秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

美濃の喪山伝説と、ひんここ祭@大矢田神社

2019-11-27 | 古代史のミステリー


見逃した「ひんここ祭」の人形が飾られてあった。
ずーっと昔は祭の最後に燃やされたそうだ。
今は作り手も減り大事に継承されてるのでしょう。

岐阜新聞Web 11/24配信で

約500年前から伝わるとされる岐阜県美濃市大矢田の大矢田神社の祭礼「ひんここまつり」(国選択無形民俗文化財)が23日、同神社で行われた。
地元住民が素朴ながらも躍動感のある人形の舞を繰り広げ、詰め掛けた観客を魅了した。
祭礼は4月の例祭と境内のモミジが色づく11月の年2回行われ、五穀豊穣を願う素朴な人形劇「ひんここの舞」など一連の奉納神事からなる。
秋はひんここの舞のみが行われる。
御旅所近くの山の中腹に設けられた舞台で、地元有志でつくる保存会員約30人が舞を演じた。
竹製のかご状の顔に胴を付けて衣装を着せた、農民や須佐之男命(すさのおのみこと)、大蛇(おろち)の人形が舞台に上がり、農民を襲う大蛇を須佐之男命が勇猛果敢に退治した。
保存会員は「ホーイ」という掛け声に合わせて人形を揺り動かし、山の麓から見上げる大勢の観客は盛んに拍手を送っていた。

もっと詳しくは



「大矢田」の地名由来は、大き弓、大き矢によるそうだ。

天若日子命が高天原より使者に出る時に、天照大神より賜った
天之麻迦古弓、天之波々矢、
猪、鹿など大きな獣を射る大きな弓、大きな矢。

孝霊天皇の時代、深山に悪竜が棲み付き困っていた。
里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、
建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。
その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ悪竜を退治してくれた。

それをモチーフにしたのがひんここまつり

平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた
境外摂社喪山天神社は、もともと大矢田神社の地にあったのを移転したものとされる。



本殿右手から天王山山頂へ登れます。

標高537m
頂上まで1200m
30分程度で行けるんだって。
大もみじの木も見たいです。
次来た時は絶対に行きたいな。



天王山にあるから、大矢田神社は通称お天王さま
そしてこの山は喪山ともよばれるそうだ。

その喪山となった経緯は、国譲り神話によります。

天照大神の命で、天界から下界(葦原中国=出雲)に遣わされたものが戻って来ない。
それで、次に送り込まれたのが天若日子(アマノワカヒコ)
しかし、彼も下照姫と結婚して帰って来ない。
無名雉を様子を見にやると、ワカヒコは雉を弓矢で射殺し、その矢は高天原まで飛んでいった。
その矢を「雉を殺したのがワカヒコならワカヒコに当たれ」
天界から下界に矢を投げ返すと寝ていたワカヒコに当たり死んでしまう。
葬儀にワカヒコにそっくりな阿遅志貴高日子根(アジスキタカヒコネ)命が現れ
妻の下照姫や親族は死者が生き返ったと喜ぶ。
死者と間違われて怒ったアジスキタカヒコネは、喪屋を剣で切り足で蹴ると、
喪屋は美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となりました、とさ。



社伝によると、
天照大神に豊葦原中国の平定の為遣わされた天若日子は、
大国主命の娘下照比賣命を娶り、大矢田の里に到り田畑を開き、人民を繁殖してこの地に住んだとされている。
その近くには天若日子の妻である下照姫をまつる上神神社がある。 
社由緒書きによれば、下照比売と天若日子は力を合わせて中津国の平定に大きな功績を残し、この里にお住居になつた神と伝えている。
さらにその近くには真木倉神社がある。
天若日子と下照姫の子である御手洗姫命(みたらいひめのみこと)の生誕地とされており、御手洗姫命が主祭神として祀られている。
なお、垂井町の葬送山古墳が喪山との説もある。



私同様、ひんここ、喪山伝説に不思議を感じた人はいました。

2018年度名古屋大学学生論文コンテスト
優秀賞受賞
「大矢田ひんここ」と喪山信仰
文学部2年 山中海瑠 さん

論文タイトルで検索するとPDFで開きます。



柚子天盛りの五平餅食べて、大矢田神社 初参拝終了。


いつか機会作って、また参拝したいとこです


西大寺から消えた道鏡追ってたら、楊貴妃に辿り着いた

2019-11-06 | 古代史のミステリー
 昨日書き上げる寸前に、「吉備由利」でリンク貼ろうとしたら消えてしまった。
 西大寺を発願創建した称徳天皇の晩年に身近で仕え、臨終間際側にいた唯一の存在。 
気になりますでしょう。 
吉備真備の娘とも妹とも伝わるようです。
 ではその謎に至るまでお付き合いください。 


前記事の最後にアップした画像は

この歌碑は西大寺の鐘桜前にあり、
傍らに「道鏡を守る会」石碑があった。

この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり
(万葉集 巻19 4268 孝謙天皇)

道鏡とあるのはココだけで、他では見当たらない。
しおりにも一切ない。


西大寺の詳細は、創建当初の伽藍図の引用元☞ 古寺巡訪


西大寺から消えてしまった道鏡について調べてみました。

関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」の
かいつまんで年代順に羅列してみます。


※以下、青字は管理人の補足
『続日本紀』に「俗姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内の人なり」
 本貫は河内国志紀郡弓削ゆえ、 弓削道鏡と呼ばれる
 下野薬師寺は、現在栃木県下野市=河内(かわち)郡南河内町

道鏡が平城京に上ったのは聖武天皇(701-756)のころ
道鏡は仏門に入り、東大寺初代別当の良弁(689-773)や
玄昉の師でもある義淵(?-728)に学んだ
 道鏡は如意輪法・宿曜秘法を修め看病禅師として名声を博 していた

天平宝字5年(761)
上皇となっていた孝謙上皇(718-770)が、
淳仁天皇(733-765)と行幸した保良宮(大津市が有力)で体調を崩した。
看病禅師として学識、呪験力で知られるようになった道鏡が呼ばれ治療にあたった。
元気になった孝謙が道鏡を寵幸するようになったため、
孝謙と二人の関係を咎める淳仁が対立するようになる。
 今夏8/31湖北の菅原集落を歩いた折に保良宮を知った

天平宝字6年(762)5月
孝謙は平城京に戻って出家した。
淳仁天皇が藤原仲麻呂(706-764)の言いなりになっているとして
「小事は今の帝が行い給へ。国家の大事賞罰二つの柄は朕行はむ」
と宣命を発し、表舞台への復権を宣言する。

天平宝字7年(763)9月
道鏡を内裏の仏事を取り仕切る少僧都に引き上げ、
仲麻呂によって長年中央政界から追放されていた吉備真備を造東大寺司長官に任命、
政治の中心となっていた仲麻呂から実権奪取をはかった。
 吉備真備は孝謙・称徳天皇=阿部内親王の時代より教育係だった

天平宝字8年(764)9月
仲麻呂は孝謙排斥のクーデターを起こした。
孝謙側は機先を制して淳仁天皇を捕らえ、逃げた仲麻呂を近江まで追討して誅殺した。
反乱を鎮圧すると、孝謙は道鏡を「大臣禅師」に引き立て、
淳仁天皇を廃し、自身は称徳天皇として重祚した。
天平神護2年(766)10月には道鏡を「法王」に任命し、
仏教を第一として日本の神々は仏教を守護する神とする神仏習合政治を進めた。

神護景雲3年(769)宇佐八幡神託事件
「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば天下太平ならむ」という神託が朝廷に伝わる。
弓削浄人、習宣阿曾麻呂より神託文が届く。
 神託を届けた弓削道浄人は道鏡の弟だった

称徳天皇は、宇佐八幡宮に確認のために和気清麻呂を派遣。
清麻呂が持ち帰った託宣は「天の日嗣は必ず皇緒に続く」
この報告に怒り、清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国に配流した。

神護景雲3年(769)10月30日
造営を進めてきた由義宮を「西京」とする詔と皇位継承について勅をだす
・勅その1:皇族以外の者が皇位を求めてはならない
・勅その2:次期皇位継承者は称徳天皇自身が決定する と言いながら決定せず

