デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

唸り声のセンチメンタル・ムードは感情的だった

2013-07-28 09:48:33 | Weblog
 エリントンが書いた名曲は数多いが、なかでもバラードの傑作「イン・ア・センチメンタル・ムード」は、ミュージシャンなら一度は歌い演奏する曲ではないだろうか。エリントン自身による初演は1935年だが、クーティ・ウィリアムスをはじめローレンス・ブラウン、ジョニー・ホッジス、ハリー・カーネイという豪華なメンバーが揃っていたことに改めて感心する。SP時代ということもあり僅か3分16秒の演奏だが、テンポ、構成、ソロの発展等々、その後のカヴァーの手本といっていい。

 どれほどの録音があるのか見当つかないが、ヴァイヴの名演といえばデイブ・パイクである。録音は62年初頭で、タイトル通り50年代半ばから活動を始めたパイクにとって初めてのピークだ。60年代前後はミルト・ジャクソンに追いつけ追い越せとばかりにマイク・マイニエリをはじめテディ・チャールズ、レム・ウィンチェスター、ウォルト・ディッカーソン、ゲイリー・バートン等、次世代のヴァイブ奏者が登場した。マイニエリは61年にダウンビート誌のヴァイヴ新人賞に輝いているが、その2年後パイクも同賞を獲得している。自身の音楽活動にとって最初のピークであることは勿論だが、ライバルのなかでもピークに立ったと自負したのかもしれない。

 美しいメロディはより美しく演奏されるべきと思うが、一音一音余韻を残した音板の響きと、パイクお得意の唸り声が共鳴するテーマは美しいとはいえないものの不思議な魅力がある。感傷的というより感情的なセンチメンタル・ムードとでもいえばいいだろうか。一方、感傷的なのはビル・エヴァンスである。このアルバムの更なる魅力はこのエヴァンスの参加によるものだが、いまひとつ元気がない。前年7月にスコット・ラファロを亡くした心の傷がまだ癒えていないのだろう。それでもあの弾む音色と泉が湧く如くの新鮮なフレーズは、ラファロと組んだトリオのときと変わりないのはさすがといえる。

 この曲はエリントンが母の死を悼んで作ったものだ。エリントンの自伝「A列車で行こう」(晶文社刊)にこんな一節がある。「わたしの母、デイジーを正確に理解してもらう描写の言葉を見つけるのはむずかしい。というのは、わたしの妹ルース以外、母のように立派で美しい母親をだれも持ったことがないからである」と。立派で美しい母への尊敬がこんなにも美しいメロディを生んだのだろう。
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セルダン・パウエルの華麗な経歴

2013-07-21 09:23:06 | Weblog
 多くのビッグバンドが存在したスウィング・ジャズ全盛期のころ、プレイヤーは楽器ひとつ抱えてバンドを渡り歩くのが常だった。一番の理由はギャラだが、なかには全米を回るツアーに嫌気がさしたり、金銭や女性を巡ってリーダーやバンド仲間とトラブルになることもある。リーダーも心得たもので、他のバンドから引き抜いたり、補充するプレイヤーを用意をしていたという。それだけ層が厚かったのだろう。

 幾つのもバンド経歴があるプレイヤーは、このようなトラブルを抱えて棲家を変えているが、実力と人柄を買われて次から次へと引き抜かれたテナー奏者がいる。49年にベティ・メイスのバンドを皮切りにラッキー・ミリンダー、サイ・オリヴァー、ニール・ヘフティ、ジョニー・リチャーズ、ウディ・ハーマン、バディ・リッチ、クラーク・テリー等々、所属したバンドを全部挙げると下段まで埋まるのはセルダン・パウエルだ。明らかにレスター・ヤング系だが、レスターほど繊細でないかわりに豪快な一面もあり、持ち替えでフルートもこなす。多面性があるプレイヤーは、バンドを色づけするのに格好な人材といっていい。

 そのほとんどをバンドマンとして過ごしているのでリーダー作は少ないものの、このルースト盤は中型コンボをバックに速い曲は豪快に、バラードは繊細にと緩急自在のパウエルを堪能できる。なかでもガーシュウイン兄弟の「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」が白眉だ。この曲の名唱といわれいるリー・ワイリーが、もしテナーを吹いたらこんな感じかもしれないと思うほどよく歌う。手元に歌詞カードがあればパウエルに合わせて歌ってみよう。理想の恋人との出会いを夢みる女心を描いた歌詞は、ある程度の歳になると恥ずかしくて歌えないものだが、歌うテナーが上手にリードしてくれる。

 パウエルの活躍はビッグバンド全盛期を過ぎてもセッションやスタジオの仕事という形で続くが、68年には何とコマーシャリズムに魂を売り渡したとまで酷評されたアルバート・アイラーの「New Grass」に参加している。更に76年にはアンソニー・ブラクストンの「Creative Orchestra Music」で、フリージャズ・ミュージシャンと渡り合い、86年にはミリー・ヴァーノンの歌伴を務めていた。華麗な経歴は相手を選ばない。
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勤勉なベン・タッカー

