デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

生きていたとは知らぬ仏のフランク・モーガン

2011-07-31 07:57:47 | Weblog
 ♪粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪・・・昭和29年に大ヒットした春日八郎の「お富さん」である。息の長い曲で子ども心に歌詞の意味は分からないもののブギウギのリズムを基にした軽快なメロディに惹かれたものだ。歌詞は続く「死んだ筈だよお富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん」。世間からはとうに死んだと思われている人が生きていて驚くことがある。

 55年に録音された最初のリーダーアルバムを77年に再発する際、ライナーノーツを依頼されたジャズメンの動向に詳しいレナード・フェザーでさえ死んだと思っていたプレイヤーが生きていた。そのアルバムとは、「フランク・モーガン・オン・GNP」で、赤盤はマニア垂涎の的だ。この作品1枚きりで30年に亘る刑務所暮らしのためシーンから姿を消したモーガンが、85年に復帰する。30年ぶりの録音とは思えないほど活気にあふれておりブランクは全く感じられない。おそらく模範囚であったモーガンは、刑務所でアルトサックスを手にすることが許され、それが薬物中毒から抜け出す励みになっていたのだろう。

 モーガンはデビュー当時ワーデル・グレイとの共演で話題を呼び、西海岸のチャーリー・パーカーと言われたほどテクニックやアイデアに富み、もし道を誤らなければジャズ史に名を残していた存在だ。この時代のアルト奏者が誰もがそうであるようにパーカー直系で、陰影のある節回しはアート・ペッパーや、泣きはソニー・クリスを思わせるが、何よりもバップを理解し、それを流麗に表現できる才能に恵まれていることだ。トップの「カーニバルの朝」にしても軽いリズムながらインプロビゼーションは、安易なメロディ発展にとどまらず、バップ本来のコードを巧みに利用したパーカー流で、バップの生き証人と言っていい。

 「お富さん」の2番に「過ぎた昔を 恨むじゃないが 風も沁みるよ 傷の跡」、3番には「愚痴はよそうぜ」、そして4番は「逢えばなつかし 語るも夢さ 誰が弾くやら 明烏」という男の哀愁ともいえる歌詞がちりばめられている。刑務所暮らしの古傷を悔やむでもなく愚痴るのでもない。温かい目でサイドを固める旧友のシダー・ウォルトンやビリー・ヒギンズに支えれて吹くモーガンのアルトはいつになく男泣きしていた。
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ビリー・ホリデイは言いわけしないで、と哀しそうに唄った

2011-07-24 09:01:47 | Weblog
 初代内閣総理大臣である伊藤博文は、明治天皇から「女遊びもいい加減にしてはどうかね」と、じきじき苦言を呈されたほど芸者好きだったそうだ。塩田丸男著「言いわけ読本」(白水社刊)によると、「囲い者ではありません。公許の芸人を公然と招いているのです」と答えたという。公許の芸人とは芸者のことを言い繕った言葉であり、建前は芸を売る商売だから芸人には間違いない。この言いわけに明治天皇は納得なさったとのことだ。

 こんな理屈の通った言いわけを出来なかったのはジミー・モンローである。妻のビリー・ホリデイに、シャツに口紅の跡があることを問い詰められ、しどろもどろで苦しい言いわけをした。この実際の出来事を元にしてビリー自身が作った歌が、「ドント・エクスプレイン」だ。♪Hush now, don't explain Just say you'll remain...の歌詞は、「一緒にいてくれるなら女を作ってもいい、私にはあなたしかいないの」という男に縋らなければ生きていけない女の弱さ、哀しさ、悔しさ、嘆きまでをも表している。それは生涯、男に裏切られ、男運に恵まれなかったビリーならではの痛いほどの女の叫びなのだろう。

 実生活の男運を抜きにしても哀しいまでの女心は一度は歌いたい曲とみえて多くの女性シンガーが取り上げている。感情をグッと抑えて歌うのはノルウェー出身のインガー・マリエで、デビュー2作目ながら遅咲きということもあり十分なキャリアに裏付けられた貫禄だ。デビュー作「Make This Moment」でノルウェー独特の気品にあふれた歌声に注目された方もあろうが、この「By Myself」は一歩踏み込んだ大人のヴォーカルであり、それはワインを愉しみタバコを燻らすジャケットからも伝わってくる。この曲を取り上げるシンガーは皆同じだが、ビリーへの尊敬の念が込められており何れ劣らぬ名唱が並ぶ。

