友のショーティ・ロジャースとのツーショットだ。録音されたのは51年で、場所はベースのハワード・ラムゼイが参加していることからおそらくライトハウスだろう。51年というとペッパーもショーティもスタン・ケントン楽団を退団し、ソロイストとして、またアレンジャーとして独り立ちした頃である。このとき26歳のペッパーはダウンビート誌の人気投票でパーカーに次いで2位に選ばれており、一方27歳のショーティは編曲の才能を高く評価されジャズばかりかポップスのシーンでも活躍を始めている。因みにモンキーズの大ヒット曲「デイドリーム・ビリーバー」は彼の手によるものだ。
ライブらしくスタンダード中心の選曲で、そのなかに将来ペッパーの重要なレパートリーになるチャノ・ポゾの「ティン・ティン・デオ」があった。ガレスピーが取り上げて以来、ラテン・スタイルで演奏されるが、ここでもそれに倣ってシェリー・マンがリムショットでリズムを刻むなかショーティが気持ちよくソロを取り、次いでフランク・パッチェンのピアノ、そしてペッパーかと思いきや、またショーティが出てくる。エンディングのテーマでペッパーが音を重ねているので、その当時はこの曲を知らなかったか、或いはショーティの得意曲なので遠慮したかのどちらかだろう。どちらにしてもこのセッションがきっかけで後のペッパーの名演が生まれたといっていい。
ペッパーの初リーダー作は、このセッションの翌52年に吹き込まれているが、麻薬癖でジャズシーンと療養所を行き来しながらも82年のラスト・アルバム「ゴーイン・ホーム」まで100を超える作品がある。そのどれもが美しい。「ゴーイン・ホーム」のジャケットを今一度見てみよう。盟友ジョージ・ケイブルスと抱き合った笑顔の素敵なこと。最期はこんな満面の笑みを浮かべたいものだ。