秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

山梨のぶどう薬師とマニ教と

2018-10-11 | 古代史のミステリー


薬師如来の左手の上に、薬壺の代わりにぶどうがのってるなんてめずらしい。
山梨県甲州市勝沼町にある大善寺のぶどう薬師は秘仏なので、五年に一度の御開帳が、
ちょうどいま平成30年10月1日~14日、あと3日お目にかかれます。



国宝の薬師堂の厨子の中に安置された国指定重要文化財の薬師三尊像で、日光・月光菩薩と共にいらっしゃるそうです。


大善寺のサイトによれば
養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。
行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています。



薬師如来は病気を治すということで、古くから信仰を集めてきましたし、日本各地に本尊とするお寺たくさんあると思います。
一番古いのが奈良の薬師寺です。



しかし薬師如来像はインドでは造像例が見いだせず、中国でも隋唐時代以前には、わずか一例があるだけらしい。

マニ教は、694年中国に伝来したとされ、
唐の時代には、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)と共に、摩尼教(明教)が三夷教ないし三夷寺と呼ばれていた、と高校時代の世界史で習いました。
試験に出るから単語として覚えていただけですけど。

日本の薬師寺はもともと、680年(天武9)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため発願し藤原京に創建されて、平城遷都に伴って718年(養老2)に現在地(奈良市西ノ京町)に移されました。


仏教経典一切経七千余巻の中で、薬師経の記述には、インド以外の要素が多いそうです。
「続命法」などに見られる善悪応報説と閻魔の審判はイラン起源。
それに記される7層の灯明は、オリエントの占星術世界観を継承していて、明らかにインドより西方の文化の影響を受けていることをうかがわせ、東方にあるとされる薬師仏の浄土が西方起源を示しています。




2010年9月下旬、マニ教『宇宙図』国内に現存してたというニュースが報道されたようですが、当時目に留まることはなかった。





上部中央に光の王と呼ばれる天使が描かれ、
左下に月、右下に太陽を配置して、さらにその下には七曜や十二宮などからなる天界を表します。

薬師如来の脇侍として、日光、月光の両菩薩がいることから、薬師が天上界の仏であることは明らか。


マニ教とは、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)が開祖。
パルティア帝国の末期に、メソポタミア平原南部のバビロニア地方ユーフラテス川沿いのマルディーヌー村で、パルティア貴族の父パテーグと、パルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれ、パルティアの貴公子という出自であった。

マニが12歳のとき、初めて神の啓示を受ける。
そのころにササン朝ペルシャは建国で226年で( 滅亡 651年)、当初、ユダヤ教・キリスト教に対し比較的寛容であったが、そのいっぽうでゾロアスター教を国教と定めた。

24歳のときに2回目の啓示をうけたマニは、新しい教団の設立を決意しマニ教を開教。
バビロニア、ペルシアから船でインドにわたり、北西インドから中央アジア地方にかけての伝道の旅から始めた。
やがてササン朝ペルシャのシャープール1世兄弟を改宗させ重用されたが、次世代バハラーム1世のもとでゾロアスター教以外のユダヤ教・キリスト教に続きマニ教もまた迫害されるようになる。
276年ゾロアスターの大マグ(僧侶)のカルティールに陥れられたマニは、王命により召喚を受けて投獄され死刑に処せられた。




民族も宗教もいり混じるバビロニアで、混とんとした3世紀に生まれたマニ教は、諸教混交がマニ教の特徴となりました。

布教する先々で、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなくて、生き延びることができなかったそうです。

奈良時代までに日本にもたらされたマニ教は、きっと薬師信仰となり、今なお日本人に根付いてるのだと思います。

薬師さんとぶどう、不思議に見える取り合わせは全然不思議じゃなかった。
薬師信仰の起源は、ササン朝ペルシアのマニを開祖とするマニ教と繋がってると思います。



チャーミーが通過した守屋山東側

2018-10-05 | 古代史のミステリー
分杭峠というゼロ磁場で有名なスポットがあります。
ミーハーなもので、いつか行ってみたいと思っておりました。
中央構造線の真上にあり、その地溝帯は諏訪湖付近でフォッサマグナに分断されてるらしい。
たぶん実際に足を運んでも、何も見えないし何も感じないだろうとは思うけど、どんなとこか興味津々。







また茅野市は国宝「土偶」仮面の女神、縄文のビーナスがあるとこです。
いつか生で見たいものだと思ってます。


その茅野市と分杭峠との間にあるのが守屋山。
長野県諏訪市と伊那市との境、伊那山地の最北部にあります。



めねふねさんブログ「チャーミーと守屋山」によれば、
台風24号チャーミーが通ったのは、諏訪大社ではなく物部守屋の側だ。
諏訪大社上社のご神体山として知られるが、じつは諏訪大社の神域は北麓で、守屋山東峰には守屋神社奥宮の石祠がある。
里宮は登山口にある物部守屋神社である。
守屋山は、北側と東側では意味がちがう。



守屋山(もりやさん 標高1,651m)調べてみました。



守屋神社里宮は登山口のすぐ近くにあり、鳥居に「物部守屋神社」と書かれてるようです。
奥宮は、守屋山東峰にある石祠で、なんと鉄柵に囲まれていました。
なんでかなと気になって検索を重ねて、理由をやっと見つけた!


