秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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ちんたくさん

2011-03-20 | 古代史のミステリー
お彼岸なので四天王寺さんへお参りにいきました。
あの近辺はお寺がいっぱいあるのでえらい人出でした。

毎月四天王寺さんへ月参りをしている店のEMIちゃんは、
去年秋から堀越神社にも行き始めたけど、なんかパワーありそうでいいとこですと話してたので、初めてよってみました。
なんとなく堀越学園を連想してミーハーな感じがしたけど、由緒正しい神社でした。

堀越神社は、天王寺区茶臼山町1-8に鎮座します。
大阪冬の陣で家康が本陣を構えた所でもあります。



画像ではわかりにくいけれど、鳥居前あたりの谷町筋がV字に窪んでます。
このへこみは奈良時代の治水工事跡だとのこと。
堀越神社で検索していて知りました。

かつて大和川は現在の大阪城あたりで淀川と合流し大阪湾へ流れよく洪水をおこした。
それで和気清麻呂は、上町台地を切り開いて大阪湾まで堀川を通し水はけを良くしようと計画した。
788年から工事がスタートし23万人もの人員を投入。
しかし地盤が強固だったため技術力や資金不足で失敗したそうだ。



国道25号線を挟んで対角線に四天王寺があります。
聖徳太子が四天王寺を建立した際に、堀越神社は四天王寺七宮のひとつの守護として同時に創建されました。



交通量の多い谷町筋に面しているのにとても静かです。
鳥居をくぐってすぐ右手に「ちんたくさん」が祀られています。
鎮宅さんて今日初めて知りました。

堀越神社の「太上神仙鎮宅霊符尊神」の説明文を転記します。

ちんたくさん 太上神仙七十二鎮宅霊符尊神
    (だじょうしんせんちんたくれいふそんじん)

お守りやお札の元祖の神様です。
紀元前、中国前漢の孝文帝の時代に広まり、
節分や七夕など星祭りはこの神様の家内安全、商売繁盛のお祭りです。

春の節分祭では星祭りをして屋敷の清め祓いをして星霊の種を撒きます。
七夕(旧暦)には星祭りを七日七夜行い、七月七日の結願の日に
大真西王母須勢理姫命をお招きして星霊の力により生命力の復活再生を希う繁昌祭を行います。

「鎮宅さん」と呼ばれる位ですから、家宅の鎮めはちんたくさんの神功の第一です。
加えて健康、家内の親和、家業の繁栄の為に、ちんたく修法は霊符、神符等を使って様々な神事、修法を行います。
神符には実に様々な効験が有り、玄武を神のよりしろに大司命神七十二神を始め、
いわゆるちんたくさんを招神じて暗中神符に入魂して実効の有る符に仕上げ発符します。
節分、七夕には大祭を催し各符を発符し、希望の崇敬者に授符致します。

 ………… …………

亀の神格化した「玄武」を寄りしろにしていたり、
大真西王母須勢理姫命って誰?でしょう。
西王母と日本神話の須勢理姫命を習合させた思想らしい。
道教の星辰の神々で、奈良朝陰陽寮で発符していた頃の流れを組みます。
鎮宅霊符神信仰は近世、関西地方を中心に全国的に広がった信仰でした。

陰陽道における天地創造の中心に位置する宇宙根源の神とされ
鎮宅霊符は陰陽道催行の護符とされています。

簡単にまとめられないので、
興味おありの方は →こちら なんかどうでしょう。



やしろ後ろのクスノキが樹齢550年の心霊の宿る樹です。
数度にわたる落雷や二度の火災にも耐え、昭和40年地下鉄谷町線の工事の関係で現在の場所に移転された時には天空に雲が掻き渡ったと当時の新聞でも紹介されています。



祭神は第三十二代 崇峻天皇
・小手姫皇后
・蜂子皇子
・錦代皇女


堀越神社の由来を神社サイトより転記します。

太子の叔父・崇峻天皇は名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申され、欽明天皇の第12皇子であり、御母は蘇我稲目の女小姉君。
587年、その英明さを以って、皇族はじめ朝廷の群臣に推されて即位。
当時懸案累積の国内、国外諸問題に力をつくされ、特に戦乱で荒廃した朝鮮半島、任那の復興に心をくばられた。
折しも蘇我氏の全盛時代であり、特に大臣の蘇我馬子の専横はなはだしく、帝は深く憂慮されて馬子を除こうとされたが、却って馬子の奸智にたけた反逆にあい倒れられた。
天皇のご長男、蜂子皇子は父君の事を深く悲しまれたが、権謀うずまく大和朝廷よりも、
当時としては遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、父君の霊を弔わんとされ、ひそかに大和を脱出して、北陸より海路出羽へ向われた。
すなわち今日、日本三大山嶽宗教の一つたる出羽三山の開祖はこの蜂子皇子である。
皇子は文字通り出羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇敬の中心となられた。
蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれている。
小手姫皇后もまた、夫君崇峻天皇の服喪の後、皇子の後を追って東北を目指され、
そして福島県小手郷堂平に安住の地を見出され、皇后時代より天才的といわれた養蚕の技術をその地の民人達に教え伝えられた。
福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、実にこの小手姫皇后のお陰とされるのもそのためである。

  ………… …………

福島原発で大変なことになっている川俣町
かつては「小手郷」と呼ばれていて、養蚕・機織りの祖「小手子姫」の名前に由来します。
川俣の地名も小手子姫の郷里、大和国の高市郡川俣の里にちなんで名付けられたという説もあるようです。

蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇を、ほんとに聖徳太子がお祀り出来たのか、不思議です。