デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

リクエストしたユー・エン・ミー

2011-10-30 07:17:50 | Weblog
 毎月のように廉価盤CDが発売されている。そのほとんどは繰り返し出ているアルバムだが、なかにはレコードで入手できないものもあり見逃せない。つい先日発売されたなかにアル・コーン&ズート・シムズの「ユー・エン・ミー」があった。このアルバムには少しばかり想い出がある。もう40年も前のことだが、中野ブロードウェイに「シャトー」というジャズ喫茶があった。ジャズ喫茶といっても本格的鑑賞店ではなく会話の邪魔にならない適度な音量だ。

 あるとき、その店のマスターが、小生がサラ回している店に現れ、リクエストしたのがこのアルバムだった。マスター氏はフランク永井に似た感じの人で白ワイシャツにネクタイ姿からは所謂ジャズ屋には見えなかったが、よほどアル・コーンとズート・シムズのテナーデュオが好きだったのだろう。コーンの高音とシムズの低音が際立つようにアンプを調整し、いつもより音量を上げるとノリノリだった。当時はまだ国内盤で再発されておらずメジャーレーベルのマーキューリーとはいえオリジナル盤はそう容易く入手できない。マスター氏は何度もジャケットを見返し、満足そうに店をあとにした。

 同一楽器のデュオチームは短命で終わるケースが多いが、このチームはジャズクラブのハーフノートを拠点に長きに亘って活動している。それは共にレスター・ヤングの信奉者であり、ウディ・ハーマン楽団のフォア・ブラザーズ時代から音楽理念が一致していたことによるもので音色やフレーズの濃淡あれど白人チームとは思えないほどドライブ感があったからだ。同一楽器のバトルもスリルがあり、それがジャズの醍醐味ではあるが、交互にほどよいバランスを保ちながらテンポよく演奏する協調性もまたジャズの美なのである。絶妙なコンビ「You 'n Me」はどちらも主役であろう。

 その後「シャトー」を訪れたとき、小生の顔を覚えている様子がなかったので、返ってくる答えを知りながら悪戯心もあり、このレコードをリクエストした。生意気な若僧の若気の至りである。いまやオタクビル化した中野ブロードウェイにその店は疾うにないが、あのマスター氏はお元気だろうか。もしかすると簡単に入手できるようになった「ユー・エン・ミー」を聴いて満足そうな笑顔を浮かべているかもしれない。
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人種差別の荒波に漕ぎ出したショウボート

2011-10-23 07:56:34 | Weblog
 ニューヨーク・タイムズの辛口な劇評で知られるフランク・リッチは、「ショウボート」があったからこそ、「オクラホマ!」も「ポギーとベス」も、そして「ウェスト・サイド物語」も生まれたと書いている。スタンダード・ナンバーの多くはミュージカルに書かれた曲だが、「サウンド・オブ・ミュージック」や「マイ・フェア・レディ」のような有名なものは知っていても、曲以上にその内容を語れることはない。

 さてリッチがミュージカルを変えたという「ショウボート」とは、どんなストーリーなのだろう。白人と黒人の結婚を軸に人種問題を浮き彫りにした作品で、1927年の初演当時、白人と黒人の結婚は法律で禁止されていたという時代背景を考慮すると、この内容はかなり勇気が必要だったといえる。ボーイ・ミーツ・ガール・ストリーを主軸にした音楽付きレビューが一般的なミュージカルに一石を投じた意味では歴史に残る作品だ。音楽を担当したのはジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン2世で、「オール・マン・リヴァー」をはじめ多くの曲がこのミュージカルから生まれた。

 なかでも多くのジャズマンが取り上げるのが、「ノーバディ・エルス・バット・ミー」だ。45年にリバイバルの際に追加された曲でカーンの最後の曲でもある。ケニー・ドーハムは丸ごとこの作品の曲ばかりを集めたアルバムを作っていて、端整で原曲を生かした丁寧な演奏はシリアスな内容に相応しい。録音されたのは60年で、まだ人種差別の壁が厚い時代である。ドーハムが公民権運動に参加した話は聞かないが、盟友のマックス・ローチが同じ年に「ウィ・インシスト」を録音していることから少なからずその思想に影響を受けていたことは考えられる。「ショウボート」というアルバムを作ったのは、穏やかなドーハムが示した静かな運動だったのかもしれない。

