太宰治、三島由紀夫、夏目漱石、ドストエフスキーといった文豪から、星野源、小沢健二ら芸能人まで
100人以上の文体で、カップ焼きそばの作り方を綴った「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」。
よくまあ、こんなアホなことを考えついたものだというのが読後の率直な感想。
個人的には村上春樹版が一番好きだったので、それをご紹介します。
”「1973年のカップ焼きそば」
きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かを言う権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ。
勝手に液体ソースとかやくを取り出せばいいし、容器にお湯を入れて5分待てばいい。その間、きみが何をしようと自由だ。少なくとも、何もしない時間がそこに存在している。好むと好まざるにかかわらず。
読みかけの本を開いてもいいし、買ったばかりのレコードを聞いてもいい。
同居人の退屈な話に耳を傾けたっていい。それも悪くない選択だ。
結局のところ、5分間待てばいいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。
完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。”
これは「1973年のピンボール」だけではなく、「風の歌を聴け」の
パロディでもあります。
物凄く久しぶりに、この2冊を読み直してみました。
新人賞を取った「風の歌を聴け」を私は大学の図書館のその文芸誌上で読み、
感動した覚えがあったのですが…
今読んでみると、随分と気負った作品です。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」は
この作品の冒頭の文章です。
「今、僕は語ろうと思う。もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(中略)
弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。
つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまく行けばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。」
そして「僕」の前に、鼠、J、左手の指が4本しかない女の子が現れて、ものうい夏が過ぎてゆく。
今、世界的に有名になってしまった著者がデビュー作のこの部分を読んだらなんて思うのだろう?
思わず赤面するのか、あるいは、ほらやっぱりね、とニンマリするのかしらん。
「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」https://tinyurl.com/yxgkhjan
「風の歌を聴け」 https://tinyurl.com/y478ktzj