浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】安富歩『ジャパン・イズ・バック』(明石書店)

2014-03-30 08:59:05 | 読書
 さらさらと読める。読んでいて、同感するところ多い。ある種のカタルシスとなる。あまりに現在に失望感をもっているから、こういう本をよむとすっとする。

 この本でなるほどと思ったことの一つ。

 「イッポンをトレモロす」である。安倍首相が先の衆議院選挙時に「ニッポンを取り戻す」と叫んでいたが、よくよく聞くと「イッポンをトレモロす」と聞こえるというのだ。ユーチューブで探して聞いてみたら、その通りだった。ボクは好意的に聞いていたわけだ。

 安富氏は「立場主義」というキーワードで日本の政治社会を読み解こうとするが、いまいちのれない。別に学術書ではないため、論が緻密ではないからだ。

 該博な知識を背景に、すらすらとかいている感じの文体である。だから読みやすい、ということは読み飛ばしてしまうということでもある。

 一方に反知性主義の、安倍首相をトップとする権力を掌握している一部の集団があり、他方に安富氏らの現在のありかたに疑問を持つ、豊かな教養をもった知性主義の人々、そしてその間にいる多数の非知性主義の国民。それが今の日本の状況ではないかと思う。

 いずれにしても、「知」というものが軽視されている時代だ。豊かな教養をもつ人間からは、現在の政治社会はこう見えるのだという、そういう本である。

 この本は図書館から借りた。
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袴田事件 『中日新聞』社説

2014-03-28 08:26:32 | 読書
 「冤罪は国家の犯罪」、まさにその通りである。連日の長時間の取り調べで精神的に追い込まれた袴田さんは「自供」。しかし、この長時間密室の取り調べが、常に冤罪発生の出発点であった。

 この袴田事件の場合、犯行時に使用したとされる服が、袴田さんがとても着られるものではなかった。それとて、捜査段階ではなく、袴田さんを犯人とする証拠が疑われるようになってから突然味噌タンクから「発見」されたものであった。まさに袴田事件は、最初から冤罪であることをみずから証明したような事件であった。しかし検察、裁判所は「死刑」とした。

 そして48年間、袴田さんを拘置所に閉じ込めた。これは「国家犯罪」以外、言いようがない。

 『中日新聞』社説を掲げる。

冤罪は国家の犯罪 袴田事件再審決定 

2014年3月28日

 裁判所が自ら言及した通り、「耐え難いほど正義に反する状況」である。捏造(ねつぞう)された証拠で死刑判決が確定したのか。速やかに裁判をやり直すべきだ。

 事件発生から一年二カ月後に工場のみそタンクから見つかった血痕の付いた衣類五点は、確定判決が、袴田巌さんを犯人と認定する上で最も重視した証拠だった。

 その衣類について、今回の静岡地裁決定は「後日捏造された疑いがある」と述べた。

 検察庁も裁判所も証拠の捏造を見抜けないまま死刑を宣告していたのであろうか。


「こちらが犯行着衣」

 絶対にあってはならないことであるが、死刑を言い渡した当の裁判所が、その疑いが極めて高くなったと認めたのである。ただならぬ事態と言わざるを得ない。

 そもそも、起訴の段階で犯行着衣とされたのは、血痕と油の付着したパジャマだった。

 ところが、一審公判の中でパジャマに関する鑑定の信用性に疑いがもたれるや、問題の衣類五点がみそタンクの中から突然見つかり、検察官は「こちらが真の犯行着衣である」と主張を変更した。

 袴田さんは、公判では起訴内容を否認したが、捜査段階で四十五通の自白調書が作られていた。毎日十二時間以上に及んだという厳しい取り調べの末に追い込まれた自白で、その内容は、日替わりで変遷していた。

 一審判決は、そのうち四十四通を、信用性も任意性もないとして証拠から排斥したが、残り一通の検察官作成の自白調書だけを証拠として採用し、問題の衣類五点を犯行着衣と認定して死刑を言い渡した。判決はそのまま高裁、最高裁を経て一九八〇年に確定した。この間、どれほどの吟味がなされたのか。

