城南宮に着いて真っ先に七草粥いただいて、次に椿餅買って、
神さまより、花より、団子です、未だに。
そしていよいよ参拝開始。
城南宮の東鳥居入って直ぐにある摂社の真幡寸神社から始めたのは、城南宮以前にあったと書いてあったのを見たから。
意味不明なタイトルも含め最後に説明させてもらうことにして、まずは城南宮みたまま。
参拝終えて帰る間際にはポツポツ雨が降りだしました。
着物姿の女性グループは皆さん雨ゴートお召しで、濡れては勿体無い上等の着物。
このあと、京都は高台寺あたりを散策した時に大勢の着物姿の観光客に出会いましたが、ペラッペラの合繊で寒くないのかなといらん心配したぐらい。
城南宮はどちらかといえば、観光客よりは地元のかたとか、遠出の方はマニアックな神社フリークとかが多い感じでした。
拝殿に七草が奉納されてありました。
城南宮の神紋は、日月星の三光紋。
瑞垣内にも境内社があり、ぜんぶご挨拶すませました。
神苑の梅はまだチラホラ、花をつけたこの木は早咲きの桜とかかもしれない。
まだこれからのようだったので、別途入場料払って入場せず、隙間から眺めただけ。
幕末の歴史とかざっと読んでると、明治天皇がこちらでお昼を召し上がられて記念碑があると書いてある。
見に行くと
またまた、真幡寸神社って彫ってある。
椿餅食べながら思い巡らして、過去にエントリーした記事が気になった。
伏見稲荷が祀られた稲荷山は元藤森神社が鎮座してて、今でも藤森神社の祭りの神輿が伏見稲荷の鳥居前まで来て土地返せというと、今神さん留守と答えるんだと。
その藤森神社は、真幡寸神社の地へ移動しところてん式に追いやられたと。
やがて、平安京ができて京の南の護りとして、真幡寸神社に城南宮が。
2012-01-04
おみくじ「凶後吉」
藤森に初参拝したのは鎮座地の移転の不思議を知ったから
追記:改めて読み返してみると、
2012-01-04 ミミーさんのコメントに
本殿横に、神功皇后ゆかりの大木の根を祭り、…
この古代の地図は以下記事で記録残してます。
2013-09-16
キーワードは、男山
昭和8年から16年ごろまで巨椋池だったのが干拓されて農地となり、今は全くその面影は残っていない。
未消化ながらこれが現実なので、そのまま受け入れるとしても…
忘れない内に画像だけ先にアップして、もうちょっと調べてまた追記させていただきます。
★追記
真幡寸神社
まはたき と読みますが、
寸(すん)を古代の文献では訓で「き」と呼ぶこともあるようです。
一寸(ひとき)とは、馬のたけを測る単位。
城南宮のサイトでは以下のように説明されています。
ご祭神 真幡寸大神、応神天皇
『日本紀略』弘仁7年(816年)7月21日条に「真幡寸神、官社の列に預る」と、また『延喜式』の神名帳にも記され、霊験あらたかで朝廷からお供え物があったことが知られます。
ご神紋が徳川家と同じ「三葉葵」であることから、江戸幕府より照会があり、由緒を奉行所に回答した文書が伝わります。
真幡寸大神と応神天皇をお祀りし、竹田地区の氏子の信仰が厚く、石の社号標や石灯籠が寄進されています。
ネット検索でいろいろヒットしましたが、
真幡寸大神で調べたら、
こちらのブログが一番わかりやすかったので、そのまま順番を変えて引用させてもらいます。
この旗塚は、藤森神社にあるそうです。
真幡木の幡は旗纛(はたおき)で、戦陣に将軍の標識として立てた旗。
神功皇后が三韓征伐の軍船に立てた御旗を真幡木里に納められたことを暗示する。
真幡寸神社の根源地である現在の藤森神社には、
太い木の株を祭った「旗塚」があり、真幡寸神社が藤森に鎮座していた時の遺跡である。
神功皇后が三韓征伐から凱旋した後、兵器を納めて軍旗を立てた塚と伝承される。
真幡寸神社の鎮座地は、
藤森神社の地→竹田駅西側の真幡木町→城南宮の境内
現在の近鉄京都線の竹田駅西側には真幡木町の地名が残り、もとは真幡木里と呼ばれた地区で、真幡木神社跡に若宮八幡宮が建つ。
古代に、当地一帯を勢力下においていた秦忌寸氏の氏神として、鳥羽郷真幡木里に祀ったのが始まりとされる。
真幡寸神社は山城国・紀伊郡・二座と記される式内小社