この画像頂戴した、以下ブログ
100山展望の守屋山
説明文も引用させていただきます。

諏訪市、茅野市と伊那市高遠町の境にあり、山頂から北に諏訪湖を見下ろすことができる。
山と諏訪湖の間には諏訪大社が祀られているが本殿がない。
大社の南に聳える守屋山そのものがご神体であり、昔から観天望気や雨乞い祈願の山としても崇められてきた。
雨乞いには東峰にある守屋神社奥宮の石祠を谷へ突き落とし、神の怒りをかって雨を降らせてもらうという乱暴な伝承もある。
現在は落とされないよう鉄の柵で守られている

危険個所もなく登り易く、展望にも優れた山として人気も高い信州百名山。


山頂からは、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、八ヶ岳連峰といった山々が眺望できて
これ程まで展望のいい山はめったにない、と多くの方が書かれてます。
守屋山周辺の古い神社の末裔の人々は、自分達を古代ユダヤ人の末裔であるとも自称してるらしい。

これも気になって、物部守屋神社で検索したら、
社紋が「丸に三ツ柏」紋

実家と一緒でちょっとうれしくなった。

同じく守屋山を背後にもつも、違う方角の麓にある
洩矢神社の神紋は「丸に一つ柏」



諏訪大社上社の大祝は諏訪氏、神長官は「守矢」氏、No.3禰宜太夫は「守屋」氏。
もりやという漢字もいろいろ。
洩矢神社も もりやで、
洩矢神 モレヤ神、…諏訪の土着神だそうです。

諏訪大明神画詞という14世紀に書かれた諏訪大社の縁起では、
諏訪の地に建御名方神がやって来て、それまでここを統べていた洩矢神と争った。建御名方は藤の枝で、洩矢は鉄の輪で戦うも、藤の枝によって鉄輪が朽ちてしまい洩矢は敗れる。
洩矢神はこの地の祭神の地位を建御名方神に譲りその支配下に入ることに。それによって、諏訪大社のトップである「大祝(おおほうり)」は建御名方神の末裔である「神氏(諏訪氏)」が、二番目の地位にある「神長官(じんちょうかん)」は洩矢神の末裔の「守矢氏」がつとめることになった。


下社の大祝は金刺氏。
神紋は上下社ともに梶紋(諏訪梶・明神梶)
三本梶に太い根が大地に食い込んでいる独特なデザインで、
上社では足が四本、
下社は五本足



学生時代は、夏合宿やスキーで長期滞在した信州。
年を重ねてからも何度か長野県に観光訪れてますが、未だかっていちども諏訪大社をお参りしたことない。
なかなかご縁が結べないようです。

ちらっと読んだぐらいでは?な歴史の重層がありました。
歯が立たないので今はスルーすることにします。


そんなややこしいとこを台風チャーミーは通過してたのでした。

まきび公園と吉備真備公園、二つもあった不思議

2018-08-31 | 古代史のミステリー


真備(まきび)さんの出生地・真備(まび)町は、「き」が消えたのはなんでかな
気になって知らべてて、見つけた不思議なオブジェ。


まきび公園にあるそうです。
倉敷市真備町箭田3652-1

吉備真備さんがカタカナを草案したという説に基づいて作られた石造物ですって。
でもウィキページ見たら、その伝承は疑問らしい。

先だっての西日本豪雨で倉敷の真備町は水没被害にあったので、この珠を載せた亀さんはどうしてるかな。
近くなら確かめに行くんだけど。

この画像中央のでっかい記念碑は何かというと、
昭和61年5月、中国西安市(旧長安)の環状公園内に、吉備真備の記念碑とその周囲に日本庭園が完成したのを記念し、吉備真備ゆかりの当地に建設したもの。

またこのまきび公園内には、吉備真備一族の菩提寺といわれている吉備寺や墳墓もあり、近くには、館趾や産湯の井戸・琴弾岩などの遺跡や名勝が散在しているそうです。

1986(昭和61)年10月のことでありました。
ちょうど735年に吉備真備が唐から帰国して1250年を記念したものであったようです。


拙ブログで5年も前の記事
不思議いっぱいの吉備大臣入唐絵巻」2013-06-02
は人気があるようでよく読んでいただいてます。
総アクセス数が出ないのが残念ですが、人気記事のランキングで上がってくることしばしば。

そこのコメントで書きましたが、新たな記事として残しておきます。

吉備真備は、元の名は下道 真吉備(しもつみち の まきび)さん。
備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。


遣唐使として
霊亀3年(717年) 3月:難波を発す
天平7年(735年) 3月:帰朝
695年生まれなので、出発時22歳で青壮年期の20年近くを唐で暮らしてた。

最初は真吉備であったのを、遣唐使として唐に渡ったころから真備と書いて「まきび」と読ませるようになったと考えられるそうです。

遣唐使として唐に渡った人のうち何人かは、中国風な名前にするために自分の名前をアレンジした記録が残っています。

同行した
阿倍仲麻呂→阿倍仲満
大伴古麻呂→朋胡満

おそらく吉備真備も
下道真吉備→真備


天平18年(746年) 10月19日:吉備朝臣(あそん)真備の姓を賜る。



2回目の遣唐使は
天平勝宝4年(752年) 閏3月3日:遣唐使出発

この時の遣唐使の目的は、
①唐の高僧(鑑真)の招聘
②外交根回し(対新羅政策)
③金の調達

天平勝宝5年(753年) 12月7日:唐より帰国の遣唐副使・吉備真備ら一行の船が、紀伊国牟漏崎に漂着。

鑑真を日本に渡来してもらうために唐へ渡ったのは成功したものの、帰路、鑑真の船は屋久島へ漂着、吉備真備の船は紀州の太地に漂着。


それからも幾多の困難を乗り越えて、
766年正二位右大臣吉備真備にまで上りつめました。
770年光仁天皇即位時に辞職し、吉備に隠せい。
775(亀宝6)年10月3日81歳で死去。
この時、光仁天皇は深く哀しまれ勅使を派遣されたようです。


この亡くなったとされる地に、吉備真備公園があります。
住所は、岡山県小田郡矢掛町東三成3872-1



この記事の最初に書いた、まきび公園とは近いけれど、違います。
あちらは倉敷市まび町にあります。
こちらは、矢掛町。

不思議ですね。
なんで似たような公園が二つもあるんだろう。



吉備真備公園について、こちらのブログより引用させてもらいます。

『旧山陽道の北側の平地3万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公(きびのまびこう)の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。
遣唐留学生の吉備公が天平7年(735年)、当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来1250年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。
これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。
公園は80メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった墓壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高6.45mの吉備公の銅像を安置し、周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。

この地にはこんなのもあるようです。

吉備大臣宮
遣唐使として中国に渡った吉備真備を祀る神社

吉備大臣産湯の井戸
掲げられている説明によれば、
吉備大臣ご生誕の前夜、東の空から明るい光りの尾をひいて一つの星が流れ、御館の西の井戸に落ちました。
そして次の夜、輝くばかりの玉のような男の子が誕生し、御館は歓びにわき、この井戸を「星の井」と呼び、この水で産湯を使われましたので、それからこの井戸が「吉備大臣産湯の井戸」と言い伝えられています。