神護景雲4年(770)2月27日からは由義宮に1カ月余も滞在、
4月6日に二人は平城宮に戻った。

宝亀元年(770)8月4日、称徳天皇53歳で急死
 臨終最後の場に居たのは、吉備由利だけだった

称徳の後任に光仁天皇が決まると、
道鏡は下野薬師寺別当に左遷される
 下野薬師寺は東大寺戒壇院・筑前国観世音寺と並んで 三大戒壇院の一つ

1年8カ月後の宝亀3年(772)4月下野国で没し、
墓は薬師寺南方の「龍興寺」境内にある 道鏡塚(径38mの円墳 )だといわれる。

以上、ざっと道鏡の年譜をみてきて、
称徳天皇最後に吉備由利、これがたいそう気になりました。

晩年身近で仕えた吉備由利
昨日、だいたいこういった感じで書いてました。
吉備由利でリンク貼ろうとしたら記事が消えてしまったのでした。

過去ログで、よく読んでいただいている記事の一つに

ココで記したのですが、

吉備真備さんの御両親
父:下道圀勝、
母:楊貴氏または倭海直男足の娘・髪長支姫
祖母は道昭や持統天皇に続き火葬で荼毘に付された
708(和銅元)年に亡くなり火葬、立派な骨蔵器まで作って埋葬

さらにコメント欄で付記したことは、
吉備真備の母の墓で、蔵骨器と「楊貴氏墓誌」が出土したのは奈良県五條市。
墓誌の銘文により、吉備真備の母が楊貴氏(やぎし)という名であったと判明。
739(天平11)年に造られた墓だった。


そこからさらに調べて
奈良教育大学には「新薬師寺旧境内遺跡」や、
吉備塚」もあり、直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土、
太刀には人物像が象眼されていたそうです。
五條市の楊貴氏墓誌はたいそう気になりました。

吉備真備の母の記録「楊貴氏墓誌」がヒット、
楊貴氏墓誌の謎(楊貴氏墓誌は、なぜ作られたか?)を読んでると、
楊貴氏墓誌は、楊貴妃の戸籍を捏造するために作られたかもと書いてあります。

今回の西大寺の道鏡を追って、称徳天皇晩年の吉備由利でヒットしたのが同じサイトだった。


まだまだ続きますので、興味持たれた方はそちらのサイトでどうぞ
かなり前から不思議に思ってたことが繋がる快感。
妄想だとは言い切れない、隠された何かがありますね、きっと。

なぞは深まるばかり、
いや
明らかになりつつあるのかも・・・






秋篠寺の大元堂、国を護る大元帥明王

2019-11-01 | 古代史のミステリー
毎年6月6日には、大元堂が一般公開され、それはそれは長い列ができるそうです。

普段は写真パネルで拝顔できます。


JR東海の大和をかし話 其ノ21-22は秋篠寺


コピペできないので、後半をかいつまんで引用させてもらいます。

平安時代の初期に常暁(じょうぎょう)というお坊さんが唐に留学する前に秋篠寺に籠って修行をしていた。
あるとき常暁が仏さまに捧げる水を汲む閼伽井(あかい)を覗いたところ、水面に映った自分の姿に重なるようにして、怒りに満ちた仏の姿が浮かび上がった。驚いた常暁はその様子を紙に描き、それをもって唐へと旅立った。
そして唐の地で国を護るための密教の修法「大元帥法」を学んだとき、秋篠寺の閼伽井で見た仏が大元帥明王だと知る。
常暁はこの秘法を日本に持ち帰り宮中でも行われるようになった。
秋篠寺の閼伽井は「香水井(こうずいい)」と名づけられ、その水は修法に使われるだけでなく、明治4年まで 宮中に献上してきた。


ココに出現したと書いてあるようなので、家に帰って調べてて分かったのでした。



大元帥明王(サンスクリット語: Āṭavaka)
仏教の中でも特に密教における尊格である明王の一つ。
だいげんすいみょうおう、
と読みたいところですが、真言密教では帥を発音しないそうで、
たいげんみょうおう 

大元帥明王は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」、「森林鬼神」と漢訳され、直訳すると「林に住む者」「林の主」の意味。
このようなアータヴカは
インド神話において弱者を襲って喰らう悪鬼神
とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じました。
その悪を打ち砕く大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化、明王の総帥に。 
一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われます。
軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説も。

国内に彫刻として存在するのは秋篠寺だけ。
秋篠寺に残る大元帥明王像は、
火焔を背負うたくましい身体に蛇を巻き付けて、六本の腕に武器をもつ。
一面六臂の憤怒相で、髪は怒りによって天を衝くように逆立つ
まさに鬼神そのもの。
 
 

秋篠寺(奈良観光協会サイトより)
 奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。


しかし、
「苔むして静謐なお寺の優雅な伎芸天に会いに」
からは思いもつかない歴史がありました。


秋篠寺創建期、宮廷において権謀術策に満ちた暗澹たる権力闘争が繰り返され、時代は大きく変わろうとしていた。
秋篠寺は、まさにその渦中で権力者の様々な思いを背負って建立された寺院だった。 


光仁天皇は、称徳天皇崩御をうけて神護景雲4年(770)8月立太子。
称徳天皇の死は、従前より懸念されていた皇太子不在が現実の問題として顕在化したことを意味する。皇太子不在のままの天皇の崩御はたちまち政局の不安定化、強いては混乱に直結した。
そのために急遽、左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備らが、立太子候補選定の協議で、永手は白壁王(光仁天皇)62歳を、吉備真備は天武天皇の孫である文室大市王(ふんやのおおいち)67歳を推挙して対立し膠着状態に。
対立の原因は、天武天皇以来守られてきた天武系の王を立太子させる否かの一点であった。永手の推す白壁王は天智天皇の第七子である施基親王の第六子で天武系ではなかったのに吉備真備は固執した。


上記の古寺巡訪のサイトでは、最後にこう結ばれています。
秋篠寺は時代が変わろうとする大きな節目に建立された寺院です。それだけに時代に翻弄された人々の様々な思いが境内の奥深くに沈殿しているように思います。 この苔むした境内に佇んでいると、今尚、それらが地中深くからそれぞれの思いを込めた眼で、訪れた者をじっと凝視しているような幻想にとらわれます。 秋篠寺。必ず訪れたい寺院の一つです。



湖北の歴史と 国宝「菅浦文書」

2019-10-03 | 古代史のミステリー


菅浦文書は、2018年3月9日 国宝指定されました。
大正まで須賀神社の「開かずの箱」に秘蔵されていました。

中世の村の自治組織「惣村(そうそん)」の姿が記録された貴重な資料です。
これまでに国宝に指定された文書は武家や寺社が記したもので、庶民が記した文書が国宝に指定されるのは初めてだそうです。



琵琶湖の北の方かなりの部分が長浜市なんですね。
琵琶湖をサイクリングで一周するビワイチ、
湖北では湖岸線を離れざるを得ない地形です。


菅浦の集落は、前に湖があり後には山が迫っているので、村人は昭和46年に道が整備されるまで、学校へ行くにも船を使っていたぐらい。
田んぼや畑などの耕地も村の周囲にはなかった。


マピオンの地図の貼り方わからない。

この地図の、青いルート発と記した地点が大浦、着が菅浦
青い線途中、大浦に近いあたりに2か所平地があります。
バスからの車窓でも、ここやとすぐわかりました。
その日指・諸河という耕作地は、菅浦にとっては大切な田んぼであったので、約200年にわたって大浦と争った。
その抗争の記録が菅浦文書に残されているそうです。

菅浦文書は、数少ない中世庶民史料と評価され、また村落研究の好史料として、とくに「惣」研究における典型例として紹介されてきました。

惣村とは、中世農民の自治的な共同組織
鎌倉時代の終りから室町時代にかけて、菅浦には住民が集って村の中のことを決める自治組織「惣」という組織があった。
「惣」は今の警察の仕事である、悪いことをした人を捕まえることが出来た。
その犯人を裁くという、今の裁判所の役目も果たしていた。
小さな村のみずからの自立的・自治的な共同組織です。
農業の共同作業、戦乱に対する自衛などを通じて村民の結合も強まった。

