この世の闇と光
弁護士でジャーナリストの日隅一雄氏を偲ぶ会が開催された。
会場の正面いっぱいの白い花に囲まれて、日隅氏の人柄をそのまま表す素晴らしい写真が飾られた。
いまにも、そこから日隅氏が元気に笑いながら現れてくるような、そんな写真だった。
NPJ代表の梓澤和幸弁護士がお別れの言葉を述べられた。
3.11の原発事故。
その直後から日隅氏、梓澤氏は動かれた。
人類史上最悪の原発事故を引き起こした東京電力、政府が、まるで他人事のような振る舞いを示すなかで、両氏は、法律家として自分たちに何ができるのかを模索した。
そのなかで、日隅氏は、原発事故の事実を知り、これを正確に市民に知らせることに命を懸けた。
そして2か月後。
日隅氏は余命半年の宣告を受ける。
日隅氏は、正直言ってショックを受けたと語った。
しかし、遅かれ早かれ、人は死を迎える。
それまでに、自分の為すべきことを実行する。
日隅氏は東電の記者会見に述べ100回以上も出席した。
東電が高濃度の汚染水を海に放出することに対して、日隅氏は敢然と闘った。
記者会見の場で、体を張って、東電の不正を阻止しようと力を尽くした。
胆のうがんの告知を受け、余命半年の宣告を受けるなかでも、日隅氏は最後の最後まで力を振り絞った。
日隅氏は、昼間の痛みに対して夜の痛みが強いのはなぜかを医師に尋ねた。
医師は、痛みに対する治療は昼も夜も同じであると告げた。夜に痛みを感じるのは、人は夜になると不安を感じるからだと言った。
日隅氏は夜に思いを伝える話し相手を求めていたのかも知れない。そこまで思いが至らなかったことを梓澤氏が悔やまれるが、それほどまでに、日隅氏は苦しみを表に出さなかった。
病魔に侵され、底知れぬ苦痛に襲われながら、原発事故、正しい情報の提供に精力を注ぐ日隅氏に、梓澤氏は何度も「なぜ」を問いかけた。
日隅氏の謙虚さは、明確な回答を拒んだが。あるとき、こうつぶやいたという。
「法律家として、自分たちがもう少し、ものごとをよく知り、理解していたなら、未然に防ぐことができたのかも知れない事故が起きた。
ある日突然、事故が発生して、生活を、そして故郷を奪われ、生命の危機の恐怖を背負わされた原発被災者の立場を思えば、自分の境遇などは、恵まれたものであるのかも知れない。
主権者である国民が情報を知り、問題に対処してゆけるようにすることが自分に課せられた使命である。」
原発事故のなかで日隅氏が執筆して刊行した岩波ブックレット
『「主権者」は誰か』
のカバーには次の言葉が記されている。
「原発事故後、多くの情報が隠され、国民不在の場で、さまざまな対応策・基準が決められた。なぜ、「主権者」である国民が、これほどないがしろにされたのか。政府や東電の対応を振り返り、その構造的問題を明らかにし、改善策を探る。」
そして、
「「主権在官」を打破し、私たちの社会をつくるために」
と記されている。
日隅氏の強靭な行動の原動力は「愛」であると私は思う。
自分に対する愛ではなく、他者に注ぐ「愛」である。
自分には苦しみを与え、他社のために自分の命を捧げ切った。
絶望が支配しかねない世の中にあって、この利他の行為が、私たちに「希望」という光を与えたのである。
梓澤氏は、岩波ブックレットの末尾に記された言葉を、日隅氏の最後の肉声そのものであると述べた。
戦後の間もない時期に、中学生のために書かれた資料のなかの文章を日隅氏が引用したのだ。
その言葉は、まさに、日隅氏の肉声そのものだと梓澤氏は見抜く。
「今のうちに、よく勉強して、国を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、国のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。皆さんの考えとはたらきで国が治まってゆくのです。みんながなかよく、じぶんでじぶんの国のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。これが民主主義というものです」
戦後直後に中学一年生用の教科書につかわれた「あたらしい憲法のはなし」に書かれた言葉だが、「日隅氏が私たちにやさしく語りかける言葉に聞こえる」という梓澤氏の指摘は、梓澤氏のみずみずしい感性によって捉えられたものであるが、その指摘の正しさに驚かされる。
強き者には妥協せずに敢然と挑み、弱き者には心の底からのやさしさを注ぎ尽くす。
この他者への愛が私たちに大いなる希望を与えるのである。
マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉
「私には夢がある
絶望の山に分け入り、希望の石を切り出すのです」
を教えてくれたのは梓澤氏である。
いま問題になっている「いじめ」の問題。
根源にあるのは「愛の欠落」、「愛の欠如」であると思う。
他者に対する愛がなければ、この世はすさんだものになるだろう。
「信なくば立たず」というが、「愛がなければ、私たちは生きてゆくことができない」
その、何よりも大切なものを、日隅氏は私たちに注いでくれた。
そして、その日隅氏の周りに、やはり、同じ光を放つ人々が取り巻いている。
あまりにも早い旅立ちではあったが、私たちの心のなかに、日隅氏は永遠に生き続ける。
自分のことが100%、他者のことは0%という人で世のなかが占有されれば、この世は闇になってしまうだろう。
日隅氏は希望の光だ。そして、日隅氏を取り巻く多くの同胞が存在することも、この世の大きな光である。
この世の闇に光を差し入れる、その人の輪を広げることが、この世を明るい希望に満ちたものにする唯一の道である。