いろいろ読み進めてると、なぜ二つ同じ時期に真備公園を作ったのか、ワケありです。

国道486号は旧山陽道で、矢掛町には大名行列や皇族の泊る本陣があった。
昔はこの山陽道まで海が迫ってて、海岸線に沿った道だった。

こういう事実に加え、ハーブで面白いこと発見。
2010年秋 幻の日本薄荷の発見 ☞ こち



矢掛町内の河川敷で日本薄荷が大量に自生している場所が発見されました。40年ほど前まで、岡山県南部は日本薄荷の一大産地でした。しかし海外産や化学合成メントールにその市場を奪われ40年前、矢掛町内での栽培農家は全くいなくなり、日本薄荷は完全に絶えてしまったと思われていました。

中略

薄荷は遠い昔中国から伝来したという説があるのと、矢掛は遣唐使「吉備真備」に由来がある地とされていることと…



個人的見解としては、真備さんのふるさとは矢掛かな。


吉備真備さんの御両親
父:下道圀勝、
母:楊貴氏または倭海直男足の娘・髪長支姫

お父さんの国という漢字がむつかしい圀
お母さんが楊貴氏。

祖母は道昭に続き、日本で火葬で荼毘に付されたと聞くとへぇ~です。

道昭は、700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付されたのです。

それからわずか2年後、702年12月22日に持統天皇が崩御され翌年火葬。
さらに6年後、708(和銅元)年に亡くなった吉備真備の祖母も火葬で、立派な骨蔵器まで作って埋葬しされてました。



江戸元禄年間、岡山県小田郡矢掛町東三成の山腹から銅製の骨蔵器が発見されたが、その蓋の表面に文字が刻まれていて、吉備真備の祖母の骨蔵器であることが判明した。

参照元:お墓の歴史




第44代 元正天皇が未婚だったそのワケは、

2018-08-12 | 古代史のミステリー


2017年が養老に改元されて1300年だったので、養老町では大々的にキャンペーンされてたようです。
養老の滝に重ねて描かれた元正天皇は美貌だったという伝承に基づきます。

万葉集巻二十に採録された歌番号4437は、元正天皇が聖武天皇に譲位されて後に詠まれたものだそうです。

富等登芸須奈保毛那賀奈牟
母等都比等可氣都都母等奈
安乎祢之奈久母
ほととぎすなほも啼(な)かなむもとつ人
かけつつもとな吾を哭(ね)し泣くも

なんとなく愛する人いたんだな、ワケありで一緒になれなかったんだと思わせる歌です。


36歳の未婚で、母であった元明天皇より受け継ぎ、44代天皇に。
体の弱かった弟の文武天皇が25歳の若さで崩御され、まず母が、ついで姉であった氷高皇女が天皇になった時に、すでに皇太子(後の聖武天皇)は元服してたという。

名 氷高皇女
諱 日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこたかみずきよたらしひめ)
天皇在位 715年から724年





この系図ではわかりませんが、
持統天皇も、元明天皇も天智天皇の皇女です。
異母姉妹とはいうものの、母親同士も姉妹でした。

遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)の父が蘇我倉山田石川麻呂、蘇我馬子の子です。

後の持統と元明2人は、母親が姉妹で父親が天智天皇という入り組んだ関係でした。

持統天皇(鸕野讃良皇女)が4歳のとき、母方の祖父である蘇我倉山田石川麻呂が自害します。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足の陰謀により、蘇我倉山田石川麻呂が自害させられ、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の死を嘆き、やがて病死。
そして幼き鸕野讃良皇女は、叔母さんである姪娘に引き取られ、阿閇皇女(後の元明天皇)と一緒に育てられました。

持統天皇、元明天皇の幼き頃からの恨み骨髄しみ込んだ思いはなんだったでしょう。


天武天皇と持統天皇との子、草壁皇子は天皇になる前になくなり、その妻が元明天皇、またもや子供の文武天皇は早逝してしまう。
姉であった氷高皇女は結婚して皇女でなくなったら天皇にはなれないから、独身をつら抜かされた?
氷高皇女の妹吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、やがて長屋王の変で共に落命。
愛する者たちが陰謀に嵌められてどんどんいなくなる…。



拙ブログは昔から旅の記録を書くとアクセス増える傾向があります。
5月下旬に国東半島行った時も確実に500I P 越えて、人々の興味関心にへぇ〜、でした。

ところが、大垣日帰り旅は600越えが続き、養老の滝にまた行きたいと書いたら、
なんと 732!
今までにありえないアクセス数です。

なんとはなしに、元正天皇が知らしめて欲しいと働きかけられてるような気がして。

とりあえず知りえたことを列記しておきます。








帰りのこだまで食べた駅弁は


大垣のお土産は



以上で旅の記録、無事完結。
暑い中、お付き合いありがとうございました(^人^)

霊亀から養老へ★老いを養う若返りの水とムゲツ氏

2018-08-10 | 古代史のミステリー




養老の滝から少し下ったところに養老神社があり、社殿右に菊水泉、水が湧き出してるのがわかりました。

昔は滝とこの水源は繋がってたそうです。






滝から流れる川の左側を歩いてても、万代橋、もみじ橋を渡ると養老神社に行くことができます。
地図の菊水泉へと延びる道は急な階段でした。

養老神社の社標の下に人だかりがありました。


ここでお水を賜ることができて、すぐ際まで乗用車が上がってこれるので、水タンクいっぱい積載されてました。



甘みはあるがクセのない美味しい水でした。

また急な階段参道をあがると


階段上から見下ろすと、左手に水くみ場



社殿前には


そして社殿右横に菊水泉があり、そこで湧き出た水が小川となって下の水くみ場に。



養老孝子伝説

昔むかし、美濃の国に貧しいけれど親孝行な樵が、ある日山に入ったところ、苔むした岩の間から酒の香りのする水が湧き出ていました。
樵は喜び、この水をひょうたんに詰めて持ち帰り、年老いた父に飲ませたところ、この上もない良い酒とたいそうな喜びようです。

この話が奈良の都にまで届くと、時の帝・元正天皇はこの地までお越しになり、この泉の水をお飲みになりました。そして、この樵にごほうびを授けられるとともに、このめでたい年を記念して、年号を「養老」と改められたのです。
この伝説から、この地が養老と呼ばれるようになりました。


養老の滝を出発するまでに間があったので足をつけて涼んだ。











『続日本紀』によれば
霊亀3年(717)8月、多治比眞人廣足を美濃國に派遣し、行宮を造らせた。(→現在御旅所になっている)
同年9月、元正天皇は美濃國へ行幸。當耆郡に至り、多度山の美泉(菊水霊泉)に接した。10日間滞在。

同年11月、靈龜から養老への改元の詔があった。
朕は今年九月、美濃國不破行宮へ行き、數日間留まり、當耆郡多度山の美泉に接し、手面は皮膚が滑らかになった。また痛い箇所につけるとなくなる。また、この水を飮む者は白髪が黒く戻り、髪がない者は生えてくる。目が見えない者は見えるようになり、歯痛は治る。老いを養う水の精である。
昔の事と聞いているが、後漢の光武帝の時、泉が湧きだし、これを飮む者は、皆病気が治ったとある。
天下の80歳以上の老人には、物を賜り、位を授ける。孝行を尽くす子を表彰する。
元正天皇は、翌年にも美濃國の泉に行幸している。



自ら飲浴され「老を養う霊泉」と元号を養老と改められました。
養老山地から湧き出るミネラルを含む水は、世の中をくくり結び、病に効く「菊水泉」と名付けられ、昭和60年に日本の名水百選に指定されています。


平安時代に編纂された令(法律)の式(その施行細則)のなかの、『主水司(もといりのつかさ)式』の条文に
「宮中または京内の井戸一か所を選び、牟義都首(むげつおびと)がその井戸を清め、立春の夜明けにその井戸より若水をくみ、主水司がこれを天皇・皇族に献上する」


元正天皇は、養老の滝への行幸の際にもムゲツ氏を帯同させ、その後も水の祭祀を任せていたそうです。
立春の暁に若水をくむ宮中の年一度の「主水の祭事」にムゲツを名乗る人物がその主役を勤めていたのは、なんでだろう。



水とかかわりの深い氏族だったムゲツ氏。

「ムゲツ」は、「身毛」「身毛津」「牟義都」「牟宜都」といろいろ表記されるがいずれも「ムゲツ」


1年ほど前にこのことを知った。
2017-09-29 不思議を追ってたら 向こうからやってくる…

あれ以来、養老の滝へいけば、ムゲツ氏の尻尾捕まえられるかとずっと行ってみたかった。

今回滝見て気持ち良かった、水は美味しかった、
でもそれ以外の深いところはさっぱり?だった。
追っかけのテーマ見つけれて楽しみ増えました。


7/25に発生した台風12号のコースと菅原道真公太宰府への道が似てるよ

2018-07-29 | 古代史のミステリー


7/28夜伊勢の鳥羽に上陸し、
御杖とか古代の伊勢街道通過して夜中の報道では不安をかきててました。

雨風の音で目が覚めて、TVつけたら






これを見て、昔の室戸第二台風を思い出し、3階の窓のシャッター閉めて、バケツに水張ったりした。

そのうち寝てしまって、朝目が覚めてコース地図見たら大阪直撃してた。
どうりで雨風強かったはずやね。




その後、神戸、明石、岡山、広島、防府、周防灘に出て北九州へ。

菅原道眞公が太宰府への左遷になった時の行程に似てるのではないかと思えて調べてみた。




やっぱりね ^_−☆


菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の例を元にした旅程に沿って航路を記したブログから頂戴してきました。
詳しくは ☞ そのブログ



天渟中原瀛真人天皇と宗像

2018-06-30 | 古代史のミステリー

沖津宮遥拝所拝殿の前で説明を受けます。
中央の扉を開けて、背面の窓を開けた先に沖ノ島が見えると。



鳥居を後ろから見るとひびが入っているのがわかります。
2005年3月の福岡県西方沖地震の爪痕でした。

石灯篭には難しい漢字が彫ってあります。





宗像大社沖津宮遥拝所で、ガイドさんが説明してくださった中で一番気になったのが
沖津宮の沖という字は、「瀛」

天武天皇の和風諡号にその漢字が使われています。
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはら おきのまひとのすめらみこと)
妃の一人に、胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)がおり、高市皇子(たけちのみこ)を産んでいます。

大海人皇子(おおあまのみこ)は知ってても、
天渟中原瀛真人天皇は知らんかった。

ネット情報によれば

「瀛」は道教における東方三神山の一つ。
秦の始皇帝が不老不死の薬をもとめて、徐福に命じ蓬莱、方丈、瀛州へ行かせたという。
その瀛州は済州島のことで、1950年代まで朝鮮語を話す韓民族ではなく、一貫して耽羅(タムラ)という独立国であったようです。

「真人」は道教の中で特別な名前
八色の姓の一つ最高位の姓で、天皇の親族にのみ与えられた位。

道教と儒教、神道と仏教、入り混じってるだろうし、現代の私たちの発想と違うかもしれません。






神功皇后の新羅遠征(363年)には、
「松浦の君」が唐津から、「胸肩の君」津屋崎か神湊から、軍団の長として両方の進軍があったと考えられています。

649年頃に宗像郡が建てられ、神郡(かみのこおり、しんぐん)として宗像社に寄進され、宗像神の祭祀は朝廷から特別に重視されていた。

ところが、神功皇后の新羅遠征に神威を示した宗像大神が、
300年後の663年百済救援のために出征した大和朝廷の水軍に神威を示していない。
大和朝廷軍は白村江にて1万名の兵を失って唐・新羅軍に大敗。

中大兄皇子は、水軍の指揮を安曇比羅夫に任せ、唐津から壱岐島経由で進軍したようです。
比羅夫は白村江で戦死しています。

白村江の戦いでは、宗像から沖ノ島経由ではなく宗像大神に祈願しなかったのでしょうか。


いっぽう天武天皇は、胸形君徳善の女・尼子娘をめとって、「瀛」の字まで諡号に入るぐらいなので、宗像大神とは非常に強いつながりがある。






ゲルマン民族大移動の4世紀は、東アジアだって緊迫してたことでしょう。
日本古代史も謎の4世紀です。
それから月日は流れ、645年大化の改新と習いましたが、
天智天皇と天武天皇、学校で学んだ歴史ではあかされていない深いワケがありそうです。



宗像大社に、西海鎮護・航海守護だけでなく、国家の命運祈ってたから、海の正倉院といわれるぐらいお宝いっぱい残されてるのでしょう。


両子寺は子授けの寺で、両所権現って?