 この確定判決をおかしいと考えていたのは、再審を請求した弁護側だけではなかった。


新証拠の開示が鍵に

 一審で死刑判決を書いた元裁判官の熊本典道さん(76)は二〇〇七年、「自白に疑問を抱き無罪を主張したが、裁判官三人の合議で死刑が決まった」と告白している。

 「評議の秘密」を破ることは裁判官の職業倫理に反する暴挙だと批判されたが、この一件で、袴田事件に対する市民の疑念も決定的に深まったのではないか。

 第二次再審請求審では、弁護団の開示請求を受けて、裁判所が検察側に幾度も証拠開示を勧告。静岡地検は、これまで法廷に提出していなかった五点の衣類の発見時のカラー写真、その衣類のズボンを販売した会社の役員の供述調書、取り調べの録音テープなど六百点の新証拠を開示した。その一部が再審の扉を開く鍵になった。

 これまでの再審請求事件では、捜査当局が集めた証拠の開示、非開示は検察の判断に委ねられたままで、言い換えれば、検察側は自分たちに都合のよい証拠しか出してこなかったともいえる。弁護側から見れば、隠されたことと同じだ。今回の請求審では、証拠開示の重要性があらためて証明されたといっていい。

 そもそもが、公権力が公費を使って集めた証拠である。真相解明には、検察側の手持ち証拠が全面開示されてしかるべきだろう。

 柔道二段で体格もよい被害者を襲う腕力があるのは、元プロボクサーの彼以外にない…。従業員だから給料支給日で現金があることを知っている…。袴田さんは、いわゆる見込み捜査で犯人に仕立てられた。一カ月余り尾行され、逮捕後は、時に水も与えられない取り調べで「自白」に追い込まれる。典型的な冤罪(えんざい)の構図である。無理な捜査は証拠捏造につながりやすい。

 冤罪であれば、警察、検察庁、裁判所、すべてが誤りを犯したことになる。真犯人を取り逃がした上、ぬれぎぬを着せられた人物の一生を破滅に追い込む。被害者側は真相を知り得ない。冤罪とは国家の犯罪である。

 市民の常識、良識を事実認定や量刑に反映させる裁判員裁判の時代にある。誤判につながるような制度の欠陥、弱点は皆無にする必要がある。


検察は即時抗告やめよ

 司法の判断が二転三転した名張毒ぶどう酒事件を含め、日弁連が再審請求を支援している重要事件だけでも袴田事件以外に八件。証拠開示を徹底するなら、有罪認定が揺らぐケースはほかにもあるのではないか。

 冤罪は、古い事件に限らない。今も起きうることは、やはり証拠捏造が明らかになった村木厚子さんの事件などが示している。

 袴田さんの拘置停止にまで踏み込んだ今決定は、地裁が無罪を確信したことを意味している。

 検察は即時抗告することなく、速やかに再審は開始されるべきである。
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ナショナリズム論の出発

2014-03-26 15:25:47 | 読書
 浦和レッズのサポーターが「日本人以外お断り」を意味する英字の垂れ幕をはり、それを浦和レッズが試合が終わるまではずさなかったことから、サッカー協会から処分が下されたことは周知のことであろう。

 この件にみられるように、ナショナリズムの動きが各所で顕在化してきている。

 戦後に於けるナショナリズムの問題について、杉山光信「戦後ナショナリズム論の一側面」(『戦後日本の精神史』岩波書店、2001年)を読んだ。

 杉山は、「ナショナルなもの」が、「突如として、政治の前面にあらわれた」として、1985年軽井沢で開かれた自民党のセミナーでの、当時の中曽根康弘首相の講演をあげている。

 ボクも、新自由主義の動き(「国鉄改革」など)、日米関係の変質、その起点を中曽根内閣においているが、「ナショナルなもの」への着目はしてこなかった。中曽根はこの時期が「ひとつの転換期」であるとして、「すでに大国になっている日本が国際国家となり、大国らしい責任と役割を果たすこと、そのためにナショナル・アイデンティティを確立する」というような内容を話したらしい。

