今月8日に75歳で亡くなられた島倉千代子さんは、お幾つになっても可愛らしい人だった。1955年、16歳のときに「この世の花」でデビューしているので半世紀以上も歌手として活躍したことになる。当時は、泣き節の天才少女歌手と呼ばれたというが、歳を重ねても少女のような仕種は変わらない。昭和でいうと30年で、戦後から丁度10年という節目の年は、神武景気に乗り日本が高度経済成長を迎える年でもあった。
この年に単身アメリカに渡ったシンガーがいる。日本ではナンシー梅木の芸名で知られる梅木美代志だ。戦後10年とはいえ、政治経済や科学技術ならまだしも芸能にいたってはアメリカとの交流がおぼつかない時期のことだから相当勇気がいる。因みにジャズメンの来日記録を遡ってみると、53年にJATPとルイ・アームストロング・オールスターズが公演しているだけで、54年は1件も来日記録がない。当時、梅木は角田孝&シックスや、レイモンド・コンデのゲイ・セプテットで日本のジャズ歌手の草分けとして活躍しており、兄が進駐軍の通訳をしていた関係で米軍に知合いが多いことから渡米が持ち上がったのだろう。
活動の舞台をアメリカに移して間もない56年に着物姿でテレビに出演して人気を博し、翌57年には映画「サヨナラ」で東洋人の俳優として初のアカデミー賞を受賞しているからラッキー・ガールといっていい。「Miyoshi」という本名をタイトルにしたアルバムはマーキュリー・レーベルの第2作で、ハル・ムーニー率いるオーケストラをバックにスタンダード・ナンバーを伸び伸びと歌っている。サミー・フェイン作の「ザット・オールド・フィーリング」は、日本人のシンガーとは思えないほどゴージャスなバックにはまっており、アメリカ的なフィーリングはハリウッドに進出すべく身に着けたものといえよう。
昭和30年には映画「ジャンケン娘」で三人娘と呼ばれた美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミが共演している。この後、ひばりは流行歌に徹し、いづみはポピュラーソング色を出し、チエミはジャズ寄りと、それぞれ独自のカラーを強調することで三人三様の特色を打ち出す。そして、「からたち日記」や「ほんきかしら」のヒットを重ね歌謡曲の王道を行く人、アメリカに夢と希望を抱いた人、「人生いろいろ」である。
この年に単身アメリカに渡ったシンガーがいる。日本ではナンシー梅木の芸名で知られる梅木美代志だ。戦後10年とはいえ、政治経済や科学技術ならまだしも芸能にいたってはアメリカとの交流がおぼつかない時期のことだから相当勇気がいる。因みにジャズメンの来日記録を遡ってみると、53年にJATPとルイ・アームストロング・オールスターズが公演しているだけで、54年は1件も来日記録がない。当時、梅木は角田孝&シックスや、レイモンド・コンデのゲイ・セプテットで日本のジャズ歌手の草分けとして活躍しており、兄が進駐軍の通訳をしていた関係で米軍に知合いが多いことから渡米が持ち上がったのだろう。
活動の舞台をアメリカに移して間もない56年に着物姿でテレビに出演して人気を博し、翌57年には映画「サヨナラ」で東洋人の俳優として初のアカデミー賞を受賞しているからラッキー・ガールといっていい。「Miyoshi」という本名をタイトルにしたアルバムはマーキュリー・レーベルの第2作で、ハル・ムーニー率いるオーケストラをバックにスタンダード・ナンバーを伸び伸びと歌っている。サミー・フェイン作の「ザット・オールド・フィーリング」は、日本人のシンガーとは思えないほどゴージャスなバックにはまっており、アメリカ的なフィーリングはハリウッドに進出すべく身に着けたものといえよう。
昭和30年には映画「ジャンケン娘」で三人娘と呼ばれた美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミが共演している。この後、ひばりは流行歌に徹し、いづみはポピュラーソング色を出し、チエミはジャズ寄りと、それぞれ独自のカラーを強調することで三人三様の特色を打ち出す。そして、「からたち日記」や「ほんきかしら」のヒットを重ね歌謡曲の王道を行く人、アメリカに夢と希望を抱いた人、「人生いろいろ」である。