神社の祭礼では、東西の組が毎年交代で当番を務め、その組の9人が「神主」として、氏子総代らとともに神事を担う。
神主は3人ひと組で、4カ月ごとに交代。
本殿などの鍵の管理や毎月1日のお参りなどが務めで、普段は菅浦を離れている人も多くが帰省して役目を果たすそうです。


菅浦の湖岸集落景観 - 長浜市PDF 237ページより引用

菅浦の地域に初めて人間が住み始めたのは縄文時代のことである。
葛籠尾崎先端から東の琵琶湖の湖底に位置する葛籠尾崎湖底遺跡からは縄文時代早期の深鉢が出土している。

天皇に奉仕する供御人
菅浦の住民が天皇に飲食物を献紌する供御人になったのは天智天皇の頃という伝説がある。しかしこれには根拠はなく、漁労と舟運を生業とする菅浦の人々が供御人になったのは12世紀半ばと考えられる。


【供御人】くごにん とは、        
 平安時代から室町時代にかけて、朝廷に属し、天皇の飲食物を貢納していた人々。
                  
淳仁天皇  はホントにこの地で住まわれたのだろうか。

須賀神社はもと保良神社といった。
1910(明治43年)小林神社、赤崎神社を合祀し、当社の旧称菅浦大明神に因んで須賀神社と改称した。
この地には、764(天平宝宇3年)保良宮が営まれ、同5年から6年まで淳仁天皇が隠棲されたという伝承が残り、淳仁天皇を祭神とする。

ご神像は、帝がこの地におわせし時、御自ら榧の木を採ってご彫刻になったものと伝わる。 
毎年4月3日に行われる例祭は、3基の御輿の渡御があり、古例による幣祭も伝統よく守られている。
当地では淳仁天皇薨逝の年より50年毎に法要を営む旧慣がある。
1863(文久3年)に1100年祭、1963(昭和38年)に1200年祭、直近では2013(平成25年)に1250年祭 。

綿々と受け継がれてるということ、
何にもなくてこれだけ長く継続はできないと思います。


伝承 参照先はこちら
758年(天平宝字2年)に即位された淳仁天皇は、ただの虚位に過ぎず、出される政令は孝謙上皇のものばかりであった。
上皇は当初恵美押勝(藤原仲麻呂)を起用したが、後に道鏡を起用し寵愛され、両者の間柄を詰問された天皇と上皇は不和となった。
上皇は怒って奈良の法華寺に籠居し、天皇も近江から平城宮に還御になった。
間もなくして、道鏡に寵を奪われた押勝が反乱を起こしたが高島で敗れ一族全滅した。天皇は淡路に流され「淡路の廃帝」と称されるようになる。
その後は、太平記によると「天皇は僅かの従者と共に、淡路の高島に幽閉されたが、ひそかに謀略を以て配所を抜け出し、従者と逃げたが、追っかけられて捕まり
ここで薨逝された、が実は弑せしなり」とある。 
しかし、菅浦では、淡路は淡海の誤りで高島も、湖北の高島であると信じ
帝が行在中、みずから榧の木で御躬(み)の御肖像と后妃の御肖像を彫刻されて、「何所に寿を終えるも神霊必ずこの肖像の留め置く」と述べられたことから、その場の周囲を石で船型に積み、一社を創立して廃帝を祭ったとされる。
この社を保良神社といったのも、そこが保良の宮跡だからで、また葛籠尾崎の名称も、帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名付けたと伝える。須賀神社本殿の裏には船型御陵と伝わるものが残されている。 
                                                                 




その後の菅浦の歴史
舟運、漁労を生業としながら日指・諸河の田畑を耕作していた菅浦は、平安時代に大浦荘から自立。以後日指・諸川の田畠の領有をめぐる大浦との争いや村落の滅亡の危機。

戦国時代に入り、浅井氏が湖北を支配するようになると、戦のための舟や年財の徴収がされ、また菅浦の自治について干渉するようになった。
江戸時代の膳所藩支配。

葛籠尾山の領有をめぐる延勝寺村との山論など、幾多の困難を乗り越えてきた。

菅浦の人々は村落の成立以来、誇り高い自立の精神を受け継ぎ今に伝えている。
こうした永い歴史的な風土と人々の生活やなりわいによって培われ、菅浦はその形を変えつつも独特の風景を造り出し今に伝えている。



景行天皇と、うきは、日岡、月岡

2019-09-19 | 古代史のミステリー


うきは市の白壁通り散策で見かけました。
板壁に貼り付けてありました。
たぶん忘れ物は、犬の💩
面白~い ♪ (#^ー°)v

1年前水道栓蓋上に、

厳禁!! と貼り紙したのとずいぶん趣き異なりますね。



うきはの白壁が黒塗りされた跡ですって。
戦時中に白だと目立って爆撃されないようにという工夫です。



うきはで2006年に食べただご汁定食美味しかったと書きました。
今回は原鶴温泉での昼食も、道の駅で買ったお弁当も口にあいました。
筑後川のこの辺り、温泉あるし食べ物イケてる

めっちゃエエとこやんと、
地図をしげしげ眺めてみる。


街散策で行ってはないけど、
若宮八幡宮の右手に月岡古墳、日岡古墳が目に留まりました。

日岡古墳って、加古川刑務所見学した時ありました。

広い構内見学させてもらって、日岡山が気になりました。
加古川の地名由来も含め、調べてみました。
このあたり、加古川市大野、日岡神社があるこの一帯の小高い岡には、前方後円墳4基、円墳11基ある古墳群でした。
景行天皇の后、稲日太郎姫陵(いなひおおいらつめ)のひれ墓も。
この丘が日岡山となずけられたのは、・・・
・・・つづく

この記事の最後に つづく としながら続きは書けてません。
よくわからなくなって、あっという間に一年が過ぎてた。


そして今年9月、また日岡が目に飛び込んできました。
同じ日岡だし、景行天皇だし。

また「うきは」、という地名由来も気になる。

日本書記 巻第七 景行天皇(岩波書店)
景行天皇十八年八月、的邑(いくはむら)に到りて進食(みをし)す。是の日に、膳夫等、盞(うき)を遺(わす)る。故、時人、其の盞を忘れし処を号(なづ)けて浮羽(うくは)と曰ふ。今的(いくは)と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)盞を号けて浮羽と曰ふ。

盃=酒盞(うき)
「うき」がないとは! 
「うき」は!→「うきは」「浮羽」と変化した


第12代景行天皇は、土蜘蛛や熊襲を平定して九州を大和朝廷の勢力範囲とした。景行天皇自ら征西すること7年、
天皇が熊襲を平定した後も、九州のこの地に長く留まったようです。



なんで、うきは が最後だったのか、な?


日岡古墳(ひのおかこふん)
所在地 うきは市吉井町若宮366-6
指定種別 国指定史跡 昭和3年2月7日

日岡古墳は月岡古墳・塚堂古墳とともに若宮古墳群を形成します。
この古墳群は現在の筑後川より1kmほど入った平野部に位置する古墳です。
3基とも前方後円墳で、古墳時代中期から後期にかけてこのあたりを統治した首長の墓と考えられています。

その中で、日岡の古墳のみに装飾が施されています。
古墳時代後期に造られた全長約74mの前方後円墳で、1重の周溝が巡っています。
後円部にある横穴式石室の壁全体に様々な文様が描かれており、壁画系の装飾古墳の中で古いタイプのものです。
石室の構造はやや内傾して側壁を積み、奥壁には幅2.2m以上、高さ19m以上の大石をほぼ垂直に立てて鏡石としています。
奥壁の頂部には2~3段の割石を積み、石棚を設置しています。

描かれた文様は、奥壁に赤・白・緑色を使い、6個の大型同心円・蕨手文・連続三角文などが、周壁には赤・白・青色を使用し、同心円文や三角文といった幾何学的な文様のほかに、盾や靫(ゆき)、太刀などの武具・魚・船・馬・獣などの文様が描かれており、場所によって色の使い分けがあるようです。
天井石が石室の床面に崩落しているので、上からのぞき込む形で見学することができます。