 そのために内閣総理大臣の権限を強化するという動き、これを「執政府政治」というようだが、その方向に動き始めた。「執政府政治」とは、「支持基盤たる階層や集団の利益のみを追いかけ、利益集団間の利害調整のみにあけくれしている議会政治や党内政治をこえる」ような「政治的リーダーシップの確立」ということになる。これが後の「政治改革」へと「発展」していき、現在の政治状況になる。

 制度的な問題はさておき、「ナショナルなもの」は政治の分野だけではなく、文芸評論などの方面にも、でてきたとし、その代表として江藤淳をあげる。江藤は、「民族の記憶」、「自分の物語」などを強調したらしい。らしい、というのは、ボクが江藤の本を読んでいないからだ。

 杉山は、その後、丸山真男の研究をもとにして、近世(山崎闇斎とその学派)、明治期のナショナルなものに言及した後、その「ナショナルなもの」の特質としての「国の特殊主義」をあげる。これは丸山が明らかにしたものだが、本来これは打破されるべきものであった。

 而して、戦後日本の「ナショナルなもの」は、どうしても「従属ナショナリズム」にしかなり得ない。その意味ではナショナル・アイデンティティの確立は困難を伴う、という。そして、日本でナショナル・クライシスが起きた時に出現してくるのは、「集団所属主義」であろうと予測する。そしてその「全体を統合する」強力なシンボルとして「天皇」をもってくる。

 しかし、この末尾、どうも自信がなさそうな書きぶりだ。途中まで順調にきたものは、急にここで失速する。

 しかし、丸山の研究についての言及は、とても参考になった。


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【本】安丸良夫『〈方法〉としての思想史』(校倉書房)

2014-03-25 21:00:29 | 読書
 17年前に出版された本だ。読まれないままにボクの書庫で眠っていた。

 ボクが歴史を学び始めた頃、ボクは色川大吉さんの本にいつも感動させられていた。色川さんの本には、情熱がこめられていた。もちろん歴史の本であるから、そこには歴史上の人物(教科書に出てくるような有名人ではない)が記されているのだが、描かれていた人々はその時代の壁を乗り越えようとする、しかしそれができない、できないけれどもとにかくその時代の壁に挑んでいく、その姿勢に、ボクは心を動かされた。おそらくそれは、色川さんの生き方でもあっただろう。

 色川さんの研究分野は、「民衆思想史」とよばれた。この頃、こうした「民衆思想史」の研究をはじめた人が何人かいた。色川さん、鹿野政直さん、そして安丸良夫さん。もうひとりこの人をあげていかなければならない、ひろたまさきさん。ひろたさんにはいろいろお世話になっているから、であるが、しかし「民衆思想史」というと、色川、鹿野、安丸の三人があげられるのが一般的だ。ひろたさんがその分野で研究業績をあげるのは、すこし後になる。

 しかし3人とも、同じように「民衆思想」を研究対象にするが、その方法は異なる。本書は、その方法の違いを、安丸さんなりにまとめる、というのが、第一部の主な内容である。

 もっとも感性に訴えてくるのが色川さん、次に鹿野さん、そして安丸さん、である。今でも色川さんの『明治精神史』、『明治の文化』などはぐっとくる。

 最近はそうした民衆の思想についての研究はなされていないように思える。歴史研究の対象は、その時代のあり方から大きく規定されるから、今の時代には民衆は着目されないのだ。

 第二部は「状況への発言」。歴史を研究する者は、生きている時代の歴史に責任を感じなければならないとは、遠山茂樹さんはじめ戦後歴史学の方々から聞かされたことばだ。安丸さんはじめ三人の方々は全員、生きているこの時代に対してきちんとした発言を行っている。つまり責任を感じている。もちろんひろたさんも、である。