2018-06-04 | 古代史のミステリー


童こけしのようなシルエットがくり抜かれてます。
不思議な形の絵馬ですね。
なぜこういう形になったかを聞くチャンスなかった。








本尊が不動明王の護摩堂にあげていただいて、皆さんご一緒に般若心経唱えました。
両子寺のお坊さんから由緒や独特な子授け祈願のことを伺いました。

その申子子授け祈願袋と趣旨はこちら
まるまる引用コピペさせていただきます。

子宝にあやかりたい人は、必ず、夫婦同伴の上、午(うま)の日に袋と供物と祈願料を添え、参拝するなわらしがある。
即ち、33枚のハギレ(8~10cm四方)を集め、一針ごとに真心を込めて、裏地 ・ 底をつけた袋を作成し、米一升三号三勺(2.2kg)と12把の線香、12本のローソク、御酒(一升)をお供えし、祈願をうける。
また、願成就された方は、毎年かならず一度は子供と参拝する。殊に旧暦初午大祭は、昔から大変な賑わいで有名である。

※子供を産んだことのある32人の女人からハギレをもらい、自分の一キレを加えて33キレで巾着袋を作る。
大きさは米が一升三合あまり入る程度。袋の内側には裏地を付け、その裏地に夫婦の住所、名前を書くこと。

◆毎月午の日が祈願日で、時間は原則として午前中です。
◆祈願を受ける方は、必ず予め連絡してご来山下さい。
(祈願当日でも電話連絡をしてください)
◆奉納金 18,000円
◆祈願の代参はできません。必ず本人同志で参拝ください。
◆詳細はお電話等でお尋ねください。TEL 0978-65-0253






足曳山両子寺は六郷満山中山本寺にあたります。
山岳修行の道場で、六郷満山峯入の最後の結願法要が行わるのが両子寺です。

まだ体力残ってる人は、さらに上の奥の院めざしましょうと16:15頃出発。


山門入口の仁王像は勇壮で立派でしたが、この奥の院への仁王像は国東半島で最古だとどこかで見たような。









奥ノ院の現在の本殿は、1846(弘化3)年 杵築藩の松平親良の寄進によるもの。
十一面千手観音と両所大権現が祀られています。



左手に、子授け祈願の巾着袋がありました。


奥の院本殿は、大きくせり出した岩の下に建てられていて、左手に裏の洞窟への入口があります。





岩から染み出る霊水は見ただけでいただきませんでした。
砂とか混じってたし…




絵馬中央に十一面千手観音、
左右に両所大権現はこの両子山に降臨なさった神々でしょう。

どんないきさつでここに来られたんだろうと気になり調べてみると、滝沢馬琴の「豊後国両子寺大縁起」と「両子寺畧縁起」がヒット。
両子寺54世豪円師の請いによって1815(文化12)年に書きあげられ、原本は早稲田大学図書館に保管されているそうです。


六郷山両子寺大縁起 荏土 瀧澤解撰

豊後國國埼郡六郷山足曳の両子寺は、仁聞菩薩の開基にして日域最初の台教たり、
葢惟れば、人皇四十六世の聖主元正天皇の養老二年戌午の秋八月、法華序正流通の三段に分たる、
三山凡廿八ヶ寺九十九ヶ所の精舎靈崛悉皆落成せり、
葢開山仁聞大士は、震旦にては陳氏の皇孫、我朝にては應神天皇八幡大菩薩の権化たり、
唐山陳の武皇帝は姓は陳氏名は覇先、はじめは梁の参軍たり、
?軍功あるをもて梁の將相に拝任せられ、禪を受位に即き高祖武帝と尊號せらる、
帝微賤かりしとき一女ありて男子なし、そのおん女僅に7才、日輪口中に入ると夢みて忽地に懐妊し、
七年の後安らかに男子を出産し給ひけり、
その兒生るゝ時に當りて奇異甚多かりければ、祖父はいたく忌嫌ひて竊にこれを棄たりける、
是よりして彼の兒は民間に生育ものから、幼少にして大志あり、年四才にして身長四尺、
十三四歳の童子にまして、聡明叡智いふべうもあらず、
常に日輪を拝しつゝ竊に天朝を景慕して、投化の情愿ふかければ、
漫に濱邊に迷来て商船の底に隠れ、萬里の渡海輙くも大隅國銚子の浦磯の岸にぞ着給ふ、
實に欽明天皇の十六年乙亥の秋八月、唐山は梁の天子敬皇帝の時にして紹泰改元の時に丁れり、
かくて彼此の浦人等は、投下の童子が異なるさまを怪しと思はざるものもなく、
その来歴を尋れば、神童答へて、われは、是梁朝にては陳氏の子たり、
この土にしては第十六主譽田天皇の後身なり、
素より朕が神靈は豊前豊後に迹を垂れ、百王鎮護国家安泰異敵降伏の本願を果さんと思うのみ、
われ嘗て震旦の天台山を景慕して生を彼土に攀しかば、不?學して戒定慧の三學を相承し、
生まれながらにして台教の淵源に泝りて、神釋二教成就せり、
けふよりしてわが名をば八幡麻呂と唱ふべし、
しかれども時なほ早かり、豊後の國崎に一座の山あり、
われ且彼處に山居して時の来つるを待つべき也、
今よりして彼嶽を両子山と唱へよかし、
両子は即わが神靈一體分身して垂迹を神釋二教に示すの義なり、
夫神道と佛法は一腹雙生の両子の如く、これを分てば異なれ共、これを寄すればいづれを兄孰を弟と決めがたし、
或は又葢匣の義なり、(後略)


