デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

ヒース・ブラザーズの絆

2010-11-28 07:38:34 | Weblog
 ジミー・ヒースは兄にMJQ不動のベーシスト、パーシーと、多くのセッションに参加したドラマーのアルバート・トゥティーを弟に持ち、それぞれの楽器で名声を確立したあと、ヒース・ブラザーズとして活動したほど兄弟仲が良い。両親はプロの音楽家ではなかったが、ジャズが好きでいつもレコードをかけていたという。食事のとき子どもたちが話に夢中になっていると、チャーリー・パーカーをかけてバードを聴いている間は静かにしなさい、と注意をしたそうだ。

 子どもながらにバードの凄さに驚いたジミーは、バードに憧れる誰もががアルト・サックスを手にするようにアルトを吹き出す。テナーに転向したのは、49年にディジー・ガレスピー楽団に入団してからで、それは聴衆によりアピールするためだったが、面白いことにこのバンドにはコルトレーンがいて、彼もまたアルト奏者だった。テナー奏者としてめきめき頭角を現したジミーは、マイルスも気に入っており、親分のガレスピーに、ジミー・ヒースを知るものはビ・パップを知る、とまで言わしめたが、51年に麻薬中毒が原因で解雇され、その後刑務所で5年過ごすことになる。もしこのブランクがなければマイルスの横に並んだのはコルトレーンではなくジミーだったかもしれない。

 ジミーのアルバムはサイド作を含めるとゆうに100枚は越えるが、どの作品も平均点以上の出来栄えだ。テナー奏者としてはジャズ史に残る傑出したタイプではないが、マイルスが買うほど作編曲のセンスは抜群で、オリジナル曲は多くのプレイヤーが取り上げている。「ザ・クォータ」は、ヒース兄弟にフレディ・ハバード、ジュリアス・ワトキンス、シダー・ウォルトンが参加したアルバムで、オリジナルのタイトル曲はファンキー且つモードな一面を感じさせ、作曲家としてのジミーの才能が遺憾なく発揮された曲だ。メンバーの半分が血縁と言う安定感のなかにも
兄弟が互いに鼓舞するスリリングさも味わえる。

 ジャズ界の有名な三兄弟といえばハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ・ブラザーズがいるが、ヒース・ブラザーズともそれぞれ極めた楽器は違う。同一楽器だとテクニックやスタイル等、あらゆるものが比べられ、それが兄弟の確執を招くが、異なる楽器を手にしたことで切磋琢磨されより兄弟の絆が深まったのだろう。ヒース兄弟の出身地フィラデルフィアは、古代ギリシア語で「兄弟愛」を意味する。
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日曜日の夜に聴いたソー・イン・ラヴ

2010-11-21 07:55:51 | Weblog
 アラン・ドロン、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ブルース・ウィリス・・・さて共通するのは何だろう?先月亡くなられた声優界の大御所の一人、野沢那智さんが吹き替えを担当した俳優だ。「声優の前に俳優であれ」という信念に基づいた声の演技は、ときに字幕スーパーで映画を観るより迫力がある。ドロンやパチーノ自身の声は知らなくても、日曜洋画劇場で放映された多くの作品で野沢さんの声を思い出すかたもあろう。

 日曜洋画劇場は淀川長治さんの映画の面白さを伝える軽妙な解説で知られるが、次週予告の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」に続いて流れるエンディング・テーマをご存知だろうか。数あるコール・ポーターの作品でも、おそらく日本人が最も多く聴いていると思われる「ソー・イン・ラヴ」だ。番組ではモートン・グールド楽団の曲を使用していたが、映画の余韻にいつまでも浸れるような哀愁を帯びたメロディは、曲名こそ知らなくても洋画をテレビで愉しんだ人の脳裏に焼きついており、ジャズファンと自認する小生でもエラ・フィッツジェラルドの名唱やアート・ペッパーの名演よりも先に思い出す。

 詞と曲が一体になった曲のせいかヴォーカルが圧倒的に多いが、インストも少ないながら粒よりの作品が揃っている。最も新しい録音といえば2010年のテッド・ローゼンタールで、植田典子の繊細なベースと、正確なビートを刻むクインシー・デイヴィスのドラムをバックに流麗なタッチで鍵盤を刻む。セロニアス・モンク・コンペティションで優勝した実力の持ち主で、ヘレン・メリルの歌伴を長らく務めただけあり歌心にも富んでいる。マンフレッド・クヌープによる録音の素晴らしさもあり叙情的な旋律が大きなスクリーンから飛び出すような錯覚さえ覚えるし、テンポを変化させ一気にクライマックスに持っていく劇的な演奏は一本の大作を観るようだ。

 中高生のころ日曜日の夜はテレビで洋画を観る楽しみと、もうひとつラジオでジャズ番組を聞く楽しみがあり、そのふたつが週明けからの活力になっていたのは確かだったし、そのラジオ番組で聞いたジャズは今でも活力になっている。「ミッドナイト・ジャズ・レポート」という日曜深夜番組のディスクジョッキーを担当していたのは成瀬麗子さんで、お姉様のハスキーな声にときめいた。憧れの女性、成瀬麗子さんの旦那様は野沢那智さんである。
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ジャズ・ピクチャーズを鑑賞してみよう