 本書に記されている安丸さんの発言を紹介することはしないが、一つだけ印象に残ったことを記しておきたい。

 ウォーラーステインの『脱=社会科学』(藤原書店)の内容を紹介しているところで(この本、持ってはいるが読んではいない)、「古典的自由主義も古典的マルクス主義も、資本主義は独占を排して自由な競争市場をもたらすのが本来の形だと考えがちだが、それは正しくない、資本主義は自由市場であるよりもむしろ独占と投機だ」という見解を知って、「無学な私の虚をつ」かれた、と記している。

 ボクも現代の「帝国」について勉強もしているので、なるほどと納得させられた。『脱=社会科学』も読まなければいけない。
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過ち

2014-03-24 13:43:26 | 読書
 昨日読み終えた子安宣邦の『近代知のアルケオロジー』の最終章は、「書かれたものと書きえぬもの」である。

 子安は、広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」を問題にする。

 そこにある「過ち」とは、「誰によるどのような過ちなのか」、それが明確でない碑文に、子安は「もやもやとした思い」を抱く。

 そして原爆資料館の展示について、以下のような印象を持つ。

 「ここには戦争をもたらし、戦争の終結を遅らせ、無残にして大量の死を国内外にもたらした日本の軍部と戦前・戦時権力への告発も追及もない。また他方、核兵器を開発し、使用し、そしてなおその開発と独占的保持とを基本戦略としているような大国による国際政治への批判的分析と告発とを、ここをセンターとして展開させねばならぬという責任の自覚もない」。「重大な過去をめぐる生者のかかわりのいっさいを解消させてしまっている」。

 その印象に、ボクは同調する。なぜそうなのか。

 日本という国家は、戦争という政治的社会現象も自然現象と同じように、人智の及ばないものだという諦観というか、認識があるのではないかと思う。

 台風も戦争も、どこからかやってきて、その渦のなかに人々は巻き込まれる、そしてそのなかで多大な犠牲を生み出しながら、台風も戦争もいずれは去って行く。去って行くことにより終わる。台風も戦争も、誰かが始めたものではない、ただ歴史という流れのなかから、どこからかやってきて、そしてどこかへと去って行くものでしかないのだ。

 自然現象と同じなのであるから、誰かに責任があるわけではない。だけど、こういうことが起こりました、犠牲者がでましたということだけは展示する。

 誰にも責任はないのである。だから告発もしないし、追及もしない。

 人々は、歴史はつくるものではなく、歴史とはその流れのなかに身を任すものであって、それ以外ではないと思っているのだ。

 だから「過ち」がどういうものなのかを問うことはない。おそらく理解もしない。「過ち」を繰り返してはならないのは、少なくとも自分ではない。

 
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【本】子安宣邦『近代知のアルケオロジー』(岩波書店)

2014-03-23 21:20:19 | 読書
 何ごとかを記すという行為は、それ以前に書く人間の思考過程を経ている。その思考の対象となる事物・事象をどう捉えるかは、その人間の主体性にかかっている。何ごとかを研究する、思考する、叙述するというとき、そこにはそれを行う主体の“眼差し”というものがある。その“眼差し”は、主体的であるが故に、他者のそれとまったく同一ということはありえない。

 一つの何ごとかを、別々の人間が研究し、思考し、叙述するとき、そこで記されたものは同一ではない。そこにそれぞれの主体性が関わってくるからだ。

 本書で、子安氏は、その“眼差し”を問う。まず俎上にあげられたのが柳田国男である。ボクは民俗学は、学問ではないと思っている一人である(確実にもう一人そう考えている人がいる。彼は町田市に住んでいる)が、柳田の民俗学が、「新国学」であり、「平民の生活」を調査することにより、「国民」を立ち上げようとする営みであることを指摘する。なぜか民俗学は歴史学より人気があるのだが、ボクは柳田の視線をどうのこうのという以前に、その方法のあまりに表面的であることに辟易したことがあるので、子安氏の内在的批判に賛同する。

 次に内藤湖南や津田左右吉による「支那学」が検討される。子安氏は彼らの学問に入り込んでいる中国を蔑視する、いわば「帝国意識」(子安氏はこのことばはつかってはいない)をえぐり出す。