引用元は ☞ こちらのブログ



この記事書いてたら2回も消えたので、firefox やめて 
自動保存された原稿残ってるうちに chrome に変えて投稿します。

ひょっとして核心ついてるのかも、ね。


二礼四拍手一礼の宇佐神宮でみたあれこれ

2018-05-29 | 古代史のミステリー


宇佐神宮の境内図です。
団体での限りある時間で先達さんの後をついて歩きながら、目に留まったものを撮影したあれこれ画像を貼り付けておきます。

このブログ内の検索で、「二礼四拍手一礼」で見ていただくといくつかの記事がヒットしますが、弥彦神社参拝記録で以下のように書いてます。

「あとその他に、弥彦神社がちょっと違ってることは、
二礼四拍手一礼
出雲や宇佐と一緒ですね。
私の大好きな、富田林の美具久留御魂神社もそうです。」

なんかご縁があるのでしょう。

八幡神については、ご参考までに数あるサイトの中から一つだけでもお知らせしておきますので、そちらなどでご覧くださいね。

八幡神の謎




大きな鳥居くぐって参道を進むと池の手前で左手に道を挟んで、左立て札:大尾神社・護皇神社(神さまと仏さまが最初に出会った宇佐の記事で画像あり)、右にこの立て札ありました。
地図見たら、その境内社はのってないのです。
調べたら頓宮と書かれたところにあるようです。

でも頓宮とは、頓宮(とんぐう)は仮の宮、一時的な宮のこと。「頓」の語は休息して留まる、仮の宮の意。
石清水八幡宮にも鳥居入ってすぐに頓宮あり、秋の重要な儀式が行われる場所です。

いろいろ深い意味がありそうです。

宇佐神宮のそれぞれの説明は→ こちらで





黒男神社は、大鳥居の手前にあります
武内宿禰が祭神なので、堺市の開口神社のご縁もあるのでちゃんとご挨拶してきました。



八坂神社、弥勒寺跡の前にありました。








御祭神 一の御殿 八幡大神(応神天皇)
    二の御殿 比賣大神(ひめおおかみ)
    三の御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)

神代に三神の比賣大神がご降臨になったこの宇佐の地に 約千四百年前の欽明天皇三十二年 応神天皇の御神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地を巡幸後この亀山にお鎮まりになりました のち弘仁十四年 応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし三殿の後鎮座となりました。






祭神は、
応神天皇の子にあたる大鷦鷯命(おおささぎのみこと:仁徳天皇)大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(こばえのみこ)、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)、雌鳥皇女(めとりのみこ)

六郷満山開山1300年にあたり、国重要文化財である若宮御神像5躰が初公開されてたそうです。
4/25-5/7で終了し、またもや人の目にはふれることのないとこにおられます。






南大江公園の朝日神明社跡と、露天神の夕日神明社

2018-05-02 | 古代史のミステリー


この地図の左下に榎木大明神、さらに上に朝日神明社跡。

南大江公園でソフトクリーム食べながら休憩してたら、この公園に以前来たことあると思い出しました。

というのは、公園の西南角に⛩
こんなシチュエーションまずないでしょ。
ソフトクリーム食べてて撮影画像ないのでネットで拾ってきて貼り付けましょう。


南大江公園 東南角の入口
↑こちらのサイトの説明では、
「面積は5000平米ほどで市街地にしては大きめなのですが、ほぼすべてが子供向けの広場と遊具広場になっており、思う存分遊べる公園となって・・・
公園の西隅には狸坂大明神が鎮座しています。
その横にある解説板には、「ここには平安時代から明治の終わり頃までは朝日神明社というお社があったが、それが此花区へ遷座した後に狸坂大明神が奉られた」





どうやら明治40年(1907年)に、こちらにあった朝日神明宮と、大阪市此花区の皇大神社を合祀し、
東向きの朝日神明社(此花区春日出中1-6-21)に。




2012年お正月に熊野街道を、天満の八軒家から南下して榎木大明神まで歩いた、その時に参考にしたのが、最初にアップした地図です。
だからこの公園にも立ち寄ったのに、当時神明社には全く興味なかったから記憶に残らなかったのでしょう。

4/30に参加したウォーキングは「難攻不落の大阪城・真田丸から熊野街道コース」で、その地図には、昼食ポイントとして朝日神明社跡は記載されてなかったのでした。




普通ならこれで話は終わるのですが、先の記事で北浜でドロップアウトした続きの地図で、お初天神(露天神社)が載ってました。
それをみたりひとさんのコメントで、露天神を改めて調べてみたら、

露天神社(つゆのてんじんしゃ)
祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を祀る。
社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」と祀っていたとされる。
創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。

お初天神としてしか認識してなかったので意外な発見でした。

そしてここに境内社として西向きの夕日神明社

朝日神明社・夕日神明社、もうひとつ南向きの日中神明社があって、浪速三神明という。

日中神明社は、大正13年(1924年)8月内平野町1丁目にあったが、 現在地大阪市大正区鶴町2丁目7-29へ移転している。


ちなみに日本七神明とは、
東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮



今まで神明社参拝で記憶あるのは、長野県の仁科神明宮しか記憶にない。
2010-09-23 夏から秋へ
こんなタイトルでは自分で読み返すこともないわね。
>今晩の大阪の夜空は、きれいな満月と木星を眺めることができます。

なんて書いてて、今年4/30の満月と同じやん、とまたまたシンクロ!



さらに神明社といえば
2018-04-21 いつなんどき at any time, every moment
の記事で書きましたが、鳥羽神明社



神明社、来てるやん。

なんで神明社が700年ごろにあちこちに祀られるようになったか。
その元をただせは、白村江の戦いにあったに違いない。

663年日本が百済救援のために唐・新羅軍と戦って大敗!