2010-11-14 07:55:28 | Weblog
 フランス古典主義の中でも特に重要な画家のひとりジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、夜の場面を描いた作品が多く「夜の画家」と呼ばれた。なかでもカードゲームに溺れるといつかは騙されることを訴えている作品として解釈される「いかさま師」は、17世紀前半の作とはいえ遊興の罠は現代にも通じる。視線の描き方は心理を巧みに写したもので、中央の横目の女性はマドレーヌ・シャプサル著の「嫉妬する女たち」の表紙を飾っていた。
 
 この絵と同じような構図を持ったアルバムにリタ・ライスの「ジャズ・ピクチャーズ」がある。ライスを横目で見つめるケニー・クラークと、二人の会話を覗き込むライスの夫君ピム・ヤコブス、その様子を窺うピムの弟、ルウト・ヤコブス、そしてカメラ目線のギタリスト、ウイム・オーヴァハーウ、1枚の写真からはラ・トゥールの絵とは違う楽しげなセッションが聴こえてきそうだ。61年にオランダのホールで開催されたコンサートはファッツ・ウォーラーの名唱で知られる「手紙でも書こう」で幕を開け、「枯葉」、「チェロキー」、「スピーク・ロウ」、「ホワッツ・ニュー」等、スタンダードのオン・パレードで、原曲の持ち味を生かしたストレートな歌唱が聴ける。

 オランダは多くの歌姫を輩出しているが、リタ・ライスはヨーロッパのファースト・レディ・オヴ・ジャズと呼ばれるだけあり、抜群のスイング感とジャズ・センスはヨーロッパばかりかアメリカでも高い評価を受けた人だ。56年にアメリカを訪れたときにバードランドに出演し、その名は一夜にしてアメリカ・ジャズ界に轟き、ジャズ・メッセンジャーズと録音を残している。そのアルバム・タイトルは「クール・ヴォイス」だが、ややハスキーな声とはいえクリス・コナーやジューン・クリスティの凛としたクールさではなく、曲によってはコケティッシュな一面ものぞかせる可愛らしい声と言ったほうがいいかもしれない。

 ピム・ヤコブスは「カム・フライ・ウィズ・ミー」の傑作で知られるピアニストで、ライスの歌伴も手馴れたものだが、クラシック音楽を伝統とするヨーロッパ気質からはみ出ることはなかった。それはそれで完成されたものだが、ヨーロッパ気質をブラッシュの一音でアメリカ気質のジャズにすり替えたケニー・クラークの客演がこのアルバムを上質な作品に仕立てている。ラ・トゥールのいかさま師はカードをすり替えようとしているが、このジャケット写真の中にいかさま師がいるとするならそれはケニー・クラークだろう。

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愛は海よりも深く、アーヴィング・バーリンの志は山よりも高い

2010-11-07 07:40:13 | Weblog
 大ヒットしたブロードウェイ・ミュージカル「アイ・ラブ・ア・ピアノ」が、ここ札幌で開催される。アメリカのさまざまな歴史を1910年に作られたピアノを通して描いたもので、ガーシュインをして「アメリカのシューベルト」と言わしめたアーヴィング・バーリンの作品が60曲以上登場するという。世界で最も売れた「ホワイト・クリスマス」や、アメリカでは第二の国歌として親しまれている「ゴッド・ブレス・アメリカ」等、バーリンが書いた曲は1000曲以上に上る。

 なかでもジャズメンがよく取り上げる曲といえば「How Deep Is The Ocean」で、そのメロディの美しさからバラード表現の真価を問われる難曲だ。ピアノトリオかワンホーンでじっくり聴くべき曲なのだが、テナー奏者4人でつなぐ演奏がある。「Tenor Conclave」というおどろおどろしいタイトルが付いているプレスティッジお馴染みのオールスター・セッションの一つで、「Conclave」は、ローマ教皇を選出する選挙システムの意味だから、立候補者4人がそれぞれの主張を訴える内容ということだろうか。人気も実力もマニフェストも拮抗している4人なら選挙戦で争うには根性も比べられる。それでコンクラーベという。

 先陣を切って飛び出すのはアル・コーンで、短いソロながら凝縮されている。レッド・ガーランドが橋渡す形で2番手のズート・シムズに引き継ぐ。コンビのコーンの後ということもあり前者の韻を踏んでいる。続いてポール・チェンバースのアルコソロを挟み一際大きな音で登場するのがジョン・コルトレーンだ。全体の空気が変わるほど前者2人とは明らかにアプローチが違う。そして最後を締め括るのはハンク・モブレーで、アンカーらしい落ち着いたフレーズで決める。録音された56年という時点でそれぞれスタイルは確立されており、将来のテナー界を担うだけの実力を備えている。その後大きく変貌するコルトレーンは別にしての話であるが。

 バーリンが、「愛は海よりも深く、山よりも高い」という詞も曲と同時に書き上げたのは1932年に発表される数年前だという。これほど心打つバラードの発表が何故遅れたかというと、当時バーリンは極度のスランプに陥っており発表する自信がなかったそうだ。幾多の名曲を書いた才能溢れる作曲家も悩み苦しんだ時期があったことに驚くが、ロシアの作家ドストエフスキーは、苦しむこともまた才能の一つである、と言っている。

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