 そして「国語」と「日本語」について、日本近代と日本帝国主義が生み出す齟齬を指摘し、戦時中の京都学派の「世界史的立場と日本」における議論をとりだし、その言説に竹内好を対置し、教科書検定や本多勝一の『中国の旅』などをもとに、「日本人の反省的な自己への視点」の欠如を指摘する。

 子安氏の本は、知的で刺激的ではあるが、くり返しの説明が多く、饒舌である。饒舌は苦手だ。
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歴史に学ぶということ

2014-03-22 08:53:15 | 読書
 このブログで何度かウクライナに関する記事を紹介し、また書いてきた。ほとんどのマスメディアがロシア攻撃をし、ファシストに牛耳られたウクライナ政権を支持するような報道を行っている。

 しかしこのメディア攻勢には既視感がある。旧ユーゴの分裂に伴う民族間の激しい対立のことを思い出すからだ。

 書庫から一冊の本を持ち出してきた。木村元彦『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(集英社新書)である。2005年の刊行である。この本は、セルビアの自治州であったコソボの事態を描いている。2008年、コソボはみずから独立を宣言し、今では独立国とされている。この本では「セルビア・モンテネグロ」とあるが、2006年にセルビアとモンテネグロが分離・独立している。そのセルビアという主権国家からコソボが「独立」をするのだが、このときアメリカやNATO諸国はそれを助けた。

 ウクライナという主権国家からクリミアが独立する、ということを、アメリカやEUは本来なら非難できないはずだ。彼らが最初にやったことだからだ。しかしマスメディアは、健忘症なのかこの点に触れない。まったく歴史から学んでいない。

 ここであった構図はこうだ。まず徹底的にセルビア人が「悪者」とされる。ウクライナ問題ではロシアだ。なぜセルビアは「悪者」とされるか。それはアメリカが「悪者」と“命名”し、西側諸国がそれに従ったからだ。今回も同じだ。

 ボクは旧ユーゴスラヴィアの解体の背後に、アメリカの存在があったと思っているが、それはさておいて、コソボについて記す。

 コソボには、セルビア正教会系のセルビア人、ムスリムのアルバニア人などがいた。人口的には後者が多い。アルバニア人らは1980年代からKLA(コソボ解放軍)として活動を始めた。極右の民族主義者が多いKLAに対してアルカーイダのビン・ラディンは彼らに軍事訓練を施した。同じムスリムだからだ。だから当初、アメリカはKLAを「テロリスト集団」としていたのだが、1990年代末期、アメリカの伝統的な考え方、すなわち「敵の敵は味方」という「論理」からKLAを育成し始めた。KLAは、アメリカがつくったといってよい。

 ついでに言っておけば、アフガンのビン・ラディンらアルカーイダを育成したのもアメリカのCIAであった。アメリカが育てたテロ集団が、後にアメリカに刃向かうようになることを「CIAブローバック(blowback)」という。

 1990年代後半から、KLAはコソボに住むセルビア人への無差別テロを始めた。その資金源として彼らは麻薬を製造販売した。まさに無法者集団であった。当時のユーゴスラヴィア連邦政府はそうしたテロ集団にたいする掃討作戦を行った。こうして「戦闘」が激化していった。そのなかで、一般のアルバニア人が迫害され、また殺害されることもあった。

 ユーゴスラヴィア連邦によるコソボ在住のアルバニア人迫害が世界的に報道され、世界の世論はKLAを支えるようになった。そして1999年3月、アメリカをはじめとするNATO軍による空爆が始まった。その際、ベオグラードの中国大使館が「誤爆」されたことを記憶している人もいるだろう。その空爆中、コソボのセルビア人がアルバニア系の人々を襲い、焼き払い、虐殺を行った。空爆が、コソボの混乱をさらにさらに激化させ、民族対立を民族間の「憎悪」に変えたのだ。

 空爆が開始される前、アメリカやNATOは、次の要求を当時のミロシェビッチ大統領に提出した。「NATO軍がユーゴ全域での演習や作戦行動をする自由を与え、訴追や課税を免れる治外法権を認める」というものだ。まさにユーゴスラヴィアを従属化する内容であった。拒否するであろうことを予測した要求であった。ミロシェビッチ大統領はこれを拒否、そして空爆が開始された。