 言いわけといえば被災地で、「知恵を出したところは助けるが、出さない奴は助けない」と言って、就任わずか9日目で辞任した暴言大臣は、九州生まれのB型で短絡的なところがあって・・・と釈明していた。引き際を忘れたどこぞの首相と比べると潔い辞任ではあるが、言いわけひとつにも知恵を出せず、女性誌みたいな統計学的論理で出身地や血液型を持ち出されては迷惑というものだ。小生もB型である。
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アート・ブレイキーが投げた1本のスティック

2011-07-17 08:08:16 | Weblog
 先日、知人数名と宴会後、二次会にカラオケスナックに誘われた。土曜日と言うのに薄野の外れにあるビルは閑散としていて、その店も貸切状態である。知人がマイクハナサーズで自慢の喉を披露している間、手持ち無沙汰の小生が店の女性と他愛もない話をするうち、ひょんなことからジャズの話題になった。ジャズとは無縁の店だっただけに驚いたが、何と20年ほど前に、北海道厚生年金会館でアート・ブレイキーを聴いたという。

 更にナ!ナ!ナ!何とコンサート終了後、ブレイキーが客席に投げたスティックを見事キャッチし、今でも持っているそうだ。86年から89年まで毎年マウント・フジに出演していたので、札幌に足を延ばしたのだろう。このとき何度目の来日になるのか分からないが、初来日は61年で今年は来日50周年にあたる。日本に一大ファンキーブームを巻き起こした初来日の記録がこのアルバムで、今聴いてもその熱いステージが伝わってくる。レコードでもナイアガラ瀑布がズシーンと響いてくるのだから、このサンケイホールで目の当たりにした聴衆の興奮は計り知れないし、この場にいた人が何とも羨ましい。

 「ザ・サミット」で幕を開けたステージは、メンバー紹介をはさみ「ブルーノート・レコーディング」と自慢げにブレイキーが次の曲を告げ、ショーターのモードがかったイントロからテーマの輪郭がみえると客席から拍手が起きる。当時はレコードといえば直輸入盤でブルーノート盤も入ってこないころだ。当然、前年録音したこの曲を聴いている人は少ないはずだが、喫茶店でウェルナー・ミューラーやパーシー・フェイスの演奏で耳にした「そよ風と私」に親近感を覚えた拍手だったのかもしれない。ポピュラーな歌曲であってもジャズになることを証明した演奏であり、それがジャズメッセンジャーズの人気に拍車をかけたのだろう。

 件の店の女性は、1本だけだから価値はないわよねぇ、と笑っていたがとんでもない。その1本のスティックに染み込んだ汗は、ブレイキーのジャズドラマーとしての魂が込められたものであり、ファンキーを刻み続けた大きな1本である。幾度もの来日コンサートでスティックを手にした人は多いかもしれないが、それぞれにそれはかけがいのない宝であろう。押入れに仕舞っておくには勿体ない。
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欧州ジャズ、今昔

2011-07-10 07:17:59 | Weblog
 このところ欧州ジャズという言葉を良く目にする。ディスクユニオンからは欧州ジャズを中心に編集した雑誌が創刊されたり、ジャズジャーナリズムでも特集が組まれたりと活字媒体を賑わしているようだ。CD店にもコーナーを設けているところもあり、聞きなれないプレイヤーの名前は発音に戸惑うほどである。売れ行きも好調なようで、アメリカジャズにはないヨーロッパジャズの魅力があるのだろう。

 60年代のヨーロッパジャズといえばフリージャズか、クラシックに毛の生えたジャズもどきで、とかくスウィングしない、という見方をされてきたが、60年代の初めにも正統派のスタイルを持ったジャズマンも存在した。なかでもピアニストのヤン・ハイツが中心になった「トリオ・コンセプション」は、アメリカジャズと変わらぬ質の高さでピアノ名盤に数えられる1枚だ。63年に当時の西ベルリンにあった「ブルーノート」というジャズクラブのライブ盤で、後のテテ・モントリューのトリオを支えたピーター・トランクのベースとドラムのジョー・ネイによるピアノトリオのスリリングな演奏を楽しめる。