いっぽう、加古川の日岡山古墳(褶墓古墳) は、宮内庁陵墓として指定管理 されています。
前方後円墳の長さは約80mで同じような規模です。

景行天皇の后、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)が亡くなり、その亡骸を日岡に葬ることになりました。
ところが亡骸を乗せた船が印南川(加古川)を渡っていると、突然の突風が吹き亡骸は川へ流されてしまった。
さんざん探したにもかかわらず、見つかったのは褶と櫛箱のみ…
仕方なくこの二つを入れた墓のためにこの墓を褶(比礼)墓と呼ぶ。
 

景行天皇と印南別嬢の間には、大唯(おおうす)小唯(おうす)という双子の皇子が生まれ、小唯が後に地方豪族を平定した古代の英雄、倭健命(ヤマトタケルノミコト) です。


なんか、いろいろ腑に落ちないとこいっぱいあって収拾がつかなくなりました。
また去年同様、ここで唐突におわることにします。
とても月岡古墳まで頭が回りません。

古代史のミステリーですもの。



あかるひめ祀るひめこそ神社★大分と大阪と

2019-06-29 | 古代史のミステリー

姫島の東側、拍子池に着いて真っ先に向かったのが、ひめこそ神社。
11:30にお昼ごはん処の予約で、時間がない。
案内嬢について行くのが精一杯だった。




10:30から滞在時間わずか5分でした。
まさかバスで島内巡りできるなんてつゆ思わず。
おまけに出発前はメルキィのことで頭いっぱいだったし。
帰ってから調べました。

比売語曽社の由来(案内板より)
垂仁天皇の御代、意富加羅国(おほからのくに、今の韓国 南部)の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、ある日 黄牛に田器を負わせて田舎へ行くと、牛がいなくなった。捜していると老翁が現 われて「おまえの捜している牛は郡公が 殺して食った」という。阿羅斯等は郡公の館へ行って牛の代償を求めると、郡公は白石を与えた。
阿羅斯等が白石を持ち帰り寝室に置くと、白石は美女になった。 阿羅斯等は大変喜んで求婚すると、美女は忽ち消えてしまった。阿羅斯等が追い求めると、美女は海を渡って日本国に入 り、摂津の難波を経て豊後姫島に至り、 比売語曽の神となった。     


姫島は、古事記では「女島、亦の名を天一根」とある。
その古事記の応神記に、天之日矛(あめのひぼこ)は阿加流比売(あかるひめ)という赤玉から生まれた姫を追って来た。
いっぽう日本書紀では、垂仁天皇の御代、意富加羅国の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追って来たのは、白石から生まれた姫神が、摂津を経てやってきた。

古事記 712年完成
応神天皇 
天之日矛
赤玉から生まれた姫
阿加流比売

日本書紀 720年完成
垂仁天皇
都怒我阿羅斯等
白石から生まれた姫神

ともに天武天皇の命を受けて作成され、国内向けか対外向けがの違いはあったにしろ、なんで微妙に違ってるのでしょう。
赤い玉を白い石にわざわざ変える理由ってあったのでしょうか。


現代の西淀区に姫島という地名があり、姫島神社があります。
行ったことないのですが、そこの神社略記には、
『創建年代は不明だが、・・・江戸時代以前から産土神としてアカルヒメを祀っていたと考えられる。・・・当地は、古代難波八十島のひとつであった比売島がこの地に当たると伝えられてきた』   とあり、続けて比売許曽(ヒメコソ)伝承を略記しているそうです。 

でもね、
仁徳天皇の時代に淀川の整備で茨田の堤を築いたと記され、その伝承地は大阪市鶴見区や旭区、あるいは門真市など守口市近辺です。
あの時代までの大阪湾は現代の大阪平野まで入りこみ、上町台地の東側は河内の海でした。
西淀川区のあたりはまだ海の中だったと思います。


大阪市東成区、鶴橋駅の近くに比売許曽(ひめこそ)神社があります。
過去二回参拝するも、現代の祭神は下照姫で、ちゃんと記事にできていない。

このあかるひめ神社は実に興味深いものがありました。


摂津国風土記逸文
比売島の松原は  『昔、応神天皇の御代に、新羅国の女神(比売許曽の神=赤留比売)が夫から逃れて来て、しばらく筑紫の伊波比(イハヒ)の比売島に住んでいたが、「この島は新羅国から遠くない。ここにいたら夫が尋ねてくるだろう」といって、摂津国の比売島に移って来た。だから、元いた土地の名をとって、この島を比売島という』
これによれば、大分の姫島の方が先住地で、のちに大阪の姫島へとなってます。
参照元

こちらのサイトによれば、守口市高瀬あたりも可能性ありと書かれてました。
このあたりに姫島という地名残ってないかな~


周防灘と伊予灘の境にある姫島の神社で見落としたとこ含め興味深かったのは
⇒アカル姫と比売語曽(ひめこそ)社(大分県姫島村) 

謎は深まるばかり・・・


★8/30追記
この記事のコメント欄ですでに記載していることを本文に追記しておきます。

2019-07-02 07:32:04
筑紫の 伊波比で調べてたら、姫島が転化してひえ(稗島)というのをみつけました。
中央環状線へ出る交差点に稗島というのがあり、住所的には守口ではなくて門真市です。
続けて調査します(^^)
そのブログは
https://www.norichan.jp/jinja/renai/himejima.htm 

2019-07-02 08:06:09
門真の三ッ島神社にある薫蓋樟の記事をエントリーしたのは2011年晩夏。
その記事にはりひとさんもコメントしてくださってます。
自分のコメントに、なんと稗島は姫島なんて書いてましたわ。
今やっと繋がった気分です。
https://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/875b44685c8b8556f63273249ae21381


そして過去ログの「大阪緑の百選のNo.1 薫蓋樟」コメント欄に
2011-08-29 13:15:26 (吉田一氣さん)
茨田の堤(日女島)で雁が卵を産んだのを
仁徳天皇が年老いた武内宿禰に確かめるとそんなはずはない
と歌で返されていますが何か深い意味がありそうです。 

2011-08-29 21:40:34 
茨田の堤(日女島)のヒメ島はきっと現代の稗島(ひえじま)だと思います。
二島、三島など湿地帯に堤を築いて島みたいに中州・輪州ができてたのでしょう。 




談山(たんざん)神社の菴羅樹(あんらじゅ)

2019-04-12 | 古代史のミステリー
だんざん神社と呼んでましたが、まぁそれでも通じますけど、今は神社側も「たんざん」とにごらないそうです。
この談山神社について、2017-11-05に以下の記録残してます。
「藤原定慧が唐からの帰国の際に持ち帰ったといわれる談山神社の菴羅樹(安蘭樹)が当初よりカリンであったとするならば、・・・」
カリンは喘息に効くと聞いてたので興味持ってました。
いつか談山神社行くことあったらその木を見たいと思ってましたのに、桜ですっかり忘れてた。
次行くことあればちゃんと確かめたいので、調べたことを残しておきます。
 
 
菴羅樹は、カリンによく似ているが、桃の様な甘酸っぱい香がして触るといつまでもいい香がするらしい。
菴羅樹は花梨の意味。花がピンク色。釈迦が維摩経を説いた木でもあるそうです。
どうやら花梨の原種で、花梨のような実であるが成分が違うとも書かれてました。
 
 
 
 
以下の画像はすべてネットからいただいてきました。
 
 
 
 
どこに在るのか調べてやっとわかりました。
本殿左側の昔からの鶴の手水舎の後ろでした。
知らないと見逃してしまいますね。
 
 
菴羅樹(あんらじゅ)
鎌足公長男、定慧(じょうえ)和尚が、唐の国より持ち帰られた霊木と伝える。


(釈迢空)
人過ぎて 思ふすべなし。 伝え来し 常世の木の実 古木となれり
 
 
 
 
歌人の釈迢空は、民俗学者の折口信夫博士でした。
折口信夫博士と多武峰
 
釈超空こと折口信夫博士は大阪生まれ(18871953)祖父が飛鳥の出身だったことから、大和を愛し、少年の時から、当地をたびたび訪れました。博士は多武峰に天降った神(まれびと)が香具山に到るという神の道すじを実感されたのです。・・・
現代人は日本人の情緒と原理を見失っていると言われています。それは折口博士に言わせれば「日本人の神の喪失」に尽きる、ということになりましょう。
この歌碑の前に立つ人たちは、民族の将来を考え、そして自己再発見のこころの旅立ちを、今、ここからはじめていただきたいと思います。
 
 
 
 
一部引用
「古代から神聖視されてきた香久山は、多武峰の端山、尾根続きの山です。神は多武峰に天下った後、尾根を降って香久山へ至り、そこで祭祀が行われたわけです。
国文・民俗学者の折口信夫は、舒明天皇が香久山で国見を行ったことについて(『万葉集』)、多武峰に意識を向けているのだと述べています。天孫降臨に見られる、神が垂直に降りてこられるスタイルを、地形として持っているのが多武峰なのです。」


久延毘古神が示した竹の音は?