学生時代には単なる歴史的事件の単語としてしか認識してなかったので、この機会におさらいしてみましょう。

数あるサイトの中から
白村江の戦い

「白村江の戦い」 の なんで? ー本編 その1ー

「白村江の戦い」敗戦後



だって今、朝鮮半島は風雲急を告げてますから。
歴史は繰り返すものだし、歴史から学ぶことも多いし。


なにはともあれ、1960年代半ば、小学校の教室で前の黒板の上だったか下だったかに貼られて歴史年表、
そこに唐突に、任那日本府滅ぶという事件。
これが子供心に忘れられません。
ちょうど、先の東京五輪は1964年(昭和39)で小学校4年生でした。




熊野那智大社の烏石と、熊野夫須美神

2018-03-31 | 古代史のミステリー


本殿瑞垣の第四殿前のしだれざくら
今年はことのほか美しいと神職さんのご案内で言われてました。
後白河法皇お手植えとも伝えられ、室町時代の「那智山宮曼荼羅」にも描かれているそうです。
花弁が小さく上品な姿は上臈(女官)の雰囲気を醸し出していると。


那智原始林に入山する前に、那智大社で正式参拝でお祓い受けた後、神職さんが本殿瑞垣内に案内してくださいました。
ちょうど社殿の創建1700年で拝殿の屋根を修復中で、覆いがあるため写真撮影難しい。




烏石(からすいし)
神武天皇が熊野から大和へ入られたときに道案内した「八咫烏」が、その大任を終えて帰りここに姿を消し石と化したと伝わります。


話聞きながら、ふと下を見ると、ハート形白石が光ってた。



ご祭神の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)
「牟須美」は「結」とも書かれるようです。

今回が3度目の参拝となりますが、今まであまり深く認識することなくお参りしてました。






この度、語り部ガイドさん、神職さんの説明を受けてなるほど、と。
ハートの石まで呼びかけてきたし。

那智の滝は女性で、神倉神社のゴトビキ岩は男性で、
なるほど~
熊野速玉大神・熊野夫須美大神は、熊野版のイザナギ・イザナミということができると→熊野三山の主神について



ず~っと古代から、この地では
熊野速玉大神と熊野夫須美大神は、自分達を生み出した「親神」ということで崇められてきたのでしょう。

畿内逆五芒星と、位山と水無神社の位置

2018-03-18 | 古代史のミステリー


名神と北陸自動車道の地図に線引いてみた。



岐阜県高山の位山と飛騨一宮水無神社
2本の線がどこを通ってるかというと



左側は伊吹山を通過し、淡路島の伊奘諾神宮へ。

右側は名古屋の熱田神宮を通過し、伊勢神宮へ。

なぜ線引きたくなったかというと
めねふねさんブログで見た畿内逆五芒星の図




他サイトでもいろいろ見つかりました。


奈良観光jp






第二次世界大戦時に熱田神宮の草薙の剣が水無神社に疎開してたんですよね。
なぜ、そこが選ばれたのかな、何かありそうとは思ってましたが、
伊勢と結んだ線の途中に熱田神宮あるのを発見して
エヘヘ(^_−)−☆

伊奘諾神宮と伊勢と位山の3点はほぼ二等辺三角形ですね。








グーグルマップで線を引いてみると微妙にずれてる。
淡路島の伊弉諾神宮から伊吹山に引いた線と、位山や諏訪大社に引いた線はピッタリは重ならなかった。

でも、伊勢神宮を中心にして、水無神社までの半径で円を描いたら、
越前海岸から剣神社、平泉白山神社あたりを通り、御嶽山を通るというのも面白い。





飛騨一宮水無神社は位山を祀るのか、見張ってるのか

2018-03-10 | 古代史のミステリー


飛騨一ノ宮で滞在できるわずかな時間で、撮影した画像をまずご紹介します。

昨日になってこの画像見て、階段左に二重の光輪に気づいた。




午前中10:42撮影なので東南のかなり上まで太陽が上がっていました。





境内に残る雪が月曜の雨でとけてさらに凍てついてアイスバーン状態。
足元気をつけて拝殿までたどり着く。





左右の狛犬というより、阿吽の獅子
(ではなくて→だった)が迫力あります。



拝殿から覗き込んだ本殿、残念ながら後光というか、光の柱が降臨した画像は撮れなかった。




水無神(みなしのかみ)は、
社名の水無は諸説あり「水主(川の水源をつかさどる神)」の意味であり、『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあり、地元では「すいむ」と呼ぶことの方が多いそうです。
水無神として「御年大神(みとしのおおかみ)」を主神に外十四柱の神々が祀られています。



位山に奥宮があって、位山を拝むなら普通は拝殿の背後にありそう、でもそれらしき山がわからない。
どちらに見えるのか?

そして最初の画像の光輪を鑑みると、
祀るんじゃあなくて、見張ってる?
それで検索してヒットしたのは
位山は、くらいやま、暗い山。

前記事の地図改めて確認しましょう。





位山は、水無神社の背後にあるのではなくて、JR線路を挟んで対面していました。

それで調べて、なるほど~ !?
以下サイトご紹介します。

水の主が元であるが、ミヌシがミナシ(水無)になったという…これって、水主神に対する呪ではないのだろうか?→こちら

手長足長や両面宿儺は、出雲の幸神信仰と関係しているのではないか、という印象をもったと書かれてあります。
めねふねさんのコメントも含め、私もそんな感じがしました。




宇宙から来た存在を封じ込めた場所が3箇所あり、
そのうちの一つが位山→こちら

位山伝説:天孫降臨・天の岩戸・UFO伝説など→こちら

映画「君の名は。」聖地巡礼の旅 
御神体の山が位山と思う理由→こちら


水無神社で他に目に留まったものは次の項で

天地はじめの時 高天の原に成れる神の名は 天之御中主神

2017-12-28 | 古代史のミステリー


クリスマスに葛城の神社仏閣めぐってからか、なんか空気変わったような気がしています。
足の化膿もだいぶ快復に向かってるような感じですし。

葛城一言主神社に参拝したからかなぁ~
なんて年甲斐もなくミーハー気分ですけど。
今ごろにして、どなたの一言なんだろう、なんて気になったりして。



一言主(ひとことぬし)の神の一言(ひとこと)とは、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向を告げる「御神託(助言)」の最高神の事である。

というのをネットで見つけました。

そこには、事代主(ことしろぬし)の神の事代(ことしろ)とは、
天上界の最高神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の意向(事)を代わりに「御託宣(決定)」を成す地上の最高神の事である
とも書いてありました。



初めて、葛城一言主神社に参拝したのは
2012-06-25 神社フリーク・フィールドワーク

その時に境内の立て看板で、一陽来復のお札を賜ることができるのを知りました。

2012-12-24 葛城再訪★一陽来復★かもきみの湯

この葛城再訪で、近鉄御所駅で知人をピックアップする待ち時間に
鴨都波神社を初参拝。

2012-12-28 ことしろぬしに呼ばれた~?

