デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

ボビー・ノリスがボブ・ホープのテーマ曲を歌う

2010-07-25 09:07:03 | Weblog
 「英国で生まれ、王様になれないと知るやいなや国を出た」、「言うまでもなくわたしは才能に恵まれていた」。誇大妄想狂か、はたまた自信過剰者の発言に聞こえるが、笑いのなかにペーソスあふれるジョークで全米を沸かしたボブ・ホープの自伝の一節である。アメリカ映画界を代表する喜劇俳優で、ビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアと共演した映画、珍道中シリーズでお馴染みだが、過去半世紀の10人の大統領ともラフな付き合いをするほど交遊関係も広い。

 颯爽とステージに登場するときに流れるホープのテーマ曲があり、アカデミー賞のホストを務めたときも美しいメロディがバックを飾っていた。ラルフ・レインジャーが書いた「サンクス・フォー・ザ・メモリー」で、ホープが映画界でも注目された38年の作品「百万弗大放送」の主題歌である。ホープとシャーリー・ロスが劇中でデュエットし、その年のアカデミー主題歌賞を受賞して以来、出演する場に合わせて歌詞に手を加え、自分の持ち歌にしたものだ。多くの歌手が好んでレパートリーにしそうな別れた恋人との思い出に感謝するラブソングだが、シナトラ、クロスビー、更にはサラ、エラと大御所の名唱が並ぶのは偉大なホープのテーマ曲によるものかもしれない。

 その取り上げにくい曲に果敢に挑戦したのはボビー・ノリスである。86年録音のアルバム「You And The Night And The Music」で初めて日本に紹介されたノリスは、このとき46歳だった。アメリカでのデビューは66年と遡り、ノリスはジャズヴォーカルを目指していたものの、美人コンテストでも賞を得たほどの美貌ゆえアイドル路線で売り出そうとポップスのシングル盤を何枚か出したがヒットに恵まれていない。低めの艶のある声で、ケニー・バロン・トリオに支えられて情感たっぷりに歌に溶け込み、大歌手に引けを取らない見事な表現をみせる。美貌と素質に恵まれても売り出せないアメリカの音楽市場は、ヴィジュアルだけでアイドルになる国とは大きく事情が違うようだ。

 ウィキペディアによると、「サンクス・フォー・ザ・メモリー」は、「後世まで広く歌い継がれる大スタンダードになったため、コメディアンのテーマにはもったいないほどの佳曲である、とする評が多い」とある。ホープならそんな評に、「これは、わたしの愛する女、アメリカへのラヴ・ソングだ」と自伝に寄せた一言で返すだろう。4歳のときにアメリカに移住したホープは、誇大妄想狂でもなく自信過剰者でもない才能に恵まれた男だった。そしてアメリカに感謝を忘れたことがない。
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スイングジャーナル、それはバイブルだった

2010-07-18 08:04:31 | Weblog
 ビートルズやヴェンチャーズに夢中だった中学生のころ毎月買っていた音楽誌に「ミュージック・ライフ」がある。当時はエレキ全盛の時代で、書店には娯楽雑誌「平凡」と並んで堆く積まれていた。その横に僅かな部数がひっそりと置かれ、それでいて威光を放っていたのが「スイングジャーナル」だった。それがジャズの専門誌であることを知っていたが、表紙からしてスノビッシュで、手に取ることすら畏れ多い。

 その「スイングジャーナル」が今年の7月号で休刊した。創刊は昭和22年というからその歴史は63年の長きに及ぶ。日本語版ダウンビート、ジャズ・マガジン、ジャズ・ランド等、次から次へと創刊され廃刊を余儀なくされたジャズ誌の変遷を見ても、63年に亘ってジャズを普及し啓蒙した功績は計り知れない。60年代に多くのジャズメンが来日し、蕎麦屋の出前の兄ちゃんがモーニンを口ずさんでいたという伝説もあるファンキーブームが訪れたころ部数を伸ばし、その数は30万部に及んだ。当時一番売れた雑誌「平凡」の最高部数が140万部という数字からみても、いかに多くのジャズファンに愛されていたのかがわかる。

 ジャズを聴きだしたころ隅から隅まで読み、日本ばかりか世界中のジャズの話題と新譜の情報を知った方もおられるだろう。ディスク・レビューを指針に聴きたい作品を選び、買うアルバムを決め、ライブ案内をたよりに生の演奏に接することもできた。最近はネットで新譜を初めライブやジャズ情報がいち早く伝わることもあり、音楽誌そのものの存在価値や意義の希薄性が問われる出版事情だが、ネット媒体では知りえないジャズ情報が詰まっているのも「スイングジャーナル」である。音自体もCD店で簡単に試聴でき、レコードとオーディオ業界の低迷による広告収入は減るばかりだが、一日も早い復刊を望みたい。

 表紙のジャッキー・マクリーンが眩しい写真は66年の7月号である。この号から休刊号まで一冊も欠かさず44年間読み続けた「スイングジャーナル」は、増刊号を入れると600冊を越えるが、本棚からあふれ、置き場所に追われても処分はできない。それは一生をともにするジャズのバイブルだから・・・初めてそのジャズ専門誌を書店のレジに持っていく少年は少しばかり大人の世界に触れた様な気がして、得意げだった。
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やるもんだ!ハンク・ジョーンズ