2019-04-05 | 古代史のミステリー
画像だけで音がないのが残念 、その2.
前記事に続いて動画でないので、一番伝えたい音はでません。

実は、この項を入力するの3回目です。
何度やっても消えてしまう、今度こそアップできますように。


大神神社の末社に久延彦(くえびこ)神社があり、くすり道を通って狭井神社へ向かうまでに、
「知恵の神様 久延彦神社 →」
標識案内板があるのは、以前から十分認識してました。


大神神社には2001年三巳の日参拝以来20回以上行ってます。
でも久延彦社は参拝したことなかった。
なんか行こうと思ったことなかった。


小学校唱歌でよく知られる「案山子」
♪山田の中の一本足の案山子
天気のよいのに 蓑笠着けて
朝から晩まで ただ立ちどおし
歩けないのか 山田の案山子

山田の中の 一本足の案山子
弓矢で威して 力んで居れど
山では烏が かあかと笑う
耳が無いのか 山田の案山子 

知恵の神様が案山子といわれてもね。

でも、三諸の神奈備というしおりには、
久延彦神社のご祭神久延毘古命は
「山田の曽富騰(そほど)」と申し、所謂山田の案山子であられます。知恵は世に類なく優れておられ、「足は行かねど天下の事を、尽に知れる神」さまです。
古くは鳴宮とも称され、・・・ 


3/31の日曜日は、大美和の杜の桜みる目的もありましたが、やっと巡ってきました。

枝垂れ桜以外は八分咲きの桜が見事でした。
展望台から桜越しに大和盆地も眺望よく堪能できました。
その展望台降りてさらに進むと鳥居あって階段参道が始まります。
御諸山を守る北西の丘で見張り櫓にも最高の立地。

竹林トンネルのような階段参道でした。
カーンと乾いた大きな音が一度ならず何度も。
最初は何の音かわからなかったけど、強い風で竹がしなり隣の竹にぶつかって出る音でした。
この日は風が強かったから。

なんかもうコレで頭いっぱい。
かなり心動かされ他に久延彦社での画像一枚も撮ってないのです。

古事記にのみ記されているという久延毘古神は、 
誰も知らなかった少名毘古那神の名を知って た唯一の存在。

一本足でず~っと立ってるから、定点観測する視点を持ってるとか、
鳥を追い払うふりして、実は鳥と仲良しで鳥から情報得てたとか、
風の中で風の便りも聞いてるとか、・・・

三諸山の北西の丘の高みに居て、四方を見渡して情報蓄積してたのかな。

初参拝で、記憶に刻まれたのが、竹のぶつかる音だけって、どうなん?
久延毘古神は何をお示しになられたんだろう。
今にして鳴宮というのも気になる。


参拝後、正面階段降りて、こんなとこに出るんだと初めて知る。

おおたたねこ神社に参拝して


にゅうめんと つくしご飯。
二の鳥居の左わき道入ってすぐの所。
ホントは大神神社着いて駐車後に覗いてみたら、たまたま一卓空いてた。
12時過ぎてたのでお参り前にいただいてました(^^;


猿田彦大神のお使いの二見蛙と興玉神石

2019-03-12 | 古代史のミステリー
ずーっと昔、半世紀も前に二見浦の夫婦岩みてました。
小学校の修学旅行でこの地で宿泊して翌朝、鳥羽の真珠島見学したような。
戦後、二見浦が修学旅行のメッカの如くで昭和35年48万人をピーク、その後の下降中に行ってたようです。
ほとんど記憶残ってないとおもったら、遊歩道の整備は平成7(1995)年のことだった。


大枝神社地車隊で平成最後の伊勢参り行くことになり、この週末参加して来ました。
普段この御一行さまは、自分の神社は好きだけど、よその神社に全く関心ない。
毎年の親睦旅行でお寺参詣はあるのですが、神社参拝したのは熊野大社、熊野速玉大社、そして丹後の籠神社だけだったと思います。
そうしたおっちゃん中心の団体旅行で、今回の平均年齢67才だそうです。
だから、ヘェ〜神宮行くんだ〜ご時世というものなんかなと思ってた。





昨日記事にした二見興玉神社ですが、なんでこんなにカエルいっぱい置いてるのと年配者にお尋ねしたら、
「無事カエル、お金がカエルの縁起物や」というお答え。
帰ってからご祭神調べたら、猿田彦大神でそのお使いが蛙だったのですね。

二見興玉神社では、昭和初期頃に実際に授与されてた御朱印の古図が見つかり、その図案を復元した復刻版御朱印を2018年7月から毎月23日(二見の日)限定で授与されてるそうです。
その御朱印が、上の右画像です。



二見浦って二つ見えるからそういうのかな、どの二つなんだろうと思ってたら、立て看板に


夫婦岩が日の大神(太陽)と興玉神石を拝む鳥居の役目をしていると。
日の大神が天照大神なら、「興玉神石」が何かを示すのかも調べてみた。

夫婦岩の沖合約700m先に鎮まる岩のことでした。
周囲約850メートル、高さ約7.5メートルの大きさもあるそうだ。

Wikipediaによれば、
三重県伊勢市二見町江、立石崎の北東650mの沖合に鎮座する二見興玉神社の祭神猿田彦大神縁りの霊石である。猿田彦大神の化身とも、天孫降臨の際に猿田彦大神が立たれたとも伝わる。
宝暦年間に発生した地震により、海中に沈んでいるため、肉眼で見る事は出来ない、1960年のチリ地震による津波で水が引いた際に一時的に姿を現した。
石の大きさは東西216m×南北108mである


宝暦は宝永の間違いだと思えます。

ところが伊勢志摩観光ナビには、
安政元年(1854)12月23・24日(旧暦11月3・4日)に発生した安政の大地震「東海・南海地震」(32時間後に連続発生、推定M8.4)で、完全に海の中に沈んでしまった。
現在は水面に出ることはないが、1960年のチリ津波発生時に少しだけ姿を出したという。


1707年と1708年の 宝永地震(南海トラフ全域が震源域)
1854年の安政南海地震(南海道沖の巨大地震)
どちらも紀伊半島に大きな被害残した大地震で津波も来たと記録残ってます。


江戸時代末期の浮世絵、大英博物館で保存されてるようです。
2代目・歌川広重『諸国名所百景』伊勢二見ヶ浦


1800年代後半のものだとして、興玉神石が描かれているようには見えません。
いつ沈んだかの正確な情報は確認できませんでした。




江戸時代の伊勢参宮名所図会にも

夫婦岩の後ろに富士山と御来光が描かれています。


初富士の鳥居ともなる夫婦岩 山口誓子
句碑があるそうですが見落としました。





夫婦岩は「日の大神」と夫婦岩沖合の猿田彦大神縁りの「興玉神石」を拝する鳥居の役目をしています。
興玉神石は猿田彦大神の誕生石とも伝えられてます。 
さらに200km離れた先に富士山があり、夫婦岩の間に位置します。
夏至の日にはその富士山の真上からから太陽が昇るように配置されているというのもすごい。
その延長線上には、皇居さらに鹿島がライン上に乗るのだそうです。







通りがかりで写した看板


★3/18追記
伊勢二見のカエル
<夏至冬至を「日還」と書き「ひがえり」と訓じた。>
これも夏至や冬至を境に日がUターンして昇る「日還」「ひがえり」が
「ひきがえる」になったためという。(『儺の国の星』p38)

詳しくは☞ こちらのブログ


今日は夏至、夫婦岩の日の出 - 秋麗(あきうらら)

今日は夏至、夫婦岩の日の出 - 秋麗(あきうらら)

tenk.jpから画像もらってきました。5月から7月の間だけ夫婦岩の二つの岩間から御来光を拝めます。夏至の前後1週間ほどの間は、お天気に恵まれれば夫婦岩の間に遠く富士山...

goo blog

 

あめつちの神にぞ祈る 朝なぎの - 秋麗(あきうらら)

あめつちの神にぞ祈る 朝なぎの - 秋麗(あきうらら)

海のごとくに波たたぬ世を昭和天皇御製カエルがいっぱい。伊勢の二見興玉神社参拝してきました。小学校の修学旅行以来で、初参拝のごとく新鮮でした。記事にするにあたり検...

