デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

フランク・シナトラの評伝

2008-09-28 08:12:54 | Weblog
 アーノルド・ショー著「シナトラ 20世紀のエンターテイナー」、キティ・ケリー著「ヒズ・ウェイ」、ともにフランク・シナトラの評伝である。前者はサブタイトルのようにエンターテイナーとしてスポットライトを浴びたシナトラを描き、後者はマフィアとの関係という陰のシナトラに焦点を絞ったものだ。ともにシナトラという人物を知るには恰好の書だが、歌手シナトラを聴くレコードについては系統立てて書かれていない。その穴を埋めるように一時代を築き上げた歌手としてレコードから足跡を追う貴重な本が出版された。

 シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパン代表、三具保夫さん著の「シナトラ My Way of Life」で、コロンビア、キャピトル、リプリーズと時代毎に数々のレコードが紹介されている。無味乾燥なディスコグラフィーではなく、丁寧に解説されたアルバムはコレクションの手助けにもなるだろうし、珍しい録音の紹介はマニアを唸らせ、巻末のベイシック・コレクションはこれからシナトラを聴こうという方には最良のガイドであろう。この書で初めて知ったのだが、グラミー賞にはカヴァー・デザイン賞があるようだ。アカデミー賞にしても作品賞が大きくクローズアップされるだけで、部門賞となるとその存在さえ知らないことが多い。

 その記念すべき58年の第1回グラミー賞で、カヴァー・デザイン賞を受賞したのが、血を流すピエロの「オンリー・ザ・ロンリー」である。アルバム・チャートのトップに立ちながら最優秀アルバム賞はヘンリー・マンシーニの「ピーター・ガン」にさらわれ、カヴァー・デザイン賞を受け取るシナトラの表情には落胆の色が認められたというからかなりの自信作だったに違いない。最優秀アルバム賞を逃したとはいえ、以前拙稿でも話題にした「ウィロー・ウィープ・フォー・ミー」を初め、「エンジェル・アイズ」、「グッドバイ」等、すべての曲がシナトラが歌うために書かれたとしか思えない説得力のある歌唱はシンガーの極致といえる作品である。半世紀経った今でもそれはバラード集の傑作であり、半世紀後でもスタンダードの手本とされるものだろう。

 前述の2冊の本は膨大な資料に基づき書かれたものだが、友人としてシナトラに接して書いた本にピート・ハミルの「ザ・ヴォイス」がある。ジャーナリストの目はシナトラ本人以上にシナトラを見つめていたが、三具さんはシナトラ本人以上にシナトラの音楽を知っている人なのかもしれない。
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ジョー・ヘンダーソンの書き出し

2008-09-21 08:11:22 | Weblog
 「珍しい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」、ワクワクする書き出しは、江戸川乱歩の傑作「鏡地獄」である。書き出しは文章のリズムを決めるばかりか、物語の方向さえも決めてしまう。いかに卓越した小説であっても読者が次のページを捲る魅力を持たないことには完読されることもなく、評価もされないだろうし後世に読まれることもない。多くの作家はこの書き出しにどれほどのエネルギーを費やしたのだろう。

 小説に限らずジャズアルバムも同じことが云える。ジョー・ヘンダーソンの初リーダー作「ページ・ワン」の書き出しは、「ブルー・ボッサ」であった。アルバムにも参加しているケニー・ドーハムの曲で、「ロータス・ブロッサム」同様、トランペットのバルブが華麗に上下するような乙張りのあるメロディーは強烈な印象を与える。マッコイ・タイナー、ブッチ・ウォーレン、ピート・ラロカという強靭なリズム陣に支えられ、彩のある曲に次から次へと流れるようにヘンダーソンのソロが続く。小説でいうなら次ページを捲るもどかしささえ覚える展開で、徹夜してでも一気に読ませる傑作ということになる。

 ヘンダーソンが登場した60年代前半というのは、ハードバップからモードへとジャズが大きな変化を迎える時代で、ジャズ・レーベル先端を行くブルーノートもその流れに逆らうことはできなかった。寧ろ積極的にその変化を推し進めたのはブルーノートでもある。「ページ・ワン」はある意味、ブルーノートの新しい1ページでもあり、後に新主流派と呼ばれる次世代を担っていくであろうヘンダーソンに期待がかかる。レーベルの威信とヘンダーソンの魅力を最大限に引き出すためにアルフレッド・ライオンが、「ジョー、ヘンだぜ、このフレーズは、乱歩、いや、乱暴だ」と吼え、噛み付いたのかもしれない。編集者の慧眼が作家の才能を伸ばしたように、ライオンもまたヘンダーソンの才能を開花させたのだ。

 多くのプレイヤーがレパートリーにする「ブルー・ボッサ」だが、未だにヘンダーソンの書き出しを超える演奏は聴いたことがないし、この書き出し以上のデビューアルバムを知らない。1ページ目の書き出しがこれほど強烈に印象付けられるのは珍しい話である。
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ロシアのジャズを聴いてみよう

