1950年代半ば、戦場カメラマンのユージン・スミスが住むアパートで、気鋭のミュージシャンが連夜セッションしていた。その様子を捉えたドキュメンタリー映画「ジャズ・ロフト」に、10月17日に亡くなったカーラ・ブレイが出てくる。グレイト・アメリカン・ミュージック・ホールのライブ盤のジャケット写真と同じ派手な衣装にマントヒヒの髪型だ。デビュー当時から小生はその出で立ちと楽曲から魔女と呼んでいるのだが、話し方といい、仕種といいイメージ通りだった。
カーラを知ったのはピアニストではなく、1965年のアート・ファーマー「Sing Me Softly Of The Blues」の作曲者としてだ。ファーマーがイメージをふくらましながら吹く叙情的なテーマが美しい。そして68年のゲーリー・バートン「A Genuine Tong Funeral」、70年のチャーリー・ヘイデン「Liberation Music Orchestra」に提供した楽曲は一風変わっていたもののジャズのエッセンスが弾けるほど詰まっている。映画で「ようやくジャズが聴ける仕事に就いたのはバードランドのタバコ売りだった」とインタビューに答えていたが、ここで聴いた数多くのライブから学び、新しいジャズのスタイルを模索し、作曲法を磨いたのだろう。
強烈だったのは71年のJCOA「Escalator Over The Hill」だ。詩人のポール・ヘインズをはじめ夫のマイケル・マントラー、 ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、ラズウェル・ラッド、ジョン・マクラフリン、チャーリー・ヘイデン、ジャック・ブルース、ポール・モチアン、シーラ・ジョーダン等々、当時の精鋭が並んでいる。集団即興演奏の頂点は69年のバーデンバーデン・フリー・ジャズ・オーケストラによる「Gittin’ to Know Y’All」と思っていたが、それとは違う形のフリージャズの極みをみたような気がした。数多くの素晴らしいアルバムをリリースしたカーラだが、多くの物議を醸し影響力が強いのはこの作品といえる。
カーラの熱心なファンから魔女呼ばわりして無礼者と叱られそうだが、1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた女子バレーボール日本代表チーム「東洋の魔女」、少女の成長を描いた「魔女の宅急便」、映画「西の魔女が死んだ」で初主演ながら名演技で魅了したシャーリー・マクレーンの娘サチ・パーカー等、「魔女」は最上級の形容詞である。ジャズ界の魔女、カーラ・ブレイ、享年87歳。合掌。
カーラを知ったのはピアニストではなく、1965年のアート・ファーマー「Sing Me Softly Of The Blues」の作曲者としてだ。ファーマーがイメージをふくらましながら吹く叙情的なテーマが美しい。そして68年のゲーリー・バートン「A Genuine Tong Funeral」、70年のチャーリー・ヘイデン「Liberation Music Orchestra」に提供した楽曲は一風変わっていたもののジャズのエッセンスが弾けるほど詰まっている。映画で「ようやくジャズが聴ける仕事に就いたのはバードランドのタバコ売りだった」とインタビューに答えていたが、ここで聴いた数多くのライブから学び、新しいジャズのスタイルを模索し、作曲法を磨いたのだろう。
強烈だったのは71年のJCOA「Escalator Over The Hill」だ。詩人のポール・ヘインズをはじめ夫のマイケル・マントラー、 ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、ラズウェル・ラッド、ジョン・マクラフリン、チャーリー・ヘイデン、ジャック・ブルース、ポール・モチアン、シーラ・ジョーダン等々、当時の精鋭が並んでいる。集団即興演奏の頂点は69年のバーデンバーデン・フリー・ジャズ・オーケストラによる「Gittin’ to Know Y’All」と思っていたが、それとは違う形のフリージャズの極みをみたような気がした。数多くの素晴らしいアルバムをリリースしたカーラだが、多くの物議を醸し影響力が強いのはこの作品といえる。
カーラの熱心なファンから魔女呼ばわりして無礼者と叱られそうだが、1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた女子バレーボール日本代表チーム「東洋の魔女」、少女の成長を描いた「魔女の宅急便」、映画「西の魔女が死んだ」で初主演ながら名演技で魅了したシャーリー・マクレーンの娘サチ・パーカー等、「魔女」は最上級の形容詞である。ジャズ界の魔女、カーラ・ブレイ、享年87歳。合掌。