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ところてん★伏見稲荷→藤森神社→真幡寸神社→城南宮

2019-02-13 | 古代史のミステリー


城南宮に着いて真っ先に七草粥いただいて、次に椿餅買って、
神さまより、花より、団子です、未だに。

そしていよいよ参拝開始。



城南宮の東鳥居入って直ぐにある摂社の真幡寸神社から始めたのは、城南宮以前にあったと書いてあったのを見たから。
意味不明なタイトルも含め最後に説明させてもらうことにして、まずは城南宮みたまま。





参拝終えて帰る間際にはポツポツ雨が降りだしました。
着物姿の女性グループは皆さん雨ゴートお召しで、濡れては勿体無い上等の着物。
このあと、京都は高台寺あたりを散策した時に大勢の着物姿の観光客に出会いましたが、ペラッペラの合繊で寒くないのかなといらん心配したぐらい。
城南宮はどちらかといえば、観光客よりは地元のかたとか、遠出の方はマニアックな神社フリークとかが多い感じでした。




拝殿に七草が奉納されてありました。



城南宮の神紋は、日月星の三光紋。


瑞垣内にも境内社があり、ぜんぶご挨拶すませました。



神苑の梅はまだチラホラ、花をつけたこの木は早咲きの桜とかかもしれない。
まだこれからのようだったので、別途入場料払って入場せず、隙間から眺めただけ。




幕末の歴史とかざっと読んでると、明治天皇がこちらでお昼を召し上がられて記念碑があると書いてある。
見に行くと



またまた、真幡寸神社って彫ってある。




椿餅食べながら思い巡らして、過去にエントリーした記事が気になった。

伏見稲荷が祀られた稲荷山は元藤森神社が鎮座してて、今でも藤森神社の祭りの神輿が伏見稲荷の鳥居前まで来て土地返せというと、今神さん留守と答えるんだと。
その藤森神社は、真幡寸神社の地へ移動しところてん式に追いやられたと。
やがて、平安京ができて京の南の護りとして、真幡寸神社に城南宮が。

2012-01-04 おみくじ「凶後吉」
藤森に初参拝したのは鎮座地の移転の不思議を知ったから

追記:改めて読み返してみると、
2012-01-04 ミミーさんのコメントに
本殿横に、神功皇后ゆかりの大木の根を祭り、…




この古代の地図は以下記事で記録残してます。

2013-09-16 キーワードは、男山

昭和8年から16年ごろまで巨椋池だったのが干拓されて農地となり、今は全くその面影は残っていない。

未消化ながらこれが現実なので、そのまま受け入れるとしても…

忘れない内に画像だけ先にアップして、もうちょっと調べてまた追記させていただきます。



★追記
真幡寸神社
まはたき と読みますが、
寸(すん)を古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともあるようです。
一寸(ひとき)とは、馬のたけを測る単位。


城南宮のサイトでは以下のように説明されています。

ご祭神 真幡寸大神、応神天皇
『日本紀略』弘仁7年(816年)7月21日条に「真幡寸神、官社の列に預る」と、また『延喜式』の神名帳にも記され、霊験あらたかで朝廷からお供え物があったことが知られます。
ご神紋が徳川家と同じ「三葉葵」であることから、江戸幕府より照会があり、由緒を奉行所に回答した文書が伝わります。
真幡寸大神と応神天皇をお祀りし、竹田地区の氏子の信仰が厚く、石の社号標や石灯籠が寄進されています。



ネット検索でいろいろヒットしましたが、
真幡寸大神で調べたら、こちらのブログが一番わかりやすかったので、そのまま順番を変えて引用させてもらいます。


この旗塚は、藤森神社にあるそうです。

真幡木の幡は旗纛(はたおき)で、戦陣に将軍の標識として立てた旗。
神功皇后が三韓征伐の軍船に立てた御旗を真幡木里に納められたことを暗示する。

真幡寸神社の根源地である現在の藤森神社には、
太い木の株を祭った「旗塚」があり、真幡寸神社が藤森に鎮座していた時の遺跡である。
神功皇后が三韓征伐から凱旋した後、兵器を納めて軍旗を立てた塚と伝承される。

真幡寸神社の鎮座地は、
藤森神社の地→竹田駅西側の真幡木町→城南宮の境内

現在の近鉄京都線の竹田駅西側には真幡木町の地名が残り、もとは真幡木里と呼ばれた地区で、真幡木神社跡に若宮八幡宮が建つ。

古代に、当地一帯を勢力下においていた秦忌寸氏の氏神として、鳥羽郷真幡木里に祀ったのが始まりとされる。

真幡寸神社は山城国・紀伊郡・二座と記される式内小社




大覚寺と嵯峨御流と、天地人

2018-12-17 | 古代史のミステリー


生駒聖天さんの五社明神、
宝山寺サイトでは、中興草創のみぎり、湛海律師を助けた生駒山の地神さまと記載されています。

五社明神で調べてみると、大覚寺がヒットします。
「嵯峨天皇が離宮嵯峨殿を営んだ際、嵯峨天皇が帰依した空海が嵯峨殿の鎮守社として勧請。嵯峨殿が寺に改められて大覚寺となると、その鎮守社となったといいます…豊受大神ら五柱の神をまつります」


※五社明神は、使用例枚挙に暇無いほどの大覚寺の中でもとりわけ頻繁に使われる撮影スポット らしいです。


今秋は、大覚寺で勅封心経御写経を60年ぶりに公開され、それまでの修復状況もTVでも放映されてました。
そうしたこともあり、大覚寺は検索上位にきたのでしょう。

大覚寺のサイトでは
弘仁9年の春、大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し、 嵯峨天皇は「朕の不徳にして多衆に何の罪かあらん」と、 離宮嵯峨院で質素倹約に努められました。 そのおりに、弘法大師の勧めにより、般若心経に帰依して読誦転経し、 殊に嵯峨天皇が紺紙に金泥で一字三礼の誠を尽くして般若心経を書写されると、 霊験あらたか、疫病はたちまちに治まり、大いなる功徳を得られました。 以来、この嵯峨天皇宸翰(しんかん)の般若心経は霊経と崇められております。

大覚寺といえば、嵯峨未生流で、今は嵯峨御流と名前が変わってます。
公式サイトより



1200年前、「弘仁9年大旱魃から全国に疫病が蔓延したことに対し」と大覚寺のサイトには書かれてました。
でも、上のYouTubeをみると、その818年(弘仁9)に
以下のようなことがあったとと知りました。

弘仁9年(818)7月、関東地方を未曽有の大地震が襲った。弘仁地震である。その被害は、千葉県南部の安房・上総国を除く関東全域に及んだ。とくに上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)は被害が大きく、『類聚国史』は、「山が崩れ谷を数里にわたって埋めた。圧死した人々がどれほどいたか、計り知れない。」と伝える。
引用元 弘仁地震の被害と復興、 そして教訓 - J-Stage


閻魔王宮伝来 結定往生の秘印 by 安倍晴明

2018-11-28 | 古代史のミステリー


一条戻り橋の清明神社の社務所で見ました。
買おうかなと思って初穂料3000円みてやめました。
実に京都らしいお値段です。

安倍晴明といえば、以前、京都らしからぬお値段で驚いたことがあります。


安倍晴明が閻魔王から授かったといわれる秘印が、
なんと400円!