 空爆が終わったには、6月のことだ。コソボからユーゴ軍が撤退していった。ここからKLAはじめ、偏狭なアルバニア民族主義者によるセルビア人に対するテロが始まる。3000人が拉致され、おそらく殺された。コソボからセルビア人が難民となって出て行った。その数20万人。

 アルバニア系住民も、セルビア系住民も、今となってはどうすることもできないが、あの空爆さえなかったら、と語る。空爆が、庶民の間での民族間憎悪をつくりだしたのだ。

 メディアは、セルビア人「悪者」説を普及させた。その影響は今も続き、コソボにかつて住み、家族を拉致された人々は難民としてセルビアにいるが、国際的な援助もなく、セルビア政府も、国際的な動きを配慮して助けない。だからきわめて厳しい状況に置かれている。

 KLAと同じような集団が、ウクライナで動いている。KLAと同じような偏狭な民族主義者でファシストだ。彼らを、またもやアメリカやEUが支援している。

 ここでも、民族間の憎悪を激化させようとしている。ロシア人もウクライナ人もタタール人も共存して生活していた。そこに楔をうつのが、ファシストなど極右集団だ。その裂け目をさらに大きくするべく、アメリカのCIAや欧米諸国が動き始める。 

 コソボに米軍基地があるように、ウクライナがロシアと手を切ったあと、ウクライナに米軍基地がつくられるだろう。

 「支配したい地域の名前に解放軍とつけて拡張テロ活動している武装集団を、なぜ国際社会は見逃すのか」という文言があった(105頁)。

 その答えをボクは記す。アメリカがそうしたいからだ。
 
 歴史は、みずからの歴史のなかに教訓を残す。その教訓を導き出さなければならない。人々が歴史を忘れる時、同じような事態がつくりだされる。そのとき、人々は振り返らなければならないのである。

   
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悪税が増税される(2)

2014-03-21 08:32:32 | 読書
 増税される消費税、この税には大きな問題がある。今回はその一つを指摘したい。国民は、消費税を間接税だと思っているが、実はそうではない。消費税は間接税ではない、ということをまず指摘しなければならない。

 そうはいっても、国民がそう思うのには理由がある。政府はこう説明しているからだ。

「消費税はモノやサービスにかかる間接税であり、次々と転嫁し最終的に消費者が負担する税金である」

しかし、消費税は、価格に転嫁しなければならない間接税ではない。価格決定権は事業者にあるのだ。国民は、内税の場合価格の5%の消費税が支払うカネのなかに入っている、あるいは外税の場合は価格のほかに5%を支払う。しかし、事実はそうではない。

 たとえば現行の郵便切手。封筒は80円切手を貼る。その80円のなかには5%の消費税が入っているという。となると、80円切手、税抜きでは76・19円となる。それが今度消費税が8%となるわけだが、そうすると82・285円とならなければならない。しかし日本郵便は82円とする。50円切手も税抜き価格は47・619円、8%になれば、51・428円となるわけだが、日本郵便は52円とする。 
 
 つまり、税込み価格を日本郵便が決定しているわけだ

 これは、JRの運賃も同様だ。税込み価格はJRが決定する。すべて同様である。ボクたちはものやサービスを販売している事業者が決めた消費税額を払っているのだ。

 消費税法には根本的な問題がある。消費税の納税義務者は事業者であるという規定はあるが、税を負担する者(担税者)の規定はないのだ。だからボクら消費者には、税を負担する義務はないのである。

 また事業者には、消費税分を価格に転嫁する義務づけ規定もない。ということは、事業者は、それぞれが勝手に「消費税分を価格に転嫁している」のである。

 現行の制度はこうなっている。事業者は、以下のような額を消費税として納入する。

   年間売上高の5%―年間仕入高の5%=消費税

年間税額を決定するのは事業者であって、事業者が自己の責任において年間税額を計算するのであって、一個一個のモノやサービスにかかった税金を集めて納める仕組みではない。

