インバル/都響のバルトーク・プロ。2011年3月に予定されていたが、東日本大震災のために中止になったプログラムの復活公演だ。同様の復活公演が相次ぐなか、あとは(大物としては)新国立劇場の「マノン・レスコー」くらいか。
1曲目はヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏は庄司沙矢香(これも当時予定されていたとおり)。オーケストラが、肩の力を抜いた、しかもはっきりしたリズムを刻むなか、ヴァィオリンがくっきりと入ってくる。いつもながら、すごい存在感だ。
この存在感はどこからくるのだろう。音は格別美音というわけではなく、またその演奏に極端なところがあるわけでもない。きわめて正統的な演奏。音楽の隅々まで考察し、すべてを把握したうえでの演奏。だが、その考察し、把握するレベルが格段に高いのだ。
インバル/都響もまたすべてを把握した演奏。どんなディテールもおろそかにせず、あるべき場所にきちんと収まった演奏。なので、何度聴いたかわからないこの曲のあちこちに、「あっ、ここはこんな音だったのか」とか、「こんなことをやっていたのか」とかの発見があった。
曲の性格もよくわかった。この曲はバルトークにしては珍しく、直線的に進むのではなく、枝道の多い曲なのだと思った。もちろん太いまっすぐな道はあるのだが、そこに草の生い茂った枝道がいくつかあり、バルトークはそれも楽しんでいるのだ。そういうことがわかったのは、この演奏がそれらの枝道をきちんと性格付けていたからだと思う。
庄司沙矢香はアンコールを演奏した。バルトークの無伴奏ヴァイオリンのための曲だと思った。休憩時にロビーの掲示を見たら、「作曲者不詳ハンガリーの民謡より」とあった。面白い曲だった。
2曲目は「青ひげ公の城」。低弦が小声でそっと入ってきて曲は始まるが、その出だしから、オーケストラに力みがなく、柔軟性に富んでいることが感じられた。最近インバルには硬直性を感じることがあるのだが、今回それが(ヴァイオリン協奏曲第2番をふくめて)皆無だった。インバル自身これらの曲の演奏を楽しんでいるように感じられた。
ユディットを歌ったイルディコ・コムロシは、本物の味わいだった。ベテラン歌手なので声が出るかどうか心配したが、そんなレベルをはるかに超えて、総体としてバルトークの音楽の深いところに触れていた。
(2013.12.20.サントリーホール)
1曲目はヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏は庄司沙矢香(これも当時予定されていたとおり)。オーケストラが、肩の力を抜いた、しかもはっきりしたリズムを刻むなか、ヴァィオリンがくっきりと入ってくる。いつもながら、すごい存在感だ。
この存在感はどこからくるのだろう。音は格別美音というわけではなく、またその演奏に極端なところがあるわけでもない。きわめて正統的な演奏。音楽の隅々まで考察し、すべてを把握したうえでの演奏。だが、その考察し、把握するレベルが格段に高いのだ。
インバル/都響もまたすべてを把握した演奏。どんなディテールもおろそかにせず、あるべき場所にきちんと収まった演奏。なので、何度聴いたかわからないこの曲のあちこちに、「あっ、ここはこんな音だったのか」とか、「こんなことをやっていたのか」とかの発見があった。
曲の性格もよくわかった。この曲はバルトークにしては珍しく、直線的に進むのではなく、枝道の多い曲なのだと思った。もちろん太いまっすぐな道はあるのだが、そこに草の生い茂った枝道がいくつかあり、バルトークはそれも楽しんでいるのだ。そういうことがわかったのは、この演奏がそれらの枝道をきちんと性格付けていたからだと思う。
庄司沙矢香はアンコールを演奏した。バルトークの無伴奏ヴァイオリンのための曲だと思った。休憩時にロビーの掲示を見たら、「作曲者不詳ハンガリーの民謡より」とあった。面白い曲だった。
2曲目は「青ひげ公の城」。低弦が小声でそっと入ってきて曲は始まるが、その出だしから、オーケストラに力みがなく、柔軟性に富んでいることが感じられた。最近インバルには硬直性を感じることがあるのだが、今回それが(ヴァイオリン協奏曲第2番をふくめて)皆無だった。インバル自身これらの曲の演奏を楽しんでいるように感じられた。
ユディットを歌ったイルディコ・コムロシは、本物の味わいだった。ベテラン歌手なので声が出るかどうか心配したが、そんなレベルをはるかに超えて、総体としてバルトークの音楽の深いところに触れていた。
(2013.12.20.サントリーホール)