 選曲も「枯葉」、「イン・ア・メロウ・トーン」、「朝日のようにさわやかに」というスタンダード中心で、理論抜きでジャズを楽しく演奏しようとする姿勢に好感が持てるし、ストレートな表現は世界共通のジャズ語に他ならない。ベニー・カーターの名作「ホエン・ライツ・アー・ロウ」が圧巻で、イントロは徐々に陽が落ちてゆく夕暮れ時の情景の幻想と、精神の安堵を醸し出しており、この辺りは如何にもヨーロッパジャズの叙情だが、歌うテーマと躍動感あふれるアドリブはヨーロッパジャズの偏見を吹き飛ばすほどスウィングする。難を言えばお客の反応で、拍手も疎らだ。ジャズをまだ身体で感じ取れなかったのかもしれない。

 最近発売されたり、CD化された欧州ジャズを全て聴いているわけではないが、フランク・アビタビレ、ラーシャ・ヤンソン、ステファノ・ボラーニ、ヤンシー・キョロシー等々、欧州のピアニストはテクニックやアイデアは本場のアメリカジャズをも凌駕する勢いがある。どのピアニストもクラシック理論に基づいた難解な曲ではなく、スタンダードで明朗快活にスウィングしている点では、欧州ジャズという言葉では括りきれない完全なジャズである。

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拝借しました、チェロキー族のメロディ。拝借しました、テーマ曲に。

2011-07-03 07:11:25 | Weblog
 異国を訪れたとき、その国に古くから伝わるメロディに惹かれ、取り上げることにより後のスタンダードになる曲がある。有名なところではスタン・ゲッツの「ディア・オールド・ストックホルム」を思い出すが、「チェロキー」もそのひとつと言っていいだろう。イギリス人のレイ・ノーブルが、「ザ・ヴェリー・ソート・オブ・ユー」のヒットを機にアメリカに渡り、そこで初めて耳にしたチェロキー族に伝わる恋の歌のメロディを拝借して作ったものだ。

 拝借といえば聞こえが良いが、剽窃と言わないまでも要はパクリである。こう言うとノーブルは礼を欠く輩にみえるが、アメリカで結成したバンドにはバド・フリーマンやクロード・ソーンヒル、そしてグレン・ミラーといった後のジャズシーンを飾る大物を雇い、独立後のミラー・サウンドの礎もこのバンドだから貢献度は高いし、何よりもこのメロディを広めたことに礼を言わなければならない。ノーブルがもしアメリカの地を踏まなかったら永遠にこの愛すべきメロディが埋もれ、そしてクリフォード・ブラウンのあのどこまでも美しく、艶やかで、スピードのある名演だって聴くことはなかっただろう。

 多くのプレイヤーがブラウンに続けとばかりに録音を残しているが、そのハードルはかなり高いようでこれを超える名演は耳にしないものの、これに次ぐと思われるのはジョー・ワイルダーだ。ハンク・ジョーンズのイントロに導かれてあの聴き慣れたメロディが出てくるかと思いきや、いきなりアドリブから入っている。これが良く歌う。テーマもコード進行もシンプルな構成のため簡単そうだが、いざアドリブとなるとコード・チェンジに寄りかかれないぶんだけ難しい曲の解釈としてはベストといえる。メロディを初っ端から崩す奏法は珍しくないが、ワイルダーのように歌心がないと原曲の持ち味を引き出せない。
 
 ノーブルが「チェロキー」を録音したのは1938年で、これがオリジナル・レコーディングになるが、大ヒットしたのは翌年録音したチャーリー・バーネット楽団である。何とバーネットはこの曲を楽団のテーマ曲にしたというからこちらが上手の拝借だ。するとバーネットはノーブルより酷い輩かといえばそうでもない。白人ながら初めて黒人プレイヤーを積極的に起用した人であり、リナ・ホーンもオスカー・ペティフォードもバーネットが世に出している。ジャズ界はまだまだ面白い話でつながっているからやめられない。

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