つまり、消費者が税金だと思って負担している消費税分は、実は税金ではなく、モノやサービスの価格の一部であって、事業者は消費者から消費税を預かっているわけではないのである。

 その証拠に、東京地裁の判決(2000年3月26日)には、「消費者が事業者に対して支払う消費税分はあくまで商品や薬務の提供に対する対価の一部としての性格しか有しないから、事業者が、当該消費税分につき過不足なく国庫に納付する義務を、消費者に対する関係で負うものではない。」とあり、政府もこれを了承している。

 だから消費税として払った金額が、そのまま「消費税」として事業者を通して納めているわけではないのだ。

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深い思想と柔い思想

2014-03-14 17:23:59 | 読書
 ボクは、緒方正人という人を知らなかった。

 今日『週刊金曜日』が届いた。そのなかに「水俣と東北」という対談があった。それを読んで、水俣の漁師・緒方さんの思想を知った。とてもとても深い思想だと思った。

 緒方さんは、「大事なのは自治の精神」だといって、こういう。

 先祖代々ここに生まれ、ここに育ち、暮らしてきた。その連続性を自覚して、その地の山や川や畑や海、自然界のなかの生命の一種として存在するということが自治の基本でしょう。その自治の精神が脅かされ、ズタズタにされている。

 これは水俣のことでもあり、また福島のことでもあり、また浜松のことでもある。人はそのような「自然界のなかの生命の一種」であるという認識、おそらく心の深層にはその記憶はあるのかもしれないが、それをほとんど意識していない。だから、自然が壊れても、壊されても、気にしないのだ。

 緒方さんの「共苦」ということばに、ボクはたじろいでしまう。緒方さんは「汚染された魚をとって食べ続けて」きたというのだ。その理由:

 山も川も他の生き物たちも人間がつくった文明に苦しんでいる。ここで人間だけが逃げるわけにはいかないでしょう。なにも自ら進んで病気になるということではないんだけれども、そこに長い縁があれば、逆説的な意味で、救いになる。魚を食べ続けるということは全幅の信の表れなんです。海を恨んでいないということの表れ・・・・

 ボクはここのくだりを読んできて、「うーん」とうなってしまった。ボクは今、太平洋側で獲れた魚は食べないようにしている。そのボクにとって、緒方さんの「汚染された魚を食べ」るという行為は驚異であり、さらにそれが深い思想にもとづくものであることに二重に驚いたのだ。

 放射能汚染水が垂れ流されている福島の海の魚たちには、人間がどう見えるか、海にはどう映るか。・・・彼らには私たちが(東電などとー引用者注)共犯関係に見えるのではないか。

 緒方さんの父は、チッソに殺された。当然、チッソに対する怒りが湧き起こる。だが緒方さんは気づいた、「生き物の世界が壊された」のだと。だとすると、生き物の世界を壊したことについて、同じである。だから「チッソは私であった」と思う。

 ボクの精神にググッと突き刺さることばの群れ。

 緒方さんは『常世の舟を漕ぎて』(世織書房)、『チッソは私であった』(葦書房)を著している。ボクは、読んでみたいと思った。まだまだボクの思想は柔い。

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【本】『21世紀を生き抜くためのブックガイド』(河出書房新社)

2014-03-13 23:50:45 | 読書
 「こんな時代になるとは思わなかった」、「この現実、どうしたらいいのでしょうねえ」という声が、ボクの周辺でよく語られる。

 ボクも、実は同様な感想を抱いている。しかし、そういう声を発するだけで、その地点に止まっていることは出来ない。ボクにそう語りかける人は、最初の声に対しては、「でもね・・・・」というボクの回答を期待しているのだし、後者の声に対しては、「・・・・していけば少しはよくなるのでは・・」という前向きの発言を期待しているのだ。

 そういう期待にどう応えるか。もちろんボク自身は、できうる限りの機会を利用して、現実を押し流そうとする「時流」に抗するために、その力がたとえ微々たるものであるにしても、ボクが生きる「現場」でボクなりに頑張ってはいるのだ。“日本近代史に於ける「国学」”というテーマでの講座についても、ボクの念頭にあるのはこの「現実」である。この「現実」を解き明かし、少しでも明るい未来にしたいという願望を持ってその準備をしている。