 「ショウボート」は何度か映画化されているが、MGMで51年に制作するときレナ・ホーンを起用する予定だった。30年代のハリウッドでは白人の黒塗りが伝統だったので、画期的な配役だったが、制作直前に奴隷制が根強く残る南部での上映を憂慮しエヴァ・ガードナーを抜擢したという。同じく白人と黒人の結婚を真正面から見据えた問題作に「招かれざる客」がある。67年の作品だ。ハリウッドが人種の壁に風穴を開けるには相当な時間が必要だったといえよう。

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フォー・フレッシュメンに憧れて

2011-10-16 07:39:48 | Weblog
 フォー・エイセスの慕情、フォー・シーズンズのシェリー、ビーチ・ボーイズのサーファー・ガール、ブラザーズ・フォーのグリーンフィールズ、プラターズのオンリー・ユー、テンプテーションズのマイ・ガール、スタイリスティックスの愛がすべて・・・オールディズ・ファンは良くご存知の曲だが、さて共通するのは・・・ポップス、ロック、フォーク、そしてR&Bと幅広いが、全て美しいコーラスが聴ける。

 多くのコーラス・グループに多大な影響を与えたのは、1948年にインディアナポリスのバトラー大学で誕生したフォー・フレッシュメンだ。そのオリジナルメンバーであるボブ・フラニガンに続き、8月20日にロス・バーバーが82歳で亡くなり、これで初代メンバー全員が亡くなった。デビューのきっかけはスタン・ケントンがたまたま知人から、ケントン・バンドのようなサウンドを出すコーラス・グループがいるから聴いてみないかと誘われたことによる。どこにでもいる当時主流のスキャットのコーラスだろうと高を括っていたケントンが、あまりの美しさにバーのスタンドからストンと落ちるほど驚いたそうだ。

 男声カルテットのコーラスは、上から2つ目のパートがメロディを歌うクローズ・ハーモニーが一般的だったが、フォー・フレッシュメンは一番上のパートにメロディを持っていったオープン・ハーモニーに特徴がある。通常より高い声でメロディを歌うことになるので女声を加えれば簡単だが、男声ばかりのグループでは広い声域と技量の持ち主がいないとハーモニーが形成されない。それをいとも簡単にやってのけ、さらに楽器も上手い。数あるアルバムでも最高傑作は、フォー・フレッシュメン&5トロンボーンズに止どめを刺す。5トランペット、5サックス、5ギターとの同種の作品もあるが、温かい四声ハーモニーとトロンボーン独特のふくよかな音色がこれほどマッチする例は見ない。

 結成後、幾度かメンバーも変り、年齢的にはオールドマンだが、常に高水準を保ち、今尚そのモダン・ジャズ・コーラスの美しいハーモニーとユニゾンは新鮮に響く。ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは少年のころフォー・フレッシュメンに憧れ、そのテクニックを盗もうと研究したそうだ。そこからロック史上に残る名盤「グッド・ヴァイブレーション」が誕生したといっていい。今でもフォー・フレッシュメンに憧れる少年は多いという。
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フランク・ロソリーノの後はアンディ・マーティンに任せろ

2011-10-09 07:56:48 | Weblog
 ウェスト・コーストを代表するトロンボーン奏者、フランク・ロソリーノは、ジャズをメインにポップスや映画音楽の録音までありとあらゆるセッションに引っ張りだこになった人だ。低予算のため一発録りが多いスタジオの仕事で要求されるのは変化に富んだアドリブや表現力よりも、譜面に正確で常に安定した演奏ができることが条件になる。当時最高のテクニックを誇ったロソリーノは、どんな仕事であれ完璧にこなしていたという。