安倍晴明が、臨死体験で閻魔王にあわれ、秘印を与えられた。
晴明が蘇生して気がつくと、懐中にこの金印が入っていた。
晴明はその後85歳まで生き、この印鑑を多くの人に施し、
逝去後、持仏の不動明王と印紋は真如堂に納められたそうです。

真如堂公式サイトより

その真如堂では、おみくじ、なんと50円! 
お賽銭箱に入れますが、京都らしからぬ価格設定です。
値段にひかれて物は試し、ひいてみたら大吉だった。

「物ごとすべておそく成就する
理あれば心ながく退屈すべからず
観音神明をたふとみ弁財天をしんじてよし」

2012-10-21 京都の岡崎エリアを歩いてきました。

そのうち清明神社いこうと思ってたのに、あっというまに6年が過ぎてしまってた。




社務所も並んでますが、もちろん本殿も参拝待ち行列。









ちょうど11/23は火を焚きあげる祭が行われ

清明神社公式サイトより
「本年度もたくさんの皆様にご参列いただき、多くの玉串が奉納されました。全国各地からご参拝いただきました皆さまありがとございました。」と書かれてました。


午前中でのことで見てませんが、跡が残ってました。



羽生結弦さんが SEIMEI を演じたこともあり、フィギュアスケーター・ファン御用達の神社でもあります。
夕方にもかかわらず、そりゃぁエライ人でした。

京都といえども、ちょっと高めの設定価格、それを何ともない参拝客多くて、インスタ映えであちこちで撮影する人々。
もちろん私もいっぱい写しましたけど。

なんだか、ディズニーランドでミッキーの誕生日にそのアトラクションで11時間並ぶに似た感じ。
私は慎ましやなケチですから、お金も時間もよう使いません。

安倍晴明が生きてた時代は、庶民にはどうすることもできない伝染病やら天変地異やら、怨霊のせいにもしたくなるでしょう。
そんな時に平安京に邪が入り込まないよう結界はってくれると安心してたかも。
晴明はすんごいスーパースターだったことでしょう。

今秋10/22の時代祭は、いろいろありました。
平安遷都1100年にあたる1895(明治28)年、平安神宮創建以来123年の歴史があります。

過去10回の中止があって、
明治天皇死去(1912年)、
関東大震災(1923年)、
日中戦争(1937年)太平洋戦争の影響による1944~48年。
昭和天皇の病気(1988年)
去年は台風21号の影響で中止。

今年は2年ぶりの開催でしたが、馬の事故ありました。

同日10/22「鞍馬の火祭」は1988年の自粛以来30年ぶりに、台風21号の被害で中止。

鞍馬の火祭りは940年朱雀天皇が御所の由岐明神を鞍馬へお移しする時に、松明で道中を照らしたことに由来するそうです。
都の北方を鎮めて1000年以上、直近の中止は昭和天皇がご病気で伏せられていた1988年以来。


そんなこんなで、清明神社がどんなかをこの目で見て御神威を感じたかったのでした。






大山で目に留まったあれこれ調べたら、大山信仰、牛馬信仰

2018-11-10 | 古代史のミステリー

11/3大山ウォークも終了間際に駐車場から大山を撮影。
16:40にバス発車して車中からは白雲が噴火煙のように見えた。



2万年以上前の噴火で、弥山、三鈷峰、烏ヶ山の3つの溶岩ドームが形成されたそうです。
2016年(平成28)10月21日鳥取県中部地震では、倉吉市、湯梨浜町、北栄町で最大震度6弱を観測。
大山の噴火だっていつかずっと先にあり得るのかもしれない。


大山山麓を歩きながら目に留まって、画像残してたものを帰ってから調べてみると 
へぇ~! そうだったんだ
調べだしたらキリがないので、その入口だけでも記録残しておきます。



大山寺参道で見かけた白地に藍色の旗。

必要なものは この山が 調えてくれる。


大山の恵に感謝したシンボルマークで、1300年を迎える2年前にデザインされたようです。





ブナの森に蓄えられた水が、山裾を伝い、海に栄養分を運び、それが良質な海藻を育てる。
大山の自然林の水が山を伝い、その水に支えられて多くの人々の暮らしがあり、その恵を守り紡いだ事が歴史や文化になっていった1300年。
そして今も尚、大山に支えられて生きている、その状態こそ将に「調ふ」ことなのだと。



大山信仰
大山は、出雲風土記に伯耆国の大神岳、大神山ともいわれてた。
雄大かつ神々しいところから、
「大いなる神のいます山」「神の宿る山」として崇められてきた。
そして火山噴火物が堆積した土壌にブナの木が育ち、蓄えられた水が人々の暮らしを潤す。
水の恵みに延命を求める地蔵信仰が盛んとなる。

地蔵菩薩が生きとし生けるものすべてを救う仏さまであることから、平安時代に大山寺の高僧 基好上人が牛馬安全を祈願する守り札を配るとともに、山の中腹に広がる牧野で牛馬の放牧も奨励した。



参道の蕎麦屋さん前にあった行燈の絵が牛。

牛馬信仰
人々は牛馬を曳き連れて大山寺に参って守り札をいただき、牛馬にも「利生水」を飲ませて延命を祈った。
さらに守り札は牛舎の柱に貼って安全を祈る。

牛馬の育成に適した大山山麓の牧野で育った体格の良い放牧牛は参詣者の注意をひき、また、参詣者が曳き連れてきた牛馬もあって、大山寺の春祭りなどに牛くらべ、馬くらべが開かれた。
これが発端となって、鎌倉時代以降、次第に牛馬の交換や売買が盛んに行われ、やがて市に発展していったと伝わる。

大山の裾野に自然に生まれた牛馬の市は、江戸時代には大山寺に庇護され信仰に裏打ちされた全国唯一の「大山牛馬市」へと発展。
江戸時代後期には、福島の白河馬市、広島の久井牛市と並ぶ日本三大と言われるまでに隆盛を極めた。
さらに明治時代には日本最大の牛馬市へ。

廃仏毀釈の影響で、大山寺の寺領も取り上げとなり権力が衰退。
牛馬市は昭和12年に閉幕となるも、「和牛」誕生へのいしずえとなった。

牛馬市をささえた「大山道」には、
坊領道、尾高道、溝口道、丸山道、横手道、川床道があり、そのうちの横手道の一部を歩くことができた。

この大山街道は牛馬だけではなく、砂鉄、綿、木綿など伯耆地方の産物が都へ江戸へ運ばれました。

古代~中世の武装した僧兵は、ここ大山でも強者でした。
一時は三千余の僧兵がおり、隠岐で挙兵し上陸した後醍醐天皇が僧兵の力を借りて船上山に立て篭もり、名和長年の弟源盛と共に足利軍を打ち破ったことでも有名らしいです。

最盛期には中門院、西明院、南光院の三つの寺院集団があり、一山三院四十二坊からなる一大勢力を誇った大山寺領は、鳥取藩の治外法権だったとか。
大山寺はもとは中門院大日堂と言い、争いの際に仏像などを一時的に避難させた物置のような場所だった。

明治の神仏分離で、大神山神社奥宮も大山寺も紆余曲折を経て今があるようです。





烏天狗の絵が気になった。

大山 伯耆坊です。

以前に鞍馬天狗や太郎坊宮の記事書いたときに、
八大天狗を調べたら
愛宕山 太郎坊
比良山 次郎坊 
飯綱 三郎
鞍馬山 僧正坊
大山 伯耆坊
英彦山 豊前坊
大峰山 前鬼坊
白峰山 相模坊

今回確認のため再調査したら

☆愛宕山太郎坊(あたごさんたろうぼう)
京都の愛宕山に棲む大天狗。数多くの眷属を従え、火を司る。
天狗の総大将として知られる。

☆鞍馬山僧正坊(くらまやまそうじょうぼう)
牛若丸に武術を仕込んだことで有名な鞍馬天狗。

☆比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)
もとは比叡山の天狗であったか、比叡山に法力の強い法師が多数集まってきたため、滋賀の比良山に移り住んだといわれている。

