案の定、あかる姫を追いかけて夫はやってきたんです。
その伝説を 2011-4-9
渡辺党からミセスワタナベまで - 秋麗(あきうらら)
東北沖で巨大地震があってすぐに円高へすすみ、3月17日の早朝には一時76円25銭をつけ驚きました。この先どうなっていくんだろうという不安が日本中をおおいました。これって...
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ブログに書いてて、
その時に初めてあかる姫を知り記憶に刻まれたのでした。
天満橋あたりは、古代、渡辺津、または小江は新羅江(しらぎえ)ともいったようです。
新羅から天之日矛(アメノヒボコ)が、アカルヒメが逃げた地と聞いて追いかけてきた伝説の地です。
渡(わたり)の神が邪魔をして難波には入れず、
ぐるっと廻って但馬の国に行きましたとさというお話です。
リンク貼ってた、
を再読すると、
新羅王子天日槍が妻を追って難波まで来たが、
渡しの神(恐らく土地の豪族の神格化)に遮られて上陸出来なかった為に、
山城川(淀川)を遡って近江国へ行ったことになっているが、
この時彼らの分族がこの辺りに定着した為に新羅江という地名がつけられたのではなかっただろうか。
2011年にはアカルヒメとカタカナ表記してましたが、
それまで知らなかったあかる姫に興味湧く最初のきっかけでした。
難波古地図は、90度方位違ってるようでイマイチ?
でも渡辺津は今の大川の天満橋あたりということで、そこならわかる。
今にして、淀川河口の西淀川区姫島と地理的にどうなってるの?
調べてみて、なんと驚いたわ🫨
国土交通 淀川河川事務所
明治18年(1885年)淀川で未曾有の大洪水が発生し、
淀川の堤防が次々に決壊し、
これを契機に、近代治水工事のさきがけといえる淀川改良工事が始まり、
新淀川‼️
知らんかった〜
小中高の歴史で習ったことないと思う。
現代の今の淀川みてると過去の地形は全くわからない。
江戸時代ぐらいの地図だと、
この地図でも、どれが淀川本流か支流かもわからない。
豊臣秀吉が淀川左岸を整備し築造した文禄堤も示されてます。
そして、新大和川は元禄頃に付け替えられたのでした。
今の地形見てたら想像だにできません。
かすかに地名に名残り留めるぐらいでしょう。
またまたあかる姫と話はそれて余談ですが、
京都行く時巨椋池というとこ通りますが、今は平野で住宅街か田畑だったり。
昔、と言っても昭和の戦前まで大きな池だったそうなんです。
図書ボランティア行ってるさくら小学校は、
うちの子どもたちが通った三郷小と、隣の橋波小が統合したんです。
守口の小学校は統廃合により、さくら、さつき、よつば、、、
それ、どこやねん、歴史もへったくれもない。
というわけで、
まだまだ続きます(^_^)☆