極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

沸騰大変動時代(四十三)

2024年05月25日 | 光還元触媒


彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる招き猫と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦
国時代の軍団編成の一種、あらゆる武具を朱りにした部隊編のこと)
と兜(かぶと)を合体させて生まれたキラクタ「ひこにゃん」。

【わたしの経済論③:為替と円安】



「われわれはいつから資本主義の船に乗ったままなのか、いつになっ
たら資本主義の船から降りられるのか」という問いを経糸にしながら、
貨幣とマネーの意味論、帳簿やオークションや市場や株式会社の変遷
史、20世紀から21世紀へと君臨し続けてきた経済学、グローバリズム
と自由資本主義がもたらす危機などを横糸に編み込んだ充実の一冊。

第2章 資本主義の歯車
資本主義の基幹エンジンとなった仕組みの成立をたどる章。会計世界
をつくりあげた複式簿記の登場、古代から共同体と共にあった市場の
歴史、資本主義が生み出した株式会社という化け物のルーツに分け入
っていく。オークションは所有や富がどのように発生したかの根本秘
密を握っている。

第3章 君臨する経済学
ハイエクが自由主義と個人主義の旗を掲げ、フリードマンが新自由主
義思想という妖怪を一人で仕立てた。しかしその結末がリーマンショ
ックだとわかると、ケインズの復活が叫ばれはじめた。経済学はただ
混乱しているだけなのか。間宮陽介の千夜が、アダム・スミスからは
じまる市場原理主義の遍歴を案内している。


❏ 為替行為とはなにか
日本の為替の歴史
日本は、江戸時代の大坂を中心に為替(手形)による取引が発達して
当時の世界ではもっとも優れた送金システムを築き上げた。日本のか
わせ」の語は中世、「交わす」(交換する)の連用形「かわし」と呼
ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が
生まれたのは、鎌倉時代である。この時代、鎌倉で俸給をもらう下級
役人が現れており、俸給として鎌倉に入って来る年貢を先取りする権
利が与えられた。その際に権利証書として「為替」が発行されたので
ある。あるいは、大番役を勤める中小の御家人が、地元の所領からそ
れぞれが金銭や米を持ち込まなくとも、大口の荘園や有力御家人の年
貢の運送に便乗する形で、鎌倉や京都で金銭や米を受け取るシステム
として、為替の仕組みが生まれている。つまりこの時代の為替は、金
銭のみならず米その他の物品の授受にも用いられていたのである。 
いわゆる金銭のみの授受としての、日本で最古の為替の仕組みは室町
時代の大和国吉野で多額の金銭を持って山道を行くリスクを避けるた
めに考えられ、寛永年間に江戸幕府の公認を受けた制度であるとされ
ている。吉野には大坂などの周辺地域の商人も出入しており、大坂商
人の為替はこれを参照したとする説もある。また、鎌倉時代以来存在
した割符との関係も指摘されている。 
江戸時代の日本では、政治・消費都市である江戸と経済的中心である
大坂(更に商工業が発展した日本の首都・京都を加える場合もある)
の間で商品の流通が盛んになった。それは多額かつ恒常的な貨幣流通
の需要を生じさせるとともに、支払手段としての貨幣機能の発展、信
用取引の発展を促して、両替商あるいは大都市それぞれに店舗を持つ
大商人を仲介とした為替取引を発達させた。 
例えば、江戸の住人・「甲」が金100両を大坂在住の「乙」に送金する
場合、江戸の両替商「丙」に100両を預けて、「丙」は代わりに為替
手形と置手形の2通を作成して「甲」に渡す。「甲」は為替手形のみを
大坂の「乙」に送付し、置手形は保管する。江戸からの為替手形を受
け取った「乙」は、その裏側に裏書を行った後に「丙」によって指定
された大坂の「丁」(「丙」の支店あるいは取引先であることが多い
)に為替手形を渡して金100両を受け取る[注釈 1]。その後、「丁」
は江戸の「丙」に為替手形を返送し、これを受け取った「丙」は、「
乙」の裏書を証拠として「甲」から置手形を取り戻した。この他にも
両替商間で予め一定額限度で相手側からの支払要請の受理を保証する
ことを約束しあった空置手形や、予め両替商に預け入れていることを
示す預金証書である預り手形や預金者が預金先である両替商に対して
振り出す振手形などが存在し、最終的には「丙」と「丁」の間におけ
る相互の手形の差引および相殺によって処理した。 

特に江戸・大坂間では消費都市である江戸の商人達からの支払のため
の手形と商業都市である大坂からの江戸幕府の大坂城御金蔵や藩の蔵
屋敷における米や物産の売却代金を幕府中枢および諸藩の江戸藩邸に
御用両替商を通じて送金するための手形(幕府ではこれを「公金(江
戸)為替」と称した)が行き交っており、大坂の両替商は幕府や諸藩
から依頼された送金用の金銭で江戸から流れてきた江戸からの支払用
の手形(下為替)を買い入れて(国内為替市場の形成)、江戸の両替
商に送り、江戸の両替商はそれを江戸の商人達から取り立ててその代
金を大坂の両替商に代わって幕府や諸藩に納付していた。また商人間
でも、蔵屋敷の保管証明書(蔵預かり切手)が売買され、実質的な為
替として流通していた。 

