goo blog サービス終了のお知らせ 

極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ヘリオトロープと天の原

2009年02月19日 | 近江歴史回廊


吾に向きヘリオトロープ いそいそと狭き書斎で  行き来見え隠れ




家のなかをこの間から手直し工事に入り、今日はいよいよ書斎
と居間の間仕切り。午後10時過ぎ居間と遮断。これで夜更か
ししても、この部屋で寝ることができる。この結果どうなるの
か、その効果は?乞うご期待だ。ヘリオトロープは香水草。花
言葉は「献身」。夏目漱石の「三四郎」に登場。バニラに似た
芳香があり気温が低いと香りが気温支配されるという。ペルー
原産、ヨーロッパに伝わり「恋草の草」「神様の草」の薬草と
される。花の名は、ギリシャ語で「太陽に向かう」との意。胸
が詰まるような悲哀のギリシャ神話では、向日葵と混同されて
語られている。一連の工事は家内が差配している。そんな部屋
の周りで彼女が出入りする姿はユーモラスで愛らしい。



日本五大山城の一つに数えられる小谷城は滋賀県東浅井郡湖北
町にある。標高約495m小谷山から南の尾根筋の築かれ浅井長政
とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
因みに、
残りの山城は、春日山城(上杉謙信)、月山富田城(
尼子経久)、観音寺城(六角義賢)、そして七尾城(畠山義綱
)。戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られた
が、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城。
その後、北近江の拠点は長浜城に移され廃城となる。現在は土
塁・曲輪、石垣など遺構として残っている。

 彦根城に移築された三の丸


琵琶湖から少し離れた小高い山城ではあるが、山頂からは天気
が良ければ北湖が美しい。佐和山城と同様に、山頂の森林を打
ち払い狼煙台を構築し、山崎城、観音時城、安土城などの山城
址にも同様に設置し、年に1度はカラフルな狼煙の伝達競演し、
『近江戦国街道』イベントとして企画しても面白そうだ。


 


小谷城を‘おだに’と呼ぶように浅井を‘あざい’と呼ぶのか
‘あさい’とするかの論争は‘あさい’に落ち着いたという。
浅井長政の名をならしめたのは、野良田の戦い。永禄3年(156
0年)に浅井長政軍と六角義賢軍との合戦で、浅井軍は1万1千、
六角軍は2万5千と六角軍が圧倒的に優位にあったが、勇猛な長
政率いる浅井軍に油断し六角軍は大敗する。長政の精神はその
重臣達にも引き継がれ、姉川の合戦では、伊香郡にある磯野山
城から佐和山城に移った
磯野員昌(かずまさ)の織田本陣に迫
る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残って
いるほどだ。「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及
ぶべく候」-この織田信長包囲網は、武田信玄の死去と朝倉義
景の日和見で水泡と化す。小谷城に追い詰められた長政は七百
名ともいわれる家臣と共に自刃したが、蒲生氏郷らとともに近
江の武将はかくあるべしと感得した。

 小谷城址航空写真





昨日、空足を食った図書館で『浅井長政のすべて』(小和田哲
夫)、『もう一つの高天原』(原田実)、『弥生のなりわいと
琵琶湖』(守山市教育委員会)の本を借りた帰り、里根町の

マダ電機
でデジカメの上位機種を求め立ち寄った。デジカメの
技術進歩も目を見張るものがあるが、10年間の技術開発部門
で仕事をしていた関係もあり驚愕に至るといほどのものではな
い(老兵の強がりと思われるのも癪にさわるが)。特に目を引
いたものは、
ニコンD700(D300)のイメージセンサークリーニン
グ機能だ。採用した効果的なダストイメージ対策。イメージセ
ンサークリーニング機能は、OLPF(光学ローパスフィルター)
を4種の共振周波数で振動させて、ローパスフィルターに付着し
たゴミやほこりをふるい落とす。カメラの電源ON/OFFに連動し
て作動するほか、メニューからの操作で任意の作動できるとい
う優れもの。 



レンズや干渉フィルタはそのまま放置していると、空気中の水
分や塵が固着し光学系の‘汚れ’となる。ガラス材料は特に、
「白化現象」といわれ、レンズ材料に含まれる不純物(カルシ
ウム)などが表面に析出し反応生成物として固着する。まして
心臓部の再電荷結合素子表面に付着すると致命的な汚れとなっ
て画質を劣化させる。それ以外にはワイヤレストランスミッタ
ーの画像転送システムなどに興味がいったが、買うのはもう少
し先にしよう思う。

有効画素数12.3メガピクセル、ニコンDXフォーマットCMOSセンサー。<NEW> cmosセンサ






話は、本の話題と先日の東国原宮崎県知事の高千穂の高天原
に移る。この伝説は作為、天上、地上説にわかれることも、そ
の所在地も、葛城・金剛山高天台、高千穂、阿蘇・蘇陽、蒜山
高原(ひるぜんこうげん)、生犬穴(群馬県上野村)、茨城県
多賀郡 の6説が有力であることも知らずに来た。そして、古代
近江王朝=「天ノ朝」説復権の試み(原田実)は1981年の
伊勢遺跡の発掘と繋がる(そのことは、『邪馬台国発見日記
に掲載もされている)。



古代文字や神代文字ホンマツタエなども合わせて知ることに
なるのだが、科学的な検証方法などの考古学の進歩で焦点が絞
られてきているという。その中でも年輪年代学(dendrochrono-
logy
)とは、樹木の年輪パターンの分析で年代を科学的に決定
する方法(アリゾナ大学のA・E・ダグラスにより、20世紀に発
明・発展された)。本法を適用することで樹木の年代は正確に
暦年単位で決定することができる(樹木の幹を円筒状にくりぬ
き、年輪の幅を測定。例えば、年輪幅では通常 0.01mm 程度の
精度で測定する。

  

※ 1996年4月、奈良文化財研究所の光谷拓実が大阪府池上曽根遺跡の大型
   建物1の柱材(ヒノキ)の年輪年代を調べて紀元前52年であることこと
   がわかり、大型建物1は考古学的相対年代では、弥生時代中期後半に当
   たる蓋然性が高いと公表した。弥生時代中期後半が、紀元前1世紀に相
   当することとなった。それまでの弥生時代中期後半は、紀元後1世紀末
   と考えられていたので、約1世紀間遡ったこととなり、学界に大きな衝
   撃を与えた。



邪馬台国は存在したのかどうか。存在したとすればその実証は?
国の正史『日本書紀』がそれを裏付けるという説である。「神
武紀」には、九州を発った神武天皇率いる天孫族は、同じ天孫
族の子孫であるニギハヤヒの協力によって大和を支配する長髄
彦(ナガスネヒコ)を倒したのち、畝傍橿原宮で皇位に即いた、
と記されて、神武天皇が征服した畿内の土着勢力があったので
ある。この土着勢力こそが「邪馬台国」の中心であり、纏向遺
跡とは、邪馬台国の支配者だったナガスネヒコを倒したのち、
神武天皇が開いた国だとする。卑弥呼と台与の二人の女王時代、
邪馬台国の首都は、守山市の伊勢遺跡群だったとする説だ。そ
れも遺跡の主要年代からみて、卑弥呼の時代の王宮は伊勢遺跡
にあり台与の時代には下長遺跡に移ったとする。



邪馬台国との名称は、中国との関係(魏志倭人伝)で新統治国
の長の証として神武天皇率いる天孫族が伝承せざるをえなかっ
たという。まあ、今夜はこんなとこで終わるしかない。いずれ
整理・整頓してブログに表せればと思う。
                          

                            

      



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする