旅の記録を再開したばかりだが、昨日聴いた演奏会について、その記録を。いつもは演奏会を聴いても、記録を書いたり書かなかったりだが、今週はたまたま興味深い演奏会が続いているので――。そのあおりを受けて、旅の記録が途切れ途切れになってしまい、申し訳ありません。
昨日はジョン・ケージの「One9」全曲演奏会。標題の9は正しくはOneの右肩=乗数の位置にあるが、うまく変換できないので、とりあえず便宜的な表記で。
ケージのことが詳しい人には今さら説明するまでもないが、ケージの晩年にはこのような標題(OneとかTwoとかの数字に1とか2とかの小さな数字が右肩に付いている標題)が沢山ある。OneやTwoはパートの数を表し、1や2はそのパート数で書かれた作品の何番目かを表しているわけだ。
なので、One9は一人の奏者のための曲(独奏曲)で、これはその9番目の作品というわけだ。具体的には和楽器の笙のための作品。宮田まゆみさんのために書かれた。昨日の独奏者も宮田さんだった。作曲は1991年。最晩年だ。
ケージの作品は、たとえば初期の「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」などは好きだが、ある時期から先はわからない、というのが正直なところだ。だから昨日もおっかなびっくり行った。
夜7時に始まって9時までのえんえん2時間(途中休憩なし)、この曲に耳を傾けた。ほとんど、というか、まったく起伏のない、音が出ては、長い沈黙があり、また音が出るという、単調な、長い時間を過ごした。
といっても、文句をいっているわけではない。それがわかって行っているわけだ。そこで自分がなにを感じるか、もっというと、2時間耐えられるか、に興味があった。で、どうだったか。最初は居眠りをした。途中でなぜか頭が冴えて、笙の音に耳を傾けた。そのうち仕事のことが気になって、あれこれ余計なことを考えた。また「4分33秒」を思い出して会場のノイズを聞いたりした。そのうちに演奏が終わった。
この曲を「音楽」と感じるには、ケージと同じくらい多くのことが聴こえる耳と、ケージと同じくらい自由な「音楽」観が必要かもしれない。悲しいことに凡人の我が身にはハードルが高かった。それでもこの長い時間をホールの片隅で過ごした経験は、記憶のどこかに残るだろうと思った。
(2012.9.5.ケージ100回目の誕生日に。サントリーホール小ホール)
昨日はジョン・ケージの「One9」全曲演奏会。標題の9は正しくはOneの右肩=乗数の位置にあるが、うまく変換できないので、とりあえず便宜的な表記で。
ケージのことが詳しい人には今さら説明するまでもないが、ケージの晩年にはこのような標題(OneとかTwoとかの数字に1とか2とかの小さな数字が右肩に付いている標題)が沢山ある。OneやTwoはパートの数を表し、1や2はそのパート数で書かれた作品の何番目かを表しているわけだ。
なので、One9は一人の奏者のための曲(独奏曲)で、これはその9番目の作品というわけだ。具体的には和楽器の笙のための作品。宮田まゆみさんのために書かれた。昨日の独奏者も宮田さんだった。作曲は1991年。最晩年だ。
ケージの作品は、たとえば初期の「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」などは好きだが、ある時期から先はわからない、というのが正直なところだ。だから昨日もおっかなびっくり行った。
夜7時に始まって9時までのえんえん2時間(途中休憩なし)、この曲に耳を傾けた。ほとんど、というか、まったく起伏のない、音が出ては、長い沈黙があり、また音が出るという、単調な、長い時間を過ごした。
といっても、文句をいっているわけではない。それがわかって行っているわけだ。そこで自分がなにを感じるか、もっというと、2時間耐えられるか、に興味があった。で、どうだったか。最初は居眠りをした。途中でなぜか頭が冴えて、笙の音に耳を傾けた。そのうち仕事のことが気になって、あれこれ余計なことを考えた。また「4分33秒」を思い出して会場のノイズを聞いたりした。そのうちに演奏が終わった。
この曲を「音楽」と感じるには、ケージと同じくらい多くのことが聴こえる耳と、ケージと同じくらい自由な「音楽」観が必要かもしれない。悲しいことに凡人の我が身にはハードルが高かった。それでもこの長い時間をホールの片隅で過ごした経験は、記憶のどこかに残るだろうと思った。
(2012.9.5.ケージ100回目の誕生日に。サントリーホール小ホール)