1961年の正月にジャズ・メッセンジャーズが来日したのを機に日本に一大ファンキー・ブームが起こった。リー・モーガンにウェイン・ショーター、ボビー・ティモンズ、ジミー・メリット、そして御大アート・ブレイキーというジャズコンボ史に残る最強のメンバーだ。初日のコンサートの模様は81年に20年の時を経て発表されたのでお聴きになった方もあろう。圧巻はファンキーの代名詞ともいえるティモンズ作の「モーニン」である。
油井正一氏が、「そば屋の出前持ちまでも、モーニンを口ずさんだ」と当時の様子を表現されていたが、同年に流行ったクレイジー・キャッツの「スーダラ節」や、フランク永井の「君恋し」に匹敵するほどの大ヒットだったのだろう。ゴスペルのコール・アンド・レスポンス形式に基づいて書かれた曲で、一度聴いたら忘れられないほど強烈なメロディでもあるし、アドリブでティモンズのブロック・コードが熱を帯びていく様は恍惚が頂点に達するエクスタシーに似ている。モーニン・ウイズ・ヘイゼルと呼ばれるクラブ・サンジェルマンの演奏で、ヘイゼル・スコットが歓喜の声を上げたのはこのトランス状態に陥ったからだ。
ファンキー臭が漂うメッセンジャーズの代表曲は、アドリブの素材として魅力があるようで多くのプレイヤーがカヴァーしている。マーティ・ペイチがスマートなアレンジを施した演奏はとても同じ曲だとは思えないほど品があったが、やはり泥臭いほうが曲を面白くさせるようだ。ウエス・モンゴメリーのリバーサイド盤「ポートレイト」がその良い例で、ウエスの出身地であるインディアナポリス時代からの盟友、オルガン奏者のメル・ラインの参加でよりファンキー色を強めている。レコードに収録されたテイクは後に完全版が出たことからウエスの第2ソロ・コーラス部分がカットされたものとわかるが、それでも素晴らしい。
ティモンズがこの曲を書いた1959年当時、ティモンズとリー・モーガン、そしてジョン・ヘンドリックスは同じ安アパートに住んでいた。毎夜誰かの部屋に集まっては、ジャズ議論を交わし、人生を語ったのだろう。ティモンズのピアノに合わせて即興でヘンドリックスは歌詞を付けた。日本のザ・ピーナッツが歌っていたのはこの歌詞である。ヘンドリックスでなくても蕎麦屋の岡持ちのように口ずさみたくなるテーマだ。
油井正一氏が、「そば屋の出前持ちまでも、モーニンを口ずさんだ」と当時の様子を表現されていたが、同年に流行ったクレイジー・キャッツの「スーダラ節」や、フランク永井の「君恋し」に匹敵するほどの大ヒットだったのだろう。ゴスペルのコール・アンド・レスポンス形式に基づいて書かれた曲で、一度聴いたら忘れられないほど強烈なメロディでもあるし、アドリブでティモンズのブロック・コードが熱を帯びていく様は恍惚が頂点に達するエクスタシーに似ている。モーニン・ウイズ・ヘイゼルと呼ばれるクラブ・サンジェルマンの演奏で、ヘイゼル・スコットが歓喜の声を上げたのはこのトランス状態に陥ったからだ。
ファンキー臭が漂うメッセンジャーズの代表曲は、アドリブの素材として魅力があるようで多くのプレイヤーがカヴァーしている。マーティ・ペイチがスマートなアレンジを施した演奏はとても同じ曲だとは思えないほど品があったが、やはり泥臭いほうが曲を面白くさせるようだ。ウエス・モンゴメリーのリバーサイド盤「ポートレイト」がその良い例で、ウエスの出身地であるインディアナポリス時代からの盟友、オルガン奏者のメル・ラインの参加でよりファンキー色を強めている。レコードに収録されたテイクは後に完全版が出たことからウエスの第2ソロ・コーラス部分がカットされたものとわかるが、それでも素晴らしい。
ティモンズがこの曲を書いた1959年当時、ティモンズとリー・モーガン、そしてジョン・ヘンドリックスは同じ安アパートに住んでいた。毎夜誰かの部屋に集まっては、ジャズ議論を交わし、人生を語ったのだろう。ティモンズのピアノに合わせて即興でヘンドリックスは歌詞を付けた。日本のザ・ピーナッツが歌っていたのはこの歌詞である。ヘンドリックスでなくても蕎麦屋の岡持ちのように口ずさみたくなるテーマだ。