2010-07-11 07:46:40 | Weblog
 91歳で今年5月に亡くなった現役最長老ピアニスト、ハンク・ジョーンズを最初に聴いたのはどのアルバムか?と訊かれたらほとんどのジャズファンは「サムシン・エルス」と答えるだろう。モダンジャズを代表する作品だけに聴く機会も多く、それもジャズを聴き出したころに巡り会う確立が高い。針を降ろして直ぐに始まるピアノの荘重なイントロと、洗練されたソロパートはジャズを聴き慣れない耳に強烈な印象を与えた。      

 パーカーを初め、マイルス、ベニー・グッドマン、ミルト・ジャクソン、チャーリー・ヘイドン、渡辺貞夫等々、ジャズの歴史を生きたハンクの共演者は幅広い。あらゆるスタイルのジャズに対応できる柔軟性を持ち、それでいて決して独自のスタイルを変えなかった人である。エラ・フィッツジェラルドの伴奏者を5年続けただけあり歌伴も見事で、CBSスタジオのスタッフ・ピアニスト時代にはフランク・シナトラやビリー・ホリデイ、そして62年にマリリン・モンローがケネディ大統領の誕生パーティで歌った「ハッピー・バースデイ」の伴奏を務めたのもハンクだった。ピアニストとしての高い実力と、人としての信頼力の厚さが認められたのだろう。

 ゴールデン・クレスト盤の「Gigi」は、邦題「恋の手ほどき」とタイトルが付いたミュージカル映画の曲を取り上げたアルバムだ。「マイ・フェア・レディ」を作曲したフレデリック・ロウの作品をハンクは、まるでピアノの手ほどきをするように丹念に音を紡いでいく。バックはギターのバリー・ガルブレイスと、スタジオミュージシャンと思われる無名のベースとドラムなのだが、完璧なサポートだ。この編成でポピュラーな歌曲、そして1曲あたり3分程度の短い演奏となるとイージーリスニングに聴こえるが、随所にジャズのエッセンスをちりばめ、ハンク独自のピアノ美学を構築している。

 「サムシン・エルス」でも、このリーダーアルバムでもピアノに向かう姿勢は同じだ。控え目にならないサイド作と、前面に出過ぎないリーダー作、歌うこととスイングすることを常に心掛け、正統派のピアノスタイルを貫いた人柄が偲ばれる。大手家電メーカーのテレビCMで、ハンクの優しい眼差しと美しいピアノを初めて知った人もいるだろう。どの世代をもジャズピアノの虜にしたハンク・ジョーンズ、やるもんだ!
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ブログ再開のお知らせ~Among Friends

2010-07-04 07:46:43 | Weblog
 札幌市に引っ越して3ヶ月が経ち、町並みや取り巻く環境にも慣れ、ようやく落ち着きました。レコードと書籍は完全ではありませんが手に届く場所に収まりましたので、ブログを再開します。この半年、休止中にもかかわらずアクセス数が減らなかったのが何より嬉しいことですし、更新されないことをご承知のうえご覧頂いた皆様、またブログ再開に向けて叱咤激励のコメントをお寄せいただいた皆様に感謝申し上げます。

 5月の連休明けに一週間ほど東京に行く機会がありました。学生時代に遊んだ街を訪ね、当時からの友人に会うためでしたが、一番の目的は拙ブログにコメントをお寄せいただく皆様にお会いすることでした。時間の都合もあり皆様と一堂に会する機会はありませんでしたが、KAMI さん、4438miles さん、25-25 さん、naru さんと順にお会いし、心行くまでジャズを語り合いました。それは私にとって生涯のジャズ友に巡り会えた貴重な体験でしたし、また有意義な充電時間でもありました。お忙しい中、お時間を空けてくださった皆様に改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 「再会」と題されたアルバムはアート・ペッパーとラス・フリーマンが約20年ぶりに共演したアルバムです。両者とも50年代のタンパ盤やイントロ盤のような迸る感性や、研ぎ澄まされたフレーズはみられませんが、それでもなお心を打つのは旧友の馴れ合いセッションに終わらない適度の緊張が保たれ、リラックスした温もりを感じるからでしょうか。50年代のウエスト・ジャズシーンを牽引していた時期は前進することがスタープレイヤーに課せられた義務であり、それが数々の名演を生むエネルギーになったのは事実ですが、一方で余裕がないことからドラッグに手を染めたのも事実です。心身とも健康になった二人の再会には余裕という空気が流れていたのかもしれません。

 ペッパーとフリーマンの再会セッションのように、ブログを休止していた半年を埋める余裕は小生にはありませんが、ブログを再開し、皆様と再会することでその空白も徐々に埋まるでしょう。以前同様、ジャズという宝箱から珠玉の名演や隠れた名盤を取り出し、毎週日曜日更新を目標にしておりますので、またご覧頂ければ幸いです。皆様からの忌憚のないご意見ご感想をお待ちしております。
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