 さて、表題に掲げた本を、図書館から借りてきた。検索していたら、この本が出てきたので借りてみたのだ。この本は、『週刊読書人』という書評紙で、本橋哲也氏と岩崎稔氏、そしてゲストとして各界の知識人を呼んで対談し、その年に発売された本のなかから有益であった本の紹介をするというものだ。

 副題には「新自由主義とナショナリズムに抗して」とある。確かに紹介された本は、そうした指向性をもった本がほとんどだ。読んだ本もあるが、多くは読んでいない。

 そこに紹介されている本は、この現実に知的にどう対処していくべきかを考えたものが多い。紹介文を読んでいて、この問題についてはこういう論点を主張しているのか、あるいは全く知らなかったとか、知的に刺激されると同時に、現実との緊張感をもった本が、これほど多く出版されていることに驚く。

 このうち読みたい本をピックアップして手帳に書き記したが、はたして読めるかどうかわからない。だが、これほどの知識人が、現実と切り結びながら、それをどうしていくべきかを考えているということに安心感をもった。

 書店に行くと、ひどい本ばかりが積まれているが、それとはまったく異なる指向を持った人は多くはないが、しかし少なくもない、という感じをもった。

 ボクもしっかり勉強をして、未来への展望を見いだしたいと思う。そして勉強した成果を、より多くの人に語り続けるのだ。

 冒頭に記した声が、ボクの回答を待っている。

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【本】ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきヒトラー』下巻(河出書房新社)

2014-03-10 10:41:27 | 読書
 今日は寒い日だ。ボクの足下には、寒気が渦巻いているようだ。今年の冬は、春の声が聞かれるようになっても、寒気は何度もやってくる。

 しかし世界史に於けるヒトラーは一度だけでたくさんだ。ヒトラーは、その狂気によって、ドイツ国民の支持を取り付け、それを背景に己の死の野望に向かってまっしぐらに進み、その過程で多くの人を死に至らしめた。狂気は、一度だけでたくさんだ。

 さて本書は、ドイツでかなり売れたという。どういうふうにドイツ国民は読んだのだろうか。

 現在のドイツに、1945年に死んだヒトラーが忽然と登場した。ヒトラーは、昔のままだ。何ら変わっていない。何ら変わっていないヒトラーが、テレビに出演し、各所に出没し、そして市井の人々からサインをせがまれるようになる。

 いったいこの小説は何をいわんとしているのか。

 ※そういう問いをたてることが出来るような小説、あるいは戯曲を、本当はボクは好きなのだ。読み終わって読んだ人が軒並み同じような感想をもつようなフィクションは面白くはない。

 ひとつ。21世紀の現在にヒトラーが現れても、その存在が異次元の存在ではなく、現在にも生きていくことが出来るのだということを示したかった。

 もうひとつ。ヒトラーの目を借りて、現在のドイツ社会を風刺したかった。

 そしてもう一つ。現在のドイツ人が、ヒトラーを受け入れることができるかをチェックしようとした。

 少なくとも、この小説はヒトラー批判ではない。批判的な箇所はおそらく二つ。ひとつは全編でヒトラーが独善的な性格であったことを示していること、もうひとつは彼の秘書になった女性の祖母のナチ体験が赤裸々に語られ、ヒトラーにその事実が突きつけられ、彼を困惑させたこと。

 それ以外にヒトラー批判はない。否定すべき存在としてのヒトラーは描かれていないのだ。
 
 滑稽なこととしては、このヒトラー氏、ネオナチに襲撃されたことだ。

 いずれにしても、著者が何故にこうした小説を著したのかはよくわからない、ということだ。

 なお、訳は素晴らしい。ヒトラー氏の発言、心の内の動きを表す文は、まったくそれらしいのだ。

 さっと読める。時に笑いながら・・・しかしその笑いは、ひょっとしたらそうすべきではないということなのかもしれない。
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【本】ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきