デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

丸いリア・トランクとお尻、そして円いキャノンボール

2009-03-29 07:06:41 | Weblog
 今秋開催される東京モーターショーの規模が大幅に縮小されるという。ショーの中心だった米ビッグスリーが不参加を決め、それに追随する各国のメーカーも相次いだことによる。54年に開催以来、各メーカーが展示する近未来型のデザインや飛躍的な性能に心躍らしたモーターファンにとっては寂しいが、工場操業停止や派遣社員の首切りを余儀なくされる世界的な自動車不況となれば仕方がない。

 キャノンボール・アダレイの「Sophisticated Swing」は、自動車業界が活況を呈していた57年のアルバムだ。赤いベンツ・コンバーチブルのリア・トランクと、モーターショーに彩を添えるコンパニオンのお尻が印象的なジャケットで、ともに丸味を帯びた曲線が美しい。キャノンボールが弟のナット・アダレイ、そしてリズムセクションにはジュニア・マンス、サム・ジョーンズ、ジミー・コブを配した自己のバンドの初録音で、クリフォード・ブラウンに捧げた「Tribute to Brownie」や、スタンダードの「Spirng is Here」を切々と吹き上げる。円みを帯びた美しいアルト・ラインが一層輝くのは、レギュラー・クインテットを結成した自信と意気込みによるものだろう。

 キャノンボールが一躍ニューヨークのジャズシーンに名を轟かしたのは、カフェボヘミアでオスカー・ペティフォードのステージに飛び入りしてからだ。ジャズクラブで無名の若者が果敢にステージに上がることは珍しくないが、ほとんどは敢え無く降りるので、その夜もペティフォードは馬鹿にしたような顔でベンツがスタートダッシュするスピードでベースを弾きはじめる。たいてい、このハイテンポに追いつかないが、キャノンボールはついてきた。しかも、人食い人種を意味する「Cannibals」からそのニックネームが付いたと言われる体力で吹きまくり、ついにはペティフォードがダウンし、メンバーのホレス・シルヴァーとケニー・クラークも仰天したという。パーカー再来伝説の一夜である。

 さて、ジャケットの女性が自分で車のドアを開けたのか、開けてもらったのかは不明だが、女性のために男性がドアを開ける習慣のない日本で、男性が女性のためにドアを開けるのは、一説によると車が新しいか、女性が新しいか、どちらかだという。なるほど思い当たる。
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ビッグ・バンド人生一筋・クラーク・テリー

2009-03-22 08:18:03 | Weblog
 ビッグ・バンドの経営は難しいと言われているが、長寿だったカウント・ペイシーとデューク・エリントンの二大楽団は、リーダーの偉大さは勿論だが、ビッグ・バンド・アンサンブルの要ともいえる編曲を担う優秀なアレンジャーに恵まれていた。そして、練り上げられたスコアに命を吹き込むのはバンドを構成するメンバーであり、其々のメンバーがリーダー作を作る実力者揃いだ。常に高い音楽性を保つことが存続につながる。

 その二大楽団に在籍したのがクラーク・テリーだ。48~51年をペイシー楽団、51~59年をエリントン楽団で活躍し、さらに59~60年をクインシー・ジョーンズ楽団、そして60年代末からは自己のビッグ・バンドも結成するというビッグ・バンド人生を歩んだトランペッターである。インパルスに「ハッピー・ホーンズ」というアルバムを録音しているが、このタイトルこそテリーの明朗な音楽性を表していよう。重厚なアンサンブルから抜け出るソロは明るい音色と、軽妙且つ洒脱なフレージングは、一際バンドを華やかにするものだ。バンドの存続には経営力も重要な要素であり、優秀なリーダーなら迷わずテリーをヘッドハンティングするだろう。

 テリーが設立した Etoile Records の「Big Bad Band」は70年の録音で、テリーが結成したビッグ・バンド名をタイトルにしている。肝心なアレンジはフィル・ウッズ、フランク・ウェス、そしてアーニー・ウィルキンスが担当し、メンバーにはレイ・コープランド、ジョージ・コールマン、ドン・フリードマンという実力者が並ぶ。ヘッドアレンジだけで自在なアドリブを展開するペイシー・スタイルと、「私の楽器はバンドである」と言ったエリントンの一体感を肌で学んだテリーならではのバンドだ。ビッグ・バンドのノウハウを知り尽くしたテリーはワンホーンのコンボでも光るが、ビッグ・バンドを背景にするのが最も輝いている。

 マイルスが若いころテリーをアイドルとして大きな影響を受けたのは有名な話だ。マイルスでなくともトランペッターなら一度はテリーのようにビッグ・バンドをバックに朗々と歌うソロに憧れ、自己のビッグ・バンドを結成したいと願うのだろうが、誰でもが経営できないのがビッグ・バンドの難しさだ。
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バブスの敬、エリントンの愛

2009-03-15 08:43:15 | Weblog
 エリントンは回想している。譜面を渡されてあまり時間がなくても、譜面から曲の本質を読み取り、一ヶ月間も練習したようにうたうのだ。一語一語はっきり発音し、わかりやすく、感情もこもっていた。セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大寺院で撮った彼女の写真を見ると・・・なんと、彼女は天使なのだ。彼女は、歌の問題を美しい容姿のように見事に解決したすばらしい人物である、と。

 エリントンをして天使と言わしめたのはスウェーデンの歌姫、アリス・バブスである。エリントンが63年にリプリーズ・レコードのARマンとして数人のミュージシャンを録音する権利を与えられるという変った契約で、最初にエリントン自身の曲で録音したのがバブスだった。当時スウェーデンでは名の知られた広音域のソプラノ歌手で、オペラばかりでなくジャズやブルースも歌えることから白羽の矢が立ったのだろう。子どもたちから大統領まで、多くの人を魅了したジャズの天才は音楽することばかりではなく、埋もれている豊かな才能ある人を世界中から見つけ出し、その才能をさらに伸ばす人であった。

 「Serenading Duke Ellington」は、74年にエリントンが亡くなったあと、恩師に敬愛を込めて吹き込まれたものだ。ニルス・リンドバーグ・オーケストラをバックにエリントンがバブスのために書いた「There's Something About Me」をはじめ全曲エリントン・ナンバーで構成され、ジョニー・ホッジスのために書かれた「Don't Get Around Much Anymore」も歌っている。ボブ・ラッセルが後から詞を付けたせいか歌詞に主語がない変った曲だが、歯切れがよくチャーミングなメロディはポール・マッカトニーをはじめポップミュージシャンも取り上げるほどだ。バブスの歌はまるでホッジスのアルトラインをそのまま澄み切った声に映し出したかのように美しい。

 エリントンは、アリス・バブスは作曲家の夢である、と言っている。エリントンはいつも曲を書くときに、まずバンドの誰にソロを取ってもらうのかイメージするという。このプレイヤーに演奏してもらおう、あのシンガーに歌わせてみたい、名曲とはこうしてプレイヤーを特定することで生まれ、その名演名唱がさらに曲の普遍的価値を高めるのだろう。
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蔵から出てきたティナ・ブルックス

2009-03-08 07:53:29 | Weblog
 封切が予定されていた映画や発売予定のアルバムが何らかの理由により中止になる「お蔵入り」の語源は、蔵にしまい込み陽の目を見ることがないからという説と、本来よりも早く千秋楽を迎えたことを「千秋楽」の「楽」を逆さまにした「くら」と呼んだことからという説があるようだ。どちらにしても公開や発売を楽しみにしていたファンにとっては残念なことであり、前評判が高いほどさまざまな憶測も飛び交う。