 そのロソリーノの後継者と呼ばれるのはアンディ・マーティンだ。ロソリーノが活躍していた1960年に生まれたマーティンは、ビル・ホルマンやクインシー・ジョーンズのビッグバンドでの仕事をはじめ、ポピュラー畑ではポール・アンカ、ニール・ダイアモンドのレコーディング、さらに猿の惑星、スパイダーマンといった映画音楽に至るまでフィールドは広い。まさにロソリーノの音楽活動をそのまま引き継いだ形だ。ロソリーノ譲りの超絶とまで言われる技巧を持ち、片隅にしかクレジットされない小さな仕事も引き受けたからには手抜きをしないどころか他のミュージシャンまでをも鼓舞する積極性が買われたのである。

 「It's Fine...It's Andy !」はロソリーノに捧げたワンホーンのアルバムで、ヤン・ラングレンが極上のピアノでマーティンを支えたアルバムだ。ロソリーノの愛想曲が中心だが、なかでも何度か録音している「ドキシー」が圧巻で、ロソリーノ風に吹くのではなく作者のロリンズの意図を計ったようにテーマの切り出しは力強い。高低差のある早いフレーズのアドリブは見事なもので楽器がまるで身体の一部かとさえ思わせるほどだ。トロンボーンは正確に演奏するのが難しい楽器といわれ、早いパッセージをスライドさせるには相当な練習量が必要とされるが、マーティンもロソリーノ同様、現場という練習を重ねたことだろう。

 忘れてならないのは効率よくトロンボーンを響かせるマウスピースで、形状やリムにより微妙に音が変るそうだ。世界中の金管プレーヤーが愛用しているテリー・ワーバートンが製作したなかにフランク・ロソリーノ・モデルがあり、歯切れの良い発音とやせることの無い高音を実現したマウスピースだという。このマウスピースを使用することで誰でもがロソリーノやマーティンのような深みのある音を出せるわけではないが、技巧派に一歩近づけるかもしれない。
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アーヴィング・バーリンに小僧呼ばわりされたコール・ポーター

2011-10-02 08:32:00 | Weblog
 ピーターの法則で知られる教育学者ローレンス・J・ピーターの著書「Peter's Quotations」に、アーヴィング・バーリンの「Listen kid, take my advice, never hate a song that has sold half a million copies.」という言葉が引用されている。「坊や、覚えておいたほうがいい。50万枚売れた曲はバカにしちゃいかんよ」とでも訳すのだろうか。アメリカのシューベルトと呼ばれたソングライターに小僧呼ばわりされたのは誰か・・・

 コール・ポーターである。いきさつが書かれていないので推測の域を出ないが、ポーターが先輩のバーリンに自作曲がミリオンセラーに届かなかったことを愚痴ったので、嗜めたものと思われる。バーリンといえばユダヤ移民でアメリカに渡ったときは靴磨きで生計を立てていたという。一方、ポーターは大金持ちの家に生まれ、大金持ちの未亡人と結婚している。ミリオンセラーが大ヒットの目安とされ、如何にその曲を書くのかが作曲家としてのステータスとプライドなのだが、形になるのは印税収入であり、その形を量る二人の価値観の違いが出たものであろう。さて、更に推測だがその曲は何か・・・

 What Is This Thing Called Love? ではなかろうか。1929年にミュージカル「ウェイク・アップ・アンド・ドリーム」のために書かれた曲で、ポーターの出世作であり、初ヒット曲である。「恋とは何でしょう」という邦題通りロマンティックで美しいメロディだ。名演は数知れずで、そのほとんどは美しく演奏されるが、無骨なタッチでバップ・ナンバーのように弾いたのはバリー・ハリスである。注目すべきはエルヴィン・ジョーンズの参加で、多彩なドラミングに刺激を受けたのだろうか、やや内向的なハリスにはみられない積極性が前面に出ており原曲を忘れるほどアドリブは激しい。それでいて美しいラインを損なわない名演である。

 数々のヒット曲を世に送り出したポーターの総売り上げ枚数は算出不可能だが、一曲でバーリンの「ホワイト・クリスマス」に匹敵するほど売れた曲はない。ビング・クロスビーだけで5000万枚のシングル盤を売ったとされ、あらゆるカヴァーを入れるとその数は1億枚といわれるが、毎年クリスマスに間違いなく売れるから将来天文学的数字になるだろう。偉大なソングライター、コール・ポーターを小僧と呼べるのはアーヴィング・バーリンだけかもしれない。
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