デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

200稿は、2トランペッツのように

2009-10-25 07:55:26 | Weblog
 マリナーズのイチロー選手が、大リーグ史上で初めての9年連続200安打の金字塔を打ち立て、歓声の渦に包まれた。豪快なホームランや、豪速球による奪三振に最大の魅力を感じるアメリカの野球ファンは、イチローの放つ内野安打やバントヒットには魅力がないようで、2001年にメジャーデビューを果たしたころはブーイングの嵐だったという。野球の面白さはホームランだけでないことを、コツコツとバットで語り続ける人だ。

 イチロー選手の偉業には遥か及ぶべくもないが、拙ブログも本稿が200本目になった。ヒットと三振を繰り返しながらこうして続けてこられたのは、毎週ご覧いただいている多くの皆様がいたからである。おおよそジャズ名盤を紹介するサイトとは程遠い内容だろうが、モダンジャズを中心にデキシー、スウィングからフリージャズ、ヴォーカルまで幅広く話題にした名盤、珍盤、奇盤の数々は、1枚1枚愛着があり、どのジャズ雑誌にも出ているホームラン的名盤よりも、話題にされない影に隠れたバントヒットのようなアルバムにこそジャズのエッセンスが詰まっているような気がする。その作品からジャズの奥深さに触れていただけたなら幸いである。

 そして、何よりも拙稿にコメントをお寄せいただくのが一番嬉しい。コメント欄はベスト3を中心に、ときに見たことも聴いたこともないアルバムや、ジャズ人名辞典にも載っていないプレイヤーも挙げられ、マニアックなジャズ談義は勉強になり、話題から逸れた荒唐無稽、罵詈雑言、誹謗中傷も飛び出す展開の楽しさもある。その対話は、アート・ファーマーとドナルド・バードの「2トランペッツ」のインタープレイをみるようだ。同一楽器によるバトルで、ライバル意識からくる適度な緊張感と、お互いを尊重する調和のとれた4小節のアドリブ交換が見事だ。そこに流れる空気はコメント欄と同じように以心伝心以外の何ものでもない。

 日本プロ野球で通算200勝を達成すると、名球会入りの資格を得るが、その投手のほとんどはインタビューに、個人記録よりもチームの勝利のためだと答える。そして、次の1勝が一心にバットを振る野球少年を育てるのだと。ブログは自己満足の世界ともいわれるが、底流にはジャズの啓蒙と発展がある。拙ブログで知ったアルバムでジャズの魅力を再発見し、次稿で一人でも多くのジャズファンが増えるならブログ冥利に尽きるというものだ。
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代役のレイ・ブライアントがジャズフェスの主役になった日

2009-10-18 17:44:24 | Weblog
 「入ります!」の名台詞で任侠映画ファンに愛された女賭博師シリーズは、江波杏子のはまり役だった。第1作「女の賭場」は、江波にとって58本目にして初めての主演映画というから驚く。それも事故で降板した若尾文子の代役だったという。急遽、予定されていた俳優が何らかの理由により出演できなくなることはよくあるが、本来演じるはずの俳優以上に演じきるのは容易なことではないだろう。

 72年6月23日、スイスのジュネーブ湖岸に面するモントルーで開催されたジャズ・フェスティバルでこの不測の事態が起きた。予定されていたオスカー・ピーターソンが出演を断ったことから騒動が始まる。主催者はステージに穴をあけるわけにはいかず慌てて代役を探すのだが、ジャズピアノの巨匠の代役となれば、ピアニストなら誰でもとはいかない。そして白羽の矢が立ったのはレイ・ブライアントだった。それまで大舞台でソロ・ピアノを弾いたことがないブライアントは躊躇するが、先輩格であるピーターソンの代役なら名誉とばかりに意を決する。この舞台は江波杏子同様、水を得た魚のように活き活きとしたソロを繰り広げ聴衆を圧倒した。

 ブライアントのディスコグラフィーを紐解くとモダンジャズの歴史を見るようだが、マイルスを初め、ロリンズ、ブレイキー等々、さらにベティ・カーターやカーメン・マクレイの歌伴、ビッグネイムのアルバムに参加しているにもかかわらず意外に印象は薄い。「ゴールデン・イヤリング」を筆頭に、数枚のリーダーアルバムは直ぐに浮かぶだろうが、サイドとして加わったアルバムを思い出せるだろうか。それは主役を立てることに徹底してまわっているからであり、決して主役以上のソロを取らない脇役を心得ているからである。それがひとたび主役に立つとモントルーの観客を一瞬にして魅了する力を発揮するのだ。

 モントルーから十数年後、当地でブライアントのソロを聴いた。モントルーとは比べようもない小さなステージだったが、あの大舞台と同じように気負いも気取りもなく、またよくある地方公演の手抜きもなく、ゴスペルを基盤とした味わい深いブルースを鍵盤に刻んでゆく。直向きに自分のジャズ人生を鍵盤に映し出しす姿は、巨匠と呼ぶのが相応しかった。その巨匠の代役は、どんなピアニストでも務まらない。
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サージ・チャロフは駆け足で、星へのきざはしを登った

