先日、馴染みのレコード店からバーゲンの案内が届いたので早速出かけた。店主と軽く挨拶を交わし、「ビギン・ザ・ビギン」がかかっていたので、アーティ・ショウですか?と訊くと店主と歓談されていた方にオリジナルのザビア・クガートです、と教師が生徒に教えるような口調で言われた。更に、コール・ポーターはクガートの演奏からヒントを得てこの曲を作ったという。どうやらラテンのレコードを中心に集めているらしい。
曲が作られた経緯はポーターがカリブ海のインド諸島のリズムの一種である「ビギン」をヒントに書かれたものだ、という曲解説を読んだ覚えがあるのでラテン氏の間違いかと思った。また、ミュージカルではさっぱりだった曲をアーティ・ショウが録音してインストルメントとしては異例の大ヒットに結びついた、とされる一般的な話からするとクガートのオリジナルも疑問だ。曲誕生の経緯は別としてラテンのリズムは心軽やかに響き、流れるようなメロディは別世界の心地にしてくれる。そして何よりもショウのクラリネットがこの曲の魅力を引き出したといっていい。以来、インストは少ないがヴォーカルで多くのカヴァーが生まれている。
最近ではマンハッタン・トランスファーで活躍したシェリル・ベンティーンがコール・ポーターのソング集で取り上げていた。これが何とデイブ・タルのドラムだけの伴奏だ。ライナーノーツを担当されたヴォーカルにお詳しい馬場啓一さんによると、サミー・デイヴィスJr.がステージでこの趣向を披露したという。多彩なリズムに微妙な強弱を付けるデイブの伴奏は、ドラムはメロディ楽器かと思わせるほど良く歌う。そのオーケストラのようなバックを背に変化を付け、108小節で構成された長い曲をドラマティックに歌い上げるベンティーンもこれまた見事。歌唱テクニックと感情移入が合致した傑作だろう。
ラテン氏の説明が気になったので調べてみると、35年にミュージカル「ジュビリー」のために書いた曲をクガートはその年に録音している。ショウは38年(昭和13年)だから間違いなくクガートがオリジナルだ。さらにクガートは最高級のウォルドルフ・アストリア・ホテルの楽団を指揮しており、ポーターは同ホテルの住人だった。なるほど接点はあるが、文献を探ってみるとこれは違うようだ。どちらにしろ名曲に違いない。
曲が作られた経緯はポーターがカリブ海のインド諸島のリズムの一種である「ビギン」をヒントに書かれたものだ、という曲解説を読んだ覚えがあるのでラテン氏の間違いかと思った。また、ミュージカルではさっぱりだった曲をアーティ・ショウが録音してインストルメントとしては異例の大ヒットに結びついた、とされる一般的な話からするとクガートのオリジナルも疑問だ。曲誕生の経緯は別としてラテンのリズムは心軽やかに響き、流れるようなメロディは別世界の心地にしてくれる。そして何よりもショウのクラリネットがこの曲の魅力を引き出したといっていい。以来、インストは少ないがヴォーカルで多くのカヴァーが生まれている。
最近ではマンハッタン・トランスファーで活躍したシェリル・ベンティーンがコール・ポーターのソング集で取り上げていた。これが何とデイブ・タルのドラムだけの伴奏だ。ライナーノーツを担当されたヴォーカルにお詳しい馬場啓一さんによると、サミー・デイヴィスJr.がステージでこの趣向を披露したという。多彩なリズムに微妙な強弱を付けるデイブの伴奏は、ドラムはメロディ楽器かと思わせるほど良く歌う。そのオーケストラのようなバックを背に変化を付け、108小節で構成された長い曲をドラマティックに歌い上げるベンティーンもこれまた見事。歌唱テクニックと感情移入が合致した傑作だろう。
ラテン氏の説明が気になったので調べてみると、35年にミュージカル「ジュビリー」のために書いた曲をクガートはその年に録音している。ショウは38年(昭和13年)だから間違いなくクガートがオリジナルだ。さらにクガートは最高級のウォルドルフ・アストリア・ホテルの楽団を指揮しており、ポーターは同ホテルの住人だった。なるほど接点はあるが、文献を探ってみるとこれは違うようだ。どちらにしろ名曲に違いない。