2008-09-14 07:59:34 | Weblog
 朝青龍のサッカー騒動、時津風部屋の力士暴行死事件、そして今回のロシア出身力士による大麻騒動と角界はこのところ不祥事が続いている。北の湖理事長が弟子を庇うのは親方の鏡にみえるが、世間の鏡には理事長の保身に映るから嗤われても仕方がない。ロシア語通訳の米原万里さんのエッセーでロシアの様子は垣間見るが、大麻所持で逮捕された若ノ鵬は子どものときから吸っていたというからロシアでは簡単に入手ができ、タバコを吸う感覚だったのかもしれない。

 さてロシアのジャズはどうなのだろう。ロシア・ジャズ研究家として知られる新潟大学教授の鈴木正美さんが熱心に紹介されているようだが、音源が広く市場に出ることもなく聴く機会も少ない。写真のロシアン・ジャズ・カルテットはインパルスから発売されたもので聴かれた方も多いと思われる。ロシアン・ジャズ・カルテットとはいっても二人のロシア・ジャズメンが64年にアメリカを訪れたときに録音されたもので、ピアノのロジャー・ケラウェイとドラムのグラディ・テイトが参加したいわば歓迎セッションなのだろう。写真の右に写っているのはロシアのベーシストだが東洋人に見え、角界同様、国際色豊かな取り組みでもある。

 ロシアのアルト奏者のオリジナルとスタンダードを配したアルバムで、クラシックのレコードかと間違うような室内楽的サウンドだ。アルトの奏法は抑揚のないもので、クラシックの素養が窺えるが、フレーズはジャズの語法でドルフィーあたりを研究したのだろう。スウィング感には欠けるものの二人のロシア・ジャズメンがアメリカのジャズという空気に触れ、ジャズ腺を刺激した好セッションである。ヴォーカルも得意なテイトの選曲なのだろうか、サミー・フェインの「シークレット・ラブ」が静かに美しく演奏されていて、一体となったアンサンブルはジャズに国境がないことを教えてくれる。「シークレット・ラブ」は映画「カラミティ・ジェーン」の主題歌だが、カラミティは疫病神の意味も持つ。

 疫病神を解雇しただけでは閉鎖的な相撲界が改まるものではない。外国人力士を入門禁止にすべきという意見もあり、相撲協会の組織自体の在り方も問われている。協会は裸になり膿を土俵から押し出さない限り体質も変らないだろう。力士の正装は裸だという。
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天才パウエルと奇才モンク

2008-09-07 07:08:40 | Weblog
 仕事の流れで、ファミリーレストランに入った。めったに利用しないが、車数台の移動のため必然的に駐車場が広い店を選ぶことになる。土曜日の昼時ともなれば家族連れで賑わっており、案内された席の隣では小学低学年の子が食事もそこそこにゲームに夢中だ。よく見る光景だが、そのうちテーブルに足を上げた。それも靴を履いたままである。親は食事を残したことを注意する様子がないばかりか、足を上げたことを叱ろうともしない。

 所は変ってニューヨークのクラブ。席に着くなり純白のテーブルに足を投げ出して演奏を聴きはじめた男がいた。ボーイが飛んできて注意をしてもそ知らぬ顔だ。ボーイがうるさく言うと、今度は同席していた男が怒った。「この男は天才なのだ。ほっとけ!」と。足を投げ出したのは天才バド・パウエルで、ボーイに怒ったのは奇才セロニアス・モンクである。その天才が師である奇才に捧げたアルバムが「ポートレイト・オブ・セロニアス」で、ジャケットを飾るアブストラクトな絵はパノニカ男爵夫人が描いたものだ。天才と奇才を視覚的に表現するならこの絵のように明暗が重なりながらもくっきりと明が現れ、そしてそれが全体の極一部に過ぎないのであろう。

 61年パリのライブ録音で、ヴァーヴやブルーノート時代の神がかったプレイや並はずれたテクニックは聴けないが、天才ではない人間的な味わいがある。パーカーと並び天才破滅型のパウエルは、絶頂期に比べ晩年の作品となるとパウエル信者といえど封印したくなるアルバムもあるようだが、そんな演奏でさえも凡百のピアニストにはない輝きがあった。ピエール・ミシェロとケニー・クラークをバックにモンクの作品「オフ・マイナー」から始まる熱気に満ちたライブは、中盤の「ノー・ネイム・ブルース」の出だしを間違えて弾きなおす。天才がマイナーで無名のピアニストになったかのような演奏ではあるが、やはり他をよせつけない天才だけが持つ魅力に溢れている。

 件のレストランでウェイターを促し注意をさせると、「ほら怒られたでしょう」母親である。父親はどこぞの国の首相のように他人事のようだ。この親子はマークス寿子さんの著書「とんでもない母親と情けない男の国日本」を読んだほうがよかろう。
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