お正月を迎える大掃除中で本殿の扉が開いていたため、知らず知らず瑞垣内に入り込んでしまったのです。
それ以来、祭神である事代主命にはまり、ずっと追っかけしてました。

あれから5年、またまた吉方は南南東にめぐってきたのです。

そしてやっと、事代主命、一言主神より天之御中主神にたどり着いたのでした。




大阪府と奈良県の境に葛城山、金剛山があり、その間に水越峠があり国道309号線が通る古代からの道です。

金剛山は、昔は葛城の山と呼ばれていたようで、山頂に葛木神社があり、その里宮が葛城一言主神社です。

2012-02-12 金剛錬成会と転法輪寺と葛木神社



奈良から山を越えて千早赤坂村に下れば、建水分神社があります。



水神さんを祀る神社でもありますが、一番のご祭神は天御中主神です。

「天御中主神は、天上の神々の世界である高天原に最初に御出現された神で、天地創造・万物生成の神である。
因みに、天御中主神は宇宙根源の元始神であることから、祀ること自体が畏れ多いこととして、古来より「祀らぬ神」とされた。それ故に古社において天御中主神を主祭神とする神社は稀有である。」
と説明されてます。


天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。


古事記の最初の文です。

天地で検索してて、JR西日本の新しい観光列車「あめつち」を見つけました。




2017年8月17日(木)新しい観光列車「『あめつち』~天地(あめつち)の初発(はじめ)のとき~」を、2018年7月から運行すると発表しました。


このニュース、今まで全く目に留まらなかったのに、
5年目にして南南東に吉方巡りきて、やっとです。
きっと、アホちゃう~ばっかじゃあないの、
と天の神様はあきれられてたと思います。



天御中主神さま ありがとうございます。


今年中に、サムハラ神社にもお礼参り行ってこようと思います。

2016-01-03 不思議の4文字 サムハラ




黄櫨染御袍を身に纏われる太子像

2017-11-26 | 古代史のミステリー


天皇の御袍
天皇が着用する袍(束帯の上着)の色や文様は、他の官位の袍と異なって、律令できちんとした定めはありませんでした。しかし皇太子の色「黄丹」より上位に「白」と記載されているところから、白が天皇の袍の色だったと想像されています。
平安時代初期の弘仁11(820)年、今に伝わる黄櫨染(こうろぜん)という黄土色のような色が天皇の色と定められました。ただし天然素材で染めているため、各時代によって黄色が強かったり茶色に近かったり、かなり幅があるようです。 
文様も特に定めが無かったのですが、平安中期頃から帝王を表す鳳凰や竹の文様が描かれはじめましたが、この頃は袍全体に唐草模様のように広がる地紋であったようです。鎌倉時代頃から桐や麒麟も加わり、ひとつの四角い文様「筥形文(はこがたもん)」となって、今日のような文様となりました。 
青色(うぐいす色のような色)も黄櫨染と並んで天皇の色とされましたが、どちらかと言えば公式が黄櫨染、日常が青色であったようです。ところが室町時代末期に黄櫨染の製法が途絶え、一時天皇の御袍色は青色だけになりましたが、江戸時代に黄櫨染が復興し、明治以降は青色は御着用ではありませ ん。青色は天皇の秘書官である蔵人(くろうど)のベテランに御下賜になることがあり、また平安時代は親王や公卿も着用していたようです。この場合、天皇の「青色」と違う「麹塵色(きくじんいろ)」と称し、文様も「尾長鳥牡丹唐草」(大柄地紋のページで紹介)を用いたようです。




この建物は、京都の広隆寺にある太子堂です。
お堂は上から見ると下が正面の凸形になっていて、後方の飛び出した部分に宮殿が設えられており、聖徳太子像が安置されているそうです。
御本尊の太子像は、33歳のほぼ等身大とされる立像で毎年11/22「聖徳太子御火焚祭」の日に開扉され拝むことができる。

11/22に聖徳太子の日だと、りひとさんがコメント下さって、確かに四天王寺の番匠堂で忌日法要執り行われるけどと、検索してたら見つけました。
コメント返しでは長くなるので、一つの記事にし記録残します。

広隆寺の太子像は黄櫨染御袍を身に纏われてる
何箇所かでヒットしますが、こちらのブログでは
「歴代天皇が即位礼などで着した黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう=上衣)を賜るのだといいます。ということは、いま着ておられるのは今上天皇のものだということになります」

ということは次の改元、平成の次が話題になってますが、こちらの太子像も着替えられるということですね。

来週の12/1の会議でいつか決まるのでしょうが、もし4月から始まった年度がわずか1ヶ月先の5/1で改元となったら、超めんどう。
改元はどうでも良いという認識かも。
確かに平成になってから今平成の何年かよく分からなくて、西暦一本にすればいいのにと思ってる国民も多いことでしょう。
高齢でしんどいからと退位されるはずが上天皇上皇后で予算も人ももっといる、なんてわけわからん状況で、皇室への関心や畏れ敬う気持ちが急激に冷めましたから。

ご参考までに
5月1日改元案の怪


ところで、広隆寺の太子像は、嵯峨天皇時代に黄櫨染御袍を贈られることが決まったようでそれ以来ずっと?
この不思議は何故そう決まったのかとか、いわれとかは、わかりませんでした。
秦氏との関係大ありなよう思えますね。


ちなみにこのブログのカテゴリー「古代史のミステリー」でこの記事は157番目です。
2008年10/16 に秦くんについて書きました。
私の古代史のミステリー原点でもあります。


もっとちゃんと、探求深めたい方は、
日本に秘められた謎を解く とかで