陸軍に入隊したばかりの若い兵士ジミー・デイヴィスが、寂しさを紛らすために夜空を見上げながら詩を綴る。未だ見ぬ恋人、戦地に赴くともしかすると永遠に逢えないかもしれない恋人を夢見る詩だった。この詩をあの歌手は気に入るだろうか、そして歌ってくれるだろうか、と考えたら眠りにつくこともできず兵士は、ファンレターを添えて手紙を出す。宛て名はミス・ビリー・ホリデイと書かれていた。
詩をいたく気に入ったビリーは、ロジャー・ラミレスとジミー・シャーマンに作曲を依頼する。こうしてできたのがビリーのテーマ曲のように親しまれる「ラヴァー・マン」で、どこにいるのか今はわからないけれど、きっといつか巡り会える恋人を夢み続ける、という自分を愛してくれる人のいない寂しさを歌った曲は、波乱万丈の人生を歩んだビリーにうってつけであった。44年にデッカと契約したビリーは初レコーディングのときに録音して以後何度も歌った曲で、哀しいまでの女心の表現はビリーの人生そのものであり、また詩を書いた兵士の死と隣り合わせの心情と重なり、聴くものの胸を打つ。
ビリーのトリビュート盤には欠かせない名曲を、イタリアきってのジャズシンガー、リリアン・テリーがトミー・フラナガン・トリオをバックにした「A Dream Comes True」で歌っている。テリーのイタリア盤はほとんど国内で紹介されずに終わっているが、イタリア・ジャズのゴッドマザーとも呼ばれる人で、このアルバムの裏ジャケットにはエリントンやビリー・ストレーホンと歓談している写真も載せられていた。82年にこのアルバムを録音するまで、声帯を痛め治療をしていたため数年間レコーディングのブランクがあったようだが、高音の伸びもよく、低音部のややしわがれた声もこの曲の雰囲気を出しており、アルバムタイトルのように夢が叶うような張りのある歌唱だ。
「ラヴァー・マン」というとパーカーのダイアル・セッションを思い出される方もあろう。演奏中意識を失くしそのままカマリロ精神病院に運ばれるが、それでも演奏は美しい劇的なものである。ビリーがこの詩を受け取ったときは戦時中で、どこもレコード化を引き受けてくれなかった。ようやくレコードが完成したときには、ジミーはすでにヨーロッパ戦線で戦死していたという。どこまでも劇的な曲である。
詩をいたく気に入ったビリーは、ロジャー・ラミレスとジミー・シャーマンに作曲を依頼する。こうしてできたのがビリーのテーマ曲のように親しまれる「ラヴァー・マン」で、どこにいるのか今はわからないけれど、きっといつか巡り会える恋人を夢み続ける、という自分を愛してくれる人のいない寂しさを歌った曲は、波乱万丈の人生を歩んだビリーにうってつけであった。44年にデッカと契約したビリーは初レコーディングのときに録音して以後何度も歌った曲で、哀しいまでの女心の表現はビリーの人生そのものであり、また詩を書いた兵士の死と隣り合わせの心情と重なり、聴くものの胸を打つ。
ビリーのトリビュート盤には欠かせない名曲を、イタリアきってのジャズシンガー、リリアン・テリーがトミー・フラナガン・トリオをバックにした「A Dream Comes True」で歌っている。テリーのイタリア盤はほとんど国内で紹介されずに終わっているが、イタリア・ジャズのゴッドマザーとも呼ばれる人で、このアルバムの裏ジャケットにはエリントンやビリー・ストレーホンと歓談している写真も載せられていた。82年にこのアルバムを録音するまで、声帯を痛め治療をしていたため数年間レコーディングのブランクがあったようだが、高音の伸びもよく、低音部のややしわがれた声もこの曲の雰囲気を出しており、アルバムタイトルのように夢が叶うような張りのある歌唱だ。
「ラヴァー・マン」というとパーカーのダイアル・セッションを思い出される方もあろう。演奏中意識を失くしそのままカマリロ精神病院に運ばれるが、それでも演奏は美しい劇的なものである。ビリーがこの詩を受け取ったときは戦時中で、どこもレコード化を引き受けてくれなかった。ようやくレコードが完成したときには、ジミーはすでにヨーロッパ戦線で戦死していたという。どこまでも劇的な曲である。