「英国で生まれ、王様になれないと知るやいなや国を出た」、「言うまでもなくわたしは才能に恵まれていた」。誇大妄想狂か、はたまた自信過剰者の発言に聞こえるが、笑いのなかにペーソスあふれるジョークで全米を沸かしたボブ・ホープの自伝の一節である。アメリカ映画界を代表する喜劇俳優で、ビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアと共演した映画、珍道中シリーズでお馴染みだが、過去半世紀の10人の大統領ともラフな付き合いをするほど交遊関係も広い。
颯爽とステージに登場するときに流れるホープのテーマ曲があり、アカデミー賞のホストを務めたときも美しいメロディがバックを飾っていた。ラルフ・レインジャーが書いた「サンクス・フォー・ザ・メモリー」で、ホープが映画界でも注目された38年の作品「百万弗大放送」の主題歌である。ホープとシャーリー・ロスが劇中でデュエットし、その年のアカデミー主題歌賞を受賞して以来、出演する場に合わせて歌詞に手を加え、自分の持ち歌にしたものだ。多くの歌手が好んでレパートリーにしそうな別れた恋人との思い出に感謝するラブソングだが、シナトラ、クロスビー、更にはサラ、エラと大御所の名唱が並ぶのは偉大なホープのテーマ曲によるものかもしれない。
その取り上げにくい曲に果敢に挑戦したのはボビー・ノリスである。86年録音のアルバム「You And The Night And The Music」で初めて日本に紹介されたノリスは、このとき46歳だった。アメリカでのデビューは66年と遡り、ノリスはジャズヴォーカルを目指していたものの、美人コンテストでも賞を得たほどの美貌ゆえアイドル路線で売り出そうとポップスのシングル盤を何枚か出したがヒットに恵まれていない。低めの艶のある声で、ケニー・バロン・トリオに支えられて情感たっぷりに歌に溶け込み、大歌手に引けを取らない見事な表現をみせる。美貌と素質に恵まれても売り出せないアメリカの音楽市場は、ヴィジュアルだけでアイドルになる国とは大きく事情が違うようだ。
ウィキペディアによると、「サンクス・フォー・ザ・メモリー」は、「後世まで広く歌い継がれる大スタンダードになったため、コメディアンのテーマにはもったいないほどの佳曲である、とする評が多い」とある。ホープならそんな評に、「これは、わたしの愛する女、アメリカへのラヴ・ソングだ」と自伝に寄せた一言で返すだろう。4歳のときにアメリカに移住したホープは、誇大妄想狂でもなく自信過剰者でもない才能に恵まれた男だった。そしてアメリカに感謝を忘れたことがない。
颯爽とステージに登場するときに流れるホープのテーマ曲があり、アカデミー賞のホストを務めたときも美しいメロディがバックを飾っていた。ラルフ・レインジャーが書いた「サンクス・フォー・ザ・メモリー」で、ホープが映画界でも注目された38年の作品「百万弗大放送」の主題歌である。ホープとシャーリー・ロスが劇中でデュエットし、その年のアカデミー主題歌賞を受賞して以来、出演する場に合わせて歌詞に手を加え、自分の持ち歌にしたものだ。多くの歌手が好んでレパートリーにしそうな別れた恋人との思い出に感謝するラブソングだが、シナトラ、クロスビー、更にはサラ、エラと大御所の名唱が並ぶのは偉大なホープのテーマ曲によるものかもしれない。
その取り上げにくい曲に果敢に挑戦したのはボビー・ノリスである。86年録音のアルバム「You And The Night And The Music」で初めて日本に紹介されたノリスは、このとき46歳だった。アメリカでのデビューは66年と遡り、ノリスはジャズヴォーカルを目指していたものの、美人コンテストでも賞を得たほどの美貌ゆえアイドル路線で売り出そうとポップスのシングル盤を何枚か出したがヒットに恵まれていない。低めの艶のある声で、ケニー・バロン・トリオに支えられて情感たっぷりに歌に溶け込み、大歌手に引けを取らない見事な表現をみせる。美貌と素質に恵まれても売り出せないアメリカの音楽市場は、ヴィジュアルだけでアイドルになる国とは大きく事情が違うようだ。
ウィキペディアによると、「サンクス・フォー・ザ・メモリー」は、「後世まで広く歌い継がれる大スタンダードになったため、コメディアンのテーマにはもったいないほどの佳曲である、とする評が多い」とある。ホープならそんな評に、「これは、わたしの愛する女、アメリカへのラヴ・ソングだ」と自伝に寄せた一言で返すだろう。4歳のときにアメリカに移住したホープは、誇大妄想狂でもなく自信過剰者でもない才能に恵まれた男だった。そしてアメリカに感謝を忘れたことがない。