徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

トラ、連日の屈辱の負け・・・またしてもエラーが・・・・

2012年04月21日 19時20分53秒 | 野球・タイガース

昨日の敗戦は、負けるべきして負けたと和田監督も言っていました。
その負けるべき内容は、不運というより、迂闊(うかつ)と言うべきものだったようです。

4番新井を下げたのも、もう回ってこないと思ったようですが、勝つためには、新井まで回すことなのですが、廻らないと踏んだのなら、それはもう負けていたのです。
その上、4番バッターが守備要員に代えられるということは、4番バッターが信用されていないという裏返しなのです。

今日も、やはり負けるべきして負けたのでしょうか?

今日も4番新井は、前後の打者にヒットが出ていますが、なかなか結果が表せず、9回にやっとタイムリーを打ちますが、ピンチランナーに大和が起用され、ベンチにさがります。

今のタイガースには、真の4番バッターの不在を証明したようですが、なんとか新井に4番打者として大成して欲しいのですが、彼の性格からも4番としては、難しいのでしょうか?

  
  投手を覘いて、昨日と捕手が替わっただけの今日の先発オーダー

4回にブラゼルのヒットを足がかりに、マートンの2ベースで1点を先制、岡崎のヒットで繋ぎ、平野のライト前で2点目をあげ、今日は勝てるだろうと思ったのですが・・・・・

トラの先発スタンリッジはディゲームは勝てないというジンクスがあるようですが、それを変えて欲しかったのですが・・・・

4回に4連打され、逆転されます。
ここでも、マートンのタイムリーエラーが出ます。
最近、マートンは、少し気合いが入っていないようです。

その後、トラには、逆転のチャンスはいくらでもあったのですが、あと一本が出ません。

ベイの先発の小杉というピッチャーは、一昨年に1勝を上げただけのピッチャーで、これを打ち崩せないトラの打撃陣は、初物に弱いと言うジンクスをここでも健在でした。

5回、6回共にノーアウトからの2塁打を生かせず、7回もノーアウトから柴田がヒットで出るのですが、得点に結びつきません。
作戦に問題があるのでしょうか、采配が適格ではないのでしょうか?
それとも、打者一人ひとりの資質に問題があるのでしょうか?

最下位のDeNA中畑に翻弄されました。
この屈辱を明日には必ず晴らして欲しいものです。

 


桜の彦根城へ -その4- 天秤櫓と本丸

2012年04月21日 13時37分09秒 | 旅行・観光

桜の彦根城もいよいよ本丸へ登城です。
表御殿出て、表門山道の坂を登ると、廊下橋が見えます。
この橋を中央にして建てられているのが天秤櫓で、このような形式のあるお城は、ここだけだそうです。

廊下橋の下を潜り、左手に回って階段を上り、その左側に、今、潜ってきた橋を渡ります。
この廊下橋は、敵が攻めてくると落して、本丸へ行くのを阻止します。

  
     表門山道を登ると    廊下橋が見えてきます。      廊下橋の下を潜る      

天秤櫓の中にも入ることが出来ました。
中からは、廊下橋の全てが見渡せられ、敵が丸見えとなるようです。

  
 廊下橋を潜り、左手を登ります。   廊下橋を渡り、天秤櫓に入ります。    天秤櫓の内部。

 
   天秤櫓から廊下橋が見えます。                  天秤櫓から太鼓門櫓へ

 

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側には壁がなく、登城合図の太鼓の音を響かせるために考えられたのではと言われています。

さて、いよいよ天守(国宝)への登城です。
この3階3重の天守は、京極高次が築いた大津城から移築されたと言われて、慶長12年(1607年)頃に完成しました。

  

彦根藩の創設は、関ヶ原合戦に功があった井伊直政は、慶長6年(1601年)徳川家康から近江国石田三成の旧領18万石を与えられた。
石田三成の旧領佐和山城に入ったが、城は落城のまま荒れ果て、とても使い物にならないと判断した直政は、山城ではなく湖畔にと考えたが慶長7年に直政が没し、嫡男の直勝が琵琶湖の東北岸の金亀山に決め築城を開始したのが、慶長8年。

ちなみに、彦根城の別名は、金亀城と呼ばれています。

天守は、2年足らずで完成しますが、城郭整備など全部が完成には、20年の歳月がかかったようです。

 
 天守内部 どこの天守も階段は急です。            天守から外の桜を・・・・・

江戸開府以来、井伊家は、徳川譜代として、幕閣の中核となり、幕末には大老を輩出し、幕末の歴史に名を残します。
彦根藩は、35万石となっていましたが、13代藩主井伊直弼は、あの安政の大獄を引き起こし、その35万石も、大老が暗殺されたため、幕府から10万石の減封処分され、幕末には25万石の石高でした

    
                                           西の丸    

井伊氏によって築かれた彦根城は、明治維新を迎え、廃藩置県まで一度の領主替えもなく、井伊氏14代が在城し続けました。

新政府は、一度は廃城を決めたのですが、大隈重信が廃城撤去寸前の彦根城を視察した際、その名城の消失を惜しみ、明治天皇に直接、嘆願して廃城を免れたそうです。