前稿でレナウンのCMソング「ワンサカ娘」を話題にした。映像と相俟って1965年のシルヴィ・ヴァルタンがイメージ強いが、61年のかまやつひろし、次いでデューク・エイセス、ヒデとロザンナ、アン・ルイスと、多くのシンガーが艶やかなドレスのバックで歌っている。その中に7月21日に亡くなられた弘田三枝子さんがカバーしたものがある。はち切れんばかりの若さとパンチのある歌唱に驚く。
69年に日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した「人形の家」を口ずさむ方が多いが、団塊とその前後の世代は洋楽のカバー曲を歌うかもしれない。ヘレン・シャピロの「子供ぢゃないの」をはじめ、コニー・フランシスの「ヴァケーション」に「渚のデイト」、ミーナの「砂に消えた涙」、ジリオラ・チンクェッティの「ナポリは恋人」、フランス・ギャルの「夢みるシャンソン人形」…アメリカのポピュラーソングからカンツォーネ、シャンソンと幅広い。当時はそれだけ日本語の歌詞を付けてまでカバーに値する楽曲が世界中にあったということだろう。どの曲もオリジナルに負けない圧巻の歌いっぷりだ。
そしてジャズファンが真っ先に思い出すのは、65年のニューポート・ジャズフェスの出演である。日本人では57年に秋吉敏子が出演しているが、シンガーとして招待されたのはミコが初めてだ。大絶賛である。拍手が鳴りやまない。誇らしい。数あるアルバムから「Miko In New York」を選んだ。フェスで共演したビリー・テイラー・トリオがバックで、ジャズ唱法を指導したのはベースのベン・タッカーだ。さぞ教え甲斐があったことだろう。歌唱は勿論のこと、スウィング感、タイミング、リズム感、どれをとっても18歳のシンガーとは思えない。Jポップだかのぽっと出の連中は足もとにも及ばない。
カバー曲としては異例の20万枚売れた「ヴァケーション」を聴いたのは小学校低学年のころだ。「日本のポピュラー史を語る 時代を映した51人の証言」(シンコーミュージック刊)を編纂した村田久夫氏によると日本人が馴染みやすい英語っぽい日本語を考え出したのは弘田三枝子だと言う。当時、「V・A・C・A・T・I・O・N」とスペルまで覚えた子どもは多いはずだ。享年73歳・・・合掌。
69年に日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した「人形の家」を口ずさむ方が多いが、団塊とその前後の世代は洋楽のカバー曲を歌うかもしれない。ヘレン・シャピロの「子供ぢゃないの」をはじめ、コニー・フランシスの「ヴァケーション」に「渚のデイト」、ミーナの「砂に消えた涙」、ジリオラ・チンクェッティの「ナポリは恋人」、フランス・ギャルの「夢みるシャンソン人形」…アメリカのポピュラーソングからカンツォーネ、シャンソンと幅広い。当時はそれだけ日本語の歌詞を付けてまでカバーに値する楽曲が世界中にあったということだろう。どの曲もオリジナルに負けない圧巻の歌いっぷりだ。
そしてジャズファンが真っ先に思い出すのは、65年のニューポート・ジャズフェスの出演である。日本人では57年に秋吉敏子が出演しているが、シンガーとして招待されたのはミコが初めてだ。大絶賛である。拍手が鳴りやまない。誇らしい。数あるアルバムから「Miko In New York」を選んだ。フェスで共演したビリー・テイラー・トリオがバックで、ジャズ唱法を指導したのはベースのベン・タッカーだ。さぞ教え甲斐があったことだろう。歌唱は勿論のこと、スウィング感、タイミング、リズム感、どれをとっても18歳のシンガーとは思えない。Jポップだかのぽっと出の連中は足もとにも及ばない。
カバー曲としては異例の20万枚売れた「ヴァケーション」を聴いたのは小学校低学年のころだ。「日本のポピュラー史を語る 時代を映した51人の証言」(シンコーミュージック刊)を編纂した村田久夫氏によると日本人が馴染みやすい英語っぽい日本語を考え出したのは弘田三枝子だと言う。当時、「V・A・C・A・T・I・O・N」とスペルまで覚えた子どもは多いはずだ。享年73歳・・・合掌。