デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

シカゴから吹く風

2015-06-28 09:06:14 | Weblog
 ブルーノート盤「Blowing in From Chicago」でライナーノーツを担当したシカゴのコラムニスト、ジョー・シーガルは、コルトレーンが洩らした言葉を紹介している。「こんなに若くて優秀なテナーマンがたくさんいる街はシカゴだけだ」と。1957年の録音当時シカゴ出身者はジョニー・グリフィンを筆頭にこのアルバムの双頭リーダーとして名を連ねているクリフ・ジョーダンとジョン・ギルモアがいた。

 ともにこの時25歳である。シカゴに凄いテナーがいるよとアルフレッド・ライオンに紹介したのはホレス・シルヴァーだ。当然、ピアノはシルヴァーが弾く。この時期シルヴァーと付き合いのあるベースといえばダグ・ワトキンスとテディ・コティック、ドラムはルイ・ヘイズだが、何とカーリー・ラッセルとアート・ブレイキーで脇を固める。そう、あの54年の名盤「バードランドの夜」のリズム陣だ。いうなればオール・アメリカンならぬオール・ブルーノート・リズム・セクションという布陣である。デビュー盤にしては荷が重すぎるのではないか。いや、そんなことはない。

 シカゴで十分に経験を積んだだけのことはある。粗削りとはいえ勢いがそれを上回っており、一級品のハードバップに仕上がった。圧巻はこのアルバム中一番演奏時間が長いパーカーの曲「Billie's Bounce」で、頭からブレイキーが煽る煽る。普通はここでビビるのだが、冗談じゃないこのアルバムは俺たちのリーダー作だ。年寄りに勝手にさせてたまるかと言わんばかりにジョーダンとギルモアは分厚い音でテーマ合奏に入っていく。これでブレイキーもシルヴァーも乗った。こうなるとしめたものだ。完璧なブルーノート・セッションはこうして生まれたのだろう。

 このあとジョーダンはシルヴァー、ギルモアはブレイキーのバンドに活躍の場を移す。そういえばマイルスはロリンズの後継サックス奏者を探していたとき、キャノンボールとギルモアの名がリストにあったという。キャノンボールは教師としての契約が残っており、ギルモアはマイルスの言葉を借りるなら「ふさわしくなかった」と。親分から相談されたフィリー・ジョーが連れてきたのはコルトレーンだった。どこかで風向きが変わったのかもしれない。
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オーネット・コールマンとフリージャズの時代

2015-06-21 09:36:34 | Weblog
 今月11日に亡くなったオーネット・コールマンを初めて聴いたのは高校生のときだ。「ジャズ来るべきもの」だったか「ゴールデン・サークル」が先か、覚えていないが田舎のジャズ喫茶もどきにあったオーネットはこの2枚だった。ドン・チェリーと音程が微妙にずれるのが快感の「ロンリー・ウーマン」と、ひょうきんなテーマの「ヨーロピアン・エコーズ」はソロを口ずさめるほど聴き込んだ。

 そのスタイルが異端とされていたのを知っていたが、違和感はなく極自然に耳に入ってきた。それまでに聴いたハードバップや、リアルタイムで聴いているマイルスのモードとの違いはわかるが、それが批判されるのは理解できない。ジャズ書によるとパーカーとビ・バップが出てきたときも当初は受け入れられなかったというので、新しいものへの拒否反応が働いたのだろうか。それに自身がジャズを聴き込んでいないがために批評しようにもそれができないことと、オーネットが現れたときのジャズシーンをよく理解していない無知がすんなりそのスタイルに馴染んだともいえる。

 ただ「Free Jazz A Collective Improvisation」を、本格的鑑賞店と呼ばれるジャズ喫茶で聴いたときはさすがに度肝を抜かれた。左右のスピーカーから別々のカルテットの演奏が聴こえるのだ。メンバーにしてもエリック・ドルフィーやドン・チェリー、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェルは音楽的にもオーネット寄りであることはわかるが、フレディ・ハバード、それにスコット・ラファロ、「ジャズ来るべきもの」で共演しているとはいえ「サイドワインダー」のイメージが強いビリー・ヒギンズの3人はフリージャズとは結びつかない。ところがこのメンバーであることがオーネットの目指すフリージャズを形にしている。

 音楽におけるオーネットの信条は、「形式に従って曲を作るのではなく、作られた曲が形式になる」である。ジャズを根本から覆すものだ。ジャズの歴史を振り返るときデイキシー、スウィング、バップ、フリージャズとスタイルの変遷が語られる。そしてバディ・ボールデン、ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカーに次いでジャズの革命家としてオーネット・コールマンの名前が永遠に刻まれる。享年85歳。合掌。
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JBコレクター、クリスチャン・マクブライド