 ジャズレコードにもお蔵入りは数多くあり、ティナ・ブルックスのブルーノート・セッション「マイナー・ムーブ」もその1枚である。58年に録音されながら未発表のまま埋もれ、日本のキングレコードが発掘したのは80年代のことだった。当時唯一発売されていた「トゥルー・ブルー」よりも前のセッションで、事実上ブルックスの初リーダーアルバムにあたり、リー・モーガン、ソニー・クラーク、ダグ・ワトキンス、そしてアート・ブレイキーという錚々たるメンバーがサポートしている。R&Bバンド出身特有のアーシーなテナーはテクニック的にも問題もなく、典型的なハードバップは当時のブルーノート路線から見ると外れているわけでもないのに何故発売が見送られたのか不思議でならない。

 未発表だったとはいえ、オリジナル2曲とスタンダード3曲を程好く配置した作品はデビューを飾るに相応しい内容で、マット・デニスの名作「エブリシング・ハプンズ・トゥー・ミー」も収録されている。チェット・ベイカーのクールなヴォーカルで知られる曲で、そのメロディの美しさとアドリブの面白さからインストでも度々取り上げられる曲だ。何度となく演奏したであろう手馴れたバック陣を相手にティナはやや起伏に欠けるものの、伸びのある高音と濁りのない低音をバランスよくコード進行にのせている。フレージングは荒削りながらデビューアルバムとしては及第点で、発売に踏み切ってもブルーノートの名を汚すものではなかっただろう。

 ティナにはもう1枚、BLP-4052というレコード番号とジャケット・デザインまで決まっていながらお蔵入りした「Back to the Tracks」もあり、幻のテナーマンと呼ばれる所以である。アルバムはお蔵入りしたまま晩年は病院と刑務所で過ごしたティナは、Everything Happens to Me ~なにもかも悪いことばかり起こる、と思ったかもしれない。
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ジム・ホールは髪で悩んでいた

2009-03-01 07:55:34 | Weblog
 「もったいない むだ毛処理する 娘の毛」、「かきあげる 仕草にあこがれ 頭かく」、「パソコンで 少し髪の毛 足してみる」、日本自毛植毛センターが募った薄毛への悲哀を詠んだ毛髪川柳だ。多くの人が経験する髪の悩みをユーモアたっぷりに表現していて、そこはかないペーソスさえ漂う。「会議室 座るの最後 立つの先」そんな風景を目にされた方、いや自分かもしれない人もおられるだろう。

 ジャズ界で抜け毛に悩んだ人にジム・ホールがいる。チコ・ハミルトンのバンドでその実力を広く知られるころは当然フサフサとした髪だったが、ジミー・ジュフリーと共演したことでジャケット写真の頭に変った。ジュフリーがホールとボブ・ブルックマイヤーで組んだ変則トリオは、ドラムレスでリズムを想定し、さらにベースなしでベースラインを刻むという高度なテクニックが要求されたため、ホールはこのストレスで髪が抜けてしまったそうだ。ホールが研究したベースラインの上に更にコードを乗せるハーモナイズド・ベースラインと呼ばれる奏法は、その後の多くのギタリストに影響を与え、髪の毛を犠牲にしたアイデアはその頭のように輝きがある。

 76年の来日時に東京で録音された「Jazz Impressions of Japan」は、「無髪歌」、いや「無言歌」という邦題が付けられ、当時ダイレクトカッティングで録音されたことも話題を呼んだ。ドン・トンプソンとテリー・クラークのサポートを得て、ホールの美しい絃の響きと甘美でデリケートなアドリブラインは一層冴え渡る。70年代は Sheffield Lab レーベルを筆頭として高音質を謳い文句に多くのダイレクトカッティング盤がリリースされたが、どんなに録音技術やカッティング技術が優れていたとしても演奏が優れていなければオーディオファイル向けのチェックレコードにしか過ぎない。「無言歌」はジャズファン、ギターフリーク、そしてオーディオマニアをも唸らせるアルバムであろう。

 ホールはジュフリーと共演後、62年にアート・ファーマーとグループを組み、知的な相互作用によるスリリングな展開はハーフノートのライブに記録されている。ホールより2歳年上のファーマーは、いつもホールに敬語を使ったという。毛髪川柳の一句、「頭見て 敬語使うな 年下だ!」と思ったに違いない。
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