2013-07-14 09:09:21 | Weblog
 ジャズ誌で懐かしい名前を見つけた。久しくその名前を見ることもなく、忘れかけていたプレイヤーだ。大抵こういう場合、悲しいかな訃報記事だが、やはりそれである。その名前から反射的に、田舎のジャズ喫茶もどきに通い出した高校生の頃を思い出す。そのレコードはベースの長いソロから始まるのだが、単調なラインが少しずつ膨らむベース音は緊張や興奮時の心臓の鼓動に似ていた。

 ベン・タッカーである。自身が作曲した「カミン・ホーム・ベイビー」は、ジャズを聴き始めの耳にもすんなり入り込むラテンリズムだった。このハービー・マンのヴィレッジ・ゲイト盤は大ヒットしたというが、タッカーのあのソロがなければただのライブ盤だったかもしれない。そして、ようやくジャズが解り出した頃にタッカーを聴いたのは、アート・ペッパーの「モダン・アート」である。オリジナルのイントロ盤を聴く機会はなく、ようやく聴けたのは70年代に再発されたときだったが、冒頭の「ブルース・イン」のアルトとベースのデュオで、何故このアルバムが幻の名盤と騒がれていたのかという謎が解けた。

 タッカーの経歴を振り返ってみよう。デビューは、1956年のウォーン・マーシュの名盤として名高い「Jazz of Two Cities」だ。西海岸で働いたあと、59年にニューヨークに出て、さまざまなコンボで活動しながらクリス・コナーの伴奏も務め、62年にはクリスと共に来日している。帰国後、発表したのが「カミン・ホーム・ベイビー」で、マンのコンボでも活躍している。71年に引退後は楽譜出版業に携わり、ジャズクラブも開業し、マイペースで演奏もしていたという。半世紀にも亘る経歴を数行で語るには無理があるが、横道にもそれず、ただ直向にジャズの場に身を置いていたのがわかる。勤勉なジャズ人生である。

 先般の記事には近影どころか第一線で活躍していた頃の写真も載っていなかった。記憶ではリーダー作は60年代に「Ava」レーベルから1枚出ているだけで、多くのサイド作品にも写真はほとんど載っていないので、このような編集だったのだろう。一瞬顔を思い出せなかったが、あの張のあるベース音だけは鮮明に甦った。顔を忘れられても音を記憶されるベーシストはざらにいない。享年82歳。合掌。
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マリー・マクドナルドは恋に恋していた

2013-07-07 09:25:09 | Weblog
 その昔、セクシー・ジャケット・マニアが必死で探し回ったというマリー・マクドナルドの「ザ・ボディ・シングス」のジャケットを見たとき、三島由紀夫の小説「仮面の告白」の一節を思い出した。「血の泉が泡立って湧き上がり、滑らかな太腿のほうへと流れてゆく」とか、「腿の肉がつややかに白いのである」という太腿から性的欲求が露になる部分である。三島の自伝的作品ならではの表現は文学という束縛を超えたものだ。

 斉木克己氏のライナーによると、このマリー嬢なるシンガーはトミー・ドーシーの目にとまり、バンド・シンガーとして採用されたものの録音の機会に恵まれず、チャーリー・バーネット楽団に移るが、ここでも録音はなく、リーダーと男と女の関係が出来ただけに終わったそうだ。思わず羨ましそうにバーネットの写真を見てしまった。(笑)そしてバンド・シンガーに見切りをつけたマリーはロスに移り、ここで歌手兼女優として売り出すも、本業よりもプレイガールとして浮名を流し、雑誌のゴシップ欄を賑わす。それでも映画には主役や準主役で数本出演しているので女優としては実力も人気もあったのだろう。

 「The Body」はマリーを売り出すための異名だが、「The Body Sings」というタイトルからは違うことを想像する。いらぬ妄想は消して、じっくり歌に耳を傾けてみよう。そのセクシーなジャケットからは甘い声を思わせるが、落ち着いた声でしかもオーソドックスな唱法に驚く。レコードはこの1枚しかないが、ハル・ボーンのゴージャスなバンドに負けないほどの大きさを感じさせるし、美しい声とコントロールはシンガーとして立派に通用したであろう。スタンダード中心の選曲だが、とりわけ「恋に恋して」はオリジナル通りのワルツ調で華麗に歌い上げる。多くの恋の遍歴は体を求める男ではなく、優しく愛してくれる男との恋に恋していたからかもしれない。

 そう言えばススキノに観光客を目立てにしたジャケットのようなセクシー美女の看板がいたる所にある。ネオンに照らし出された写真は妖艶に映ることもあり、酔った勢いに観光気分も手伝い、つい足が向くようだが、大抵帰りはがっかりだ。看板の女性のお母さんかい?という嬢やら、セクシーというよりただ太いだけの腿だったりする。看板という仮面を剥がした姿を見たようだ。酔いが醒めなければいいが・・・
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