☆飯綱三郎(いづなさぶろう)
長野の飯綱山に棲む。竹筒に入るほど小さい「管狐(くだぎつね)」を飼い、それを使役する「飯綱の法」という術を使う。

☆相模大山伯耆坊(さがみだいせんほうきぼう)
もともと鳥取の伯耆大山に棲んでいたのだが、神奈川の相模大山にいた相模坊(さがみぼう)が四国の白峰に移ったため、その後任として相模大山へ来たという。

☆大峯前鬼坊(おおみねぜんきぼう)
もとは奈良の生駒山に棲む鬼だったが、修験道の開祖・役小角に改心させられた。その後、妻の後鬼とともに役小角に付き従って山々をめぐった。

☆白峰相模坊(しらみねさがみぼう)
讃岐国に流刑になり、香川の白峰で憤死した崇徳上皇の御霊を慰めるため、相模から移ってきたとされる。

☆彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)
福岡と大分の境にある英彦山(ひこさん)を守護する。 英彦山は、羽黒山、大峰山と並び日本三大修験の山のひとつに数えられる。




去年、白山が1300年で養老の滝もそう。
今年は、熊野三山、国東半島、そしてここ大山が1300年。

718年ごろに何があって、日本各地で開創や開基が相次いでるんだろう。
なぞは深まるばかり・・・

一の酉の日に知ったおとりさまは、鷲妙見大菩薩と鷲宮大明神

2018-11-01 | 古代史のミステリー


大鷲に乗った鷲妙見大菩薩です。

カレンダーに「一の酉」と書かれてあった。
今年の11月は酉の日が11/1 11/13、11/25 と3回あります。
その最初の酉の日が今日で、一の酉で市が立つんですね。

酉の市、聞いたことはありましたが、関西では?
堺の鳳にある大鳥神社では、市が立ってるのかな。
小学生の頃、南海高野線の北野田から南海本線の浜寺までバスが運行されてて、プールに通ったこと何度か。
途中で大鳥神社の鳥居前通過してた記憶がちゃんと残ってますが、未だご縁なくて参拝したことない。


酉の市は、鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られ、関東地方を中心とする祭りだそうです。

関東三大酉の市とは、
・新宿の花園神社
・府中の大国魂神社
・浅草の鷲神社 / 長國寺


浅草では他の場所の酉の市とちがって、「神も仏も酉の市」と言われ神社とお寺が隣り合わせ、どちらも拝めます。


最初の画像、鷲妙見大菩薩=鷲大明神
浅草酉の市のサイトでは、

鎌倉時代、文永2年(1265年)宗祖、日蓮大聖人が上総国鷲巣(かずさのくにわしのす-千葉県茂原市)の小早川家(現在の大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不思議な力をもってして現れ出でたと伝わるのが鷲妙見大菩薩といわれます。それは11月酉の日のことでした。七曜の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれてきました。

隣り合わせの鷲神社は、おおとりじんじゃと読むのですね。

鷲神社はご祭神が日本武尊で、埼玉の一部の地域にかなりの数があるようです。


引用元☞さいたま市緑区にある鷲神社に参拝

日本武尊は、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。
これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日には大酉祭が行われ、鷲宮神社では12月の初酉の日。

鷲宮神社 わしのみやじんじゃ と読みます。
埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号

祭神:天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命

別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はにしのみや」がいつしか訛り、現在の「わしのみや」になったとされる

発掘調査によって縄文時代の遺跡が見つかっており、古くから住民がいたことはわかっているそうです。

神社ドットマップを頂戴したブログには
鷲宮神社と鷲神社は対立関係だった?
なんて推測も書かれてあり興味深く読みました。


土師社は、羽曳野の道明寺にもあり天夷鳥命が祀れていました。
☞2012/3/20 暁や 鳥なき里の ほととぎす★一茶

いろいろ妄想膨らみますね~
武夷鳥命が天から持ってきたという神宝、刀とか、
話ややこしすぎ。


さて、この鷲宮神社は、人気アニメ「らき☆すた」にも登場し「聖地」として有名だったようです。
ところが、今夏8/11に大鳥居が突然倒壊!


埼玉新聞の記事
ショック、声も出ない…らき☆すた聖地・鷲宮神社の大鳥居が倒壊 100年前に建立 鳥居の根元にハチの巣


台風や地震が直接の原因ではなかったようですが、日本各地の神社仏閣の被害は多すぎます。

昨朝、TVでみた鞍馬のすさまじい被害映像は
鞍馬では







高山寺では





山深いところでは倒木はヘリで吊り上げて運ぶとかになるし、ハンパない本数倒れて、7億円はかかるでしょうと高山寺の和尚さんは話されてました。


山梨のぶどう薬師とマニ教と

2018-10-11 | 古代史のミステリー


薬師如来の左手の上に、薬壺の代わりにぶどうがのってるなんてめずらしい。
山梨県甲州市勝沼町にある大善寺のぶどう薬師は秘仏なので、五年に一度の御開帳が、
ちょうどいま平成30年10月1日~14日、あと3日お目にかかれます。



国宝の薬師堂の厨子の中に安置された国指定重要文化財の薬師三尊像で、日光・月光菩薩と共にいらっしゃるそうです。


大善寺のサイトによれば
養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。
行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています。



薬師如来は病気を治すということで、古くから信仰を集めてきましたし、日本各地に本尊とするお寺たくさんあると思います。
一番古いのが奈良の薬師寺です。



しかし薬師如来像はインドでは造像例が見いだせず、中国でも隋唐時代以前には、わずか一例があるだけらしい。

マニ教は、694年中国に伝来したとされ、
唐の時代には、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)と共に、摩尼教(明教)が三夷教ないし三夷寺と呼ばれていた、と高校時代の世界史で習いました。
試験に出るから単語として覚えていただけですけど。

日本の薬師寺はもともと、680年(天武9)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため発願し藤原京に創建されて、平城遷都に伴って718年(養老2)に現在地(奈良市西ノ京町)に移されました。


仏教経典一切経七千余巻の中で、薬師経の記述には、インド以外の要素が多いそうです。
「続命法」などに見られる善悪応報説と閻魔の審判はイラン起源。
それに記される7層の灯明は、オリエントの占星術世界観を継承していて、明らかにインドより西方の文化の影響を受けていることをうかがわせ、東方にあるとされる薬師仏の浄土が西方起源を示しています。




2010年9月下旬、マニ教『宇宙図』国内に現存してたというニュースが報道されたようですが、当時目に留まることはなかった。





上部中央に光の王と呼ばれる天使が描かれ、
左下に月、右下に太陽を配置して、さらにその下には七曜や十二宮などからなる天界を表します。

薬師如来の脇侍として、日光、月光の両菩薩がいることから、薬師が天上界の仏であることは明らか。


マニ教とは、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)が開祖。
パルティア帝国の末期に、メソポタミア平原南部のバビロニア地方ユーフラテス川沿いのマルディーヌー村で、パルティア貴族の父パテーグと、パルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれ、パルティアの貴公子という出自であった。

マニが12歳のとき、初めて神の啓示を受ける。
そのころにササン朝ペルシャは建国で226年で( 滅亡 651年)、当初、ユダヤ教・キリスト教に対し比較的寛容であったが、そのいっぽうでゾロアスター教を国教と定めた。

24歳のときに2回目の啓示をうけたマニは、新しい教団の設立を決意しマニ教を開教。
バビロニア、ペルシアから船でインドにわたり、北西インドから中央アジア地方にかけての伝道の旅から始めた。
やがてササン朝ペルシャのシャープール1世兄弟を改宗させ重用されたが、次世代バハラーム1世のもとでゾロアスター教以外のユダヤ教・キリスト教に続きマニ教もまた迫害されるようになる。
276年ゾロアスターの大マグ(僧侶)のカルティールに陥れられたマニは、王命により召喚を受けて投獄され死刑に処せられた。




民族も宗教もいり混じるバビロニアで、混とんとした3世紀に生まれたマニ教は、諸教混交がマニ教の特徴となりました。

布教する先々で、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなくて、生き延びることができなかったそうです。

奈良時代までに日本にもたらされたマニ教は、きっと薬師信仰となり、今なお日本人に根付いてるのだと思います。

薬師さんとぶどう、不思議に見える取り合わせは全然不思議じゃなかった。
薬師信仰の起源は、ササン朝ペルシアのマニを開祖とするマニ教と繋がってると思います。