2015-06-14 09:33:23 | Weblog
 映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男」を観た。JBやソウル、ファンク系の音楽を熱心に聴くわけではないが、ミスター・ダイナマイトとかセックス・マシーン、ファンクの帝王等、数々のニックネームで呼ばれる20世紀最高のエンターテイナーの音楽と私生活には興味がある。プロデューサーにザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが加わっているときけば見逃すわけにはいかない。

 バンド・メンバーとの確執や友情、成功したがゆえの金銭トラブルと家庭不和等、ミュージシャンの伝記映画に付きものの筋立てだが、ライブシーンも多く、ステージのパフォーマンスも存分に楽しめる。ところで、そのJBとジャズがどこで結びつくのか。どうせ無理矢理つなげるのだろうと笑われそうだが、どっこいこれがスムーズな展開なのだ。ここで登場するのはジャンルやスタイルを問わず数多くのミュージシャンと共演してグラミー賞を3度受賞したクリスチャン・マクブライドである。何とこのベーシスト、JBの大ファンで、JBのレコード・コレクターとしてつとに有名だという。

 更に1995年の初リーダー作「Gettin' To It」に「Night Train」を収録しているのだ。 マイルスが麻薬から抜け出すため故郷のセントルイスに帰ったとき共演したジミー・フォレストが52年に作った曲で、その10年後にJBがカバーし大ヒットしている。このアルバムはロイ・ハーグローブをはじめジョシュア・レッドマン、サイラス・チェスナットという一流のメンバーが参加した豪華版だが、この曲はベース1本で演奏している。ピチカートとアルコを駆使したソロで、今までに磨いてきたテクニックのあるだけを披露したものだ。JBがステージで飛び跳ねている様子を太い音で表現したものだろう。

 ジャック・シフマン著「黒人ばかりのアポロ劇場」(SJ社)に、ジェット機やロールスロイス、500着とも1000着ともいわれるスーツ等、JBの個人財産目録が載っている。稼ぎ高は1963年に45万ドル、何とその5年後には250万ドルだ。1ドルが360円の固定相場の時代である。帝王とかゴッド・ファーザーと呼ばれるわけだ。JBの名盤「Live at The Apollo」を聴きたくなった。勿論、「Night Train」も歌っている。
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ビリー・ホリデイの身軽な旅

2015-06-07 09:28:18 | Weblog
 ♪I'm trav'lin' light because my man has gone・・・あの人がいってしまったから身軽な旅をつづけるの・・・ビリー・ホリデイでお馴染の「Trav'lin' Light」である。作詞はジョニー・マーサーなので、メロディはハロルド・アーレンやジェローム・カーンというタッグを組んだ作曲家の手によるものと思っていたが、意外なことに曲は、Jimmy Mundy と Trummy Young の共作になっている。

 マンディはアール・ハインズ楽団でアレンジャーとして注目された人でベニー・グッドマンやジーン・クルーパ、ハリー・ジェイムズ等のスウィング・バンドに華麗な編曲を提供したサックス奏者だ。一方、トラミー・ヤングは、ルイ・アームストロング・オールスターズのメンバーとして活躍したトロンボーン奏者で豪快なソロは定評ある。この曲はヤングがハインズのバンドにいたときによく演奏したもので、元の作者でもある。村尾陸男著「ジャズ詩大全」によると、アレンジもなく著作権の登録もしていなかったので、当時ポール・ホワイトマン楽団の編曲をしていたマンディにアレンジを頼んだという。当然、ホワイトマン楽団がそれを演奏する。それを聴いたのがジョニー・マーサーの奥さんで、このタイトルを付け、マーサーが詞を書いたそうだ。そしてホワイトマン楽団をバックにこの詞で歌ったのがビリーである。

 1942年の古い曲だが今でも録音される機会は多い。シンガポールのジャシンタが、1999年録音のジョニー・マーサー集で取り上げていた。高音質な録音で定評のあるレーベル「Groove Note」の「Autumn Leaves」である。同レーベルの第1作「Here's To Ben」は、ヴォーカル・ファンよりもオーディオ・マニアの間で評判になったアルバムだ。勿論こちらも抜けるような音を楽しめる。ウィル・ミラーのトランペットのイントロからかなり遅いテンポで歌いだす。息づかいも聴こえるまったりとした歌唱はアンニュイというのか官能的というのか妙に男心をくすぐる。

 ビリーはこの曲を三度録音している。最初は先に挙げた1942年にホワイトマン楽団をバックにしたもの、次いで1946年のカリフォルニアに於けるJATPのコンサート、そして1956年にトニー・スコット楽団が伴奏したものだ。それぞれに味わいがある。♪No one to see, I'm free as the breeze・・・私は風のように自由ね・・・このサビにビリーは惹かれたのかもしれない。
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