2009-10-11 08:41:43 | Weblog
 「星空を眺めていると、それがいかにも小さく感じられる。それは私が大きくなりつつあるか、でなければ宇宙が収縮しているのだ。さもなければその両者が同時に起こっているのだ」と。生の本質や人間実存の究極を追求し続けたドイツの詩人リルケの言葉である。幸運の星の下に生まれるとか、愛するあのひとは星になったとか、星が生や死に喩えられるのは、手が届きそうで届かない星の神秘と重ねるからだろうか。

 「Stairway To The Stars」は、ポール・ホワイトマン楽団のアレンジャー、マット・マルネックが作曲した「パーク・アベニュー・ファンタジー」に、「スターダスト」に詞を付けた星が好きなミッチェル・パリッシュが詞を付け改題したものだ。二人で星への階段を作り、天国を目指して一緒に登って行こう、という典型的な歌詞のラブソングだが、階段とは人生を表し、階段の最上段である星は天国、即ち死をさす。無数に広がる星空を眺め、星の輝きを人生に重ねるとき、過去の忘れえぬ愛惜や未来への夢を限りなく広げるロマンチックなメロディは、生と死の階(きざはし)を一段一段登る力強ささえ感じる。

 ウディ・ハーマン楽団のフォー・ブラザーズで一翼を担ったサージ・チャロフが、「ブルー・サージ」でこの曲を取り上げており、バリトン・サックスで流麗に吹く。ソニー・クラーク、ルロイ・ヴィネガー、フィリー・ジョー・ジョーンズをバックにしたワン・ホーンは、録音数が少ないチャロフだけに貴重であり、最後のレコーディングにあたる。ダウンビート誌でバリトン・サックス部門のトップ・プレイヤーとして数年間輝いただけあり、楽器の重さを感じさせない躍動的なフレーズと、中高音を強く吹いたときに出る楽器特有の乾いた音色が魅力だ。そして、ビブラートが効いた余韻はジャケットの女性のようにうっとりさせるだろう。

 若死にする多くのジャズマンは、音楽性を高めるため麻薬やアルコールに手を染め命を縮めたが、チャロフは脊椎ガンという不可抗力とも言うべき病気だった。チャロフは一音一音重みのある音を、階段を一段一段登るように刻み、その34年間を駆け足で星まで登ったのであろう。夜空に青く光る星があれば、きっとそれはサージ・チャロフのブルー・スターなのかもしれない。
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ふたりのポール、ハウ・ハイ・ザ・ムーンを弾く

2009-10-04 07:35:54 | Weblog
 エレクトリックギターのレスポール・モデルに名を残すレス・ポールは、発明家としても知られている。エレキギターの原型とも言えるソリッドボディを作成し、レコードのカッティングマシーンを自作し、ビング・クロスビーにプレゼントされた当時では珍しいドイツ製のテープレコーダーを改造して多重録音も成功させた。多くのロック・ギタリストに尊敬されるポールだが、発明家としてもノーベル賞ものである。

 数多くヒット曲を出していて、なかでも夫人のメリー・フォードとのデュオ「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は、51年に全米1位を獲得する大ヒットになった。モーガン・ルイスが40年に書いた曲で、ヘレン・フォレストがベニー・グッドマン楽団の専属時代に歌ってヒットしたものの、その後は誰が歌っても当たらないことからプロデューサーは録音に難色を示したという。パーカーが「オーニソロジー」を、そしてコールマン・ホーキンスが「ビーン・アット・ザ・メット」をこのコード進行を基に作曲しているが、その当たらない曲の独特なコード進行を巧みにエレキギターで蘇らせたレス・ポールの功績は大きい。

 このヒット以来、ジャズ・ヴォーカリストも挙って歌うようになるが、決定的名唱といえばグラミー賞を獲得したエラ・フィッツジェラルドのイン・ベルリンだろう。ポール・スミスの歯切れのいいイントロから歌いだし、圧巻は一音一句ミスのない高速のスキャットで、さらに「ソルト・ピーナッツ」や「煙が目にしみる」のフレーズもちりばめ聴衆を沸かす。鳴り止まぬ拍手をかき消すようにポールのピアノが一段と響き渡り、熱いライブの興奮は止まない。ビッグバンドをバックに歌うのが歌手にとって最高の場であろうが、そのビッグバンドに匹敵するほどの歌伴ができるのがポール・スミスである。さぞステージをあとにするエラも気持ちがよかったに違いない。

 レス・ポールはギターの音を増幅するため試行錯誤を繰り返すが、最初に思いついたのは電話の受話器をギターに取り付けてアンプとして試すことだった。電話ついでに、メリー・フォードの本名は Iris Colleen Summers で、これではレス・ポールという名前と相性が良くないと考えたポールは、その芸名を電話帳から探したという。発明も発見も身近なものにヒントがあるようだ。
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