こうした手形のやり取りが両替商達の信用力を高めて行くとともに、
集められた資金は投資や貸付資金などにも流用されて、日本の近代資
本主義の成立に欠かせない信用機関の発展と都市商業資本の集積に貢
献したとする見方が強い。前述の公金為替は全くの無報酬であったが
、商人が公金を預かっている間は自由に資金として運用できたため、
運転資金の融資を無利息で受けているに等しかった。それだけに江戸
幕府崩壊と銀目の廃止(銀目廃止令)、廃藩置県に伴う、経済構造の
変化は為替に対する信用不安を生み出す可能性が出てきた。このため、
政府は遅々として進まない商法制定の中でいち早く手形・為替関連法
(為替手形約束手形条例)を整備するとともに、国立銀行 (明治)の設
置などの金融政策を取っていくことになった。 

現代の日本における為替取引
現代の日本では、為替取引とは「顧客から、隔地者間で直接現金を輸
送せずに資金を移動する仕組みを利用して資金を移動することを内容
とする依頼を受けて、これを引き受けること、又はこれを引き受けて
遂行すること」と定義される[1]。資金決済サービスの利用者保護等
の理由により、銀行、信用金庫等の金融機関のみが為替取引を行うこ
とができる。 

内国為替制度(全銀システム)
詳細は「ゆうちょ銀行#全銀システムへの接続」および「ゆうちょ銀行」
を参照全国銀行データ通信システム(全銀システム)のことを、特に
内国為替制度と呼ぶ場合もある。全銀システムは、個人や企業がB銀
行に対する送金をA銀行に依頼した場合などに、金融機関同士の決済
を行うための仕組みである。全銀システムでは、日本国内のすべての
銀行の貸借関係が相殺され、過不足が日銀当座勘定で清算される。全
銀システムの運営は一般社団法人全国銀行協会(旧東銀協から継承)
に設けられた内国為替運営機構が行っている。なお、銀行に限らず、
信用金庫、信用組合、農業協同組合、漁業協同組合(信用事業を行っ
ている場合に限る)など、それ以外の金融機関も全銀システムに加入
しており、内国為替制度が利用できる。そのため他の金融機関への振
込みは相互に可能である。ゆうちょ銀行は以前全銀システムへ加入が
認められなかったため、特定の金融機関としか相互送金ができなかっ
たが、2009年1月5日に全銀システムへの接続を開始し内国為替制度を
利用できるようになった。 
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第3章 海を渡りつつ、悪例になるな
1万ドルの水準を超えられない「中所得国の罠」
実際、この「1万ドルの水準」に直面して跳ね返された国は多い。逆
にいえば、その水準を突き抜けた国はほとんどなく、韓国とサウジア
ラビアくらいしかない。 サウジアラビアは資源があるからだろうし、
韓国は社会の仕組みが自由主義だったからといわれている。一方で、
ロシア、アルゼンチン、トルコ、ブラジルなどはみな1万ドルの天井
に跳ね返された。
日本の場合、戦後の高度成長時に天井を突き抜けている。勤勉な国民

性など、普通の経済テキストに書かれているような、そのための条件
を満たしていたからだ。一瞬だけ水準を超える国はいくつかあるが、
20~30年にわたって1万ドルの水準を超え続ける国は、実はほとんど
ない。
中国がたまたま好調だったのはちょうど1万ドルだったからで、これ

から10年後を考えたときに、いままでのように順調に成長するかは不
透明だ。経済成長しているとバブルは起こりやすいが、中国の場合は
その際の統計数字をごまかすことができる
日本でも昔、高度成長の最後にバブルが起こったが、当時は不良債権
なんて存在しないとみんなが口を揃えていた。
中国では不良資産があるかどうかを認定できるのは政府だけだから、

いくらでもごまかすことは可能だ。経済成長の負の側面であるバブル
を隠したり、ごまかしたりすることも容易だ。
その結果、のちに明らかになるのは、バブルがはじけたら失業者が増

えるという事実だ。
いずれにせよ、中国では人件費が上昇し、進出するメリットがなくな

ってきたため、ベトナムなど別の国に拠点を移す外資系企業も増えて
きた。だから中国はこれから1万ドルの水準を突き抜けるのが大変だ。
とくに共産党の一党独裁で構造改革が起こりにくいから、これ以上の

成長は難しい
中国経済を見るときには、この「中所得国の罠」が一つのキーーワー
ドになることを覚えておこう。
これから5~10年後くらいには、中所得国の罠にはまった中国が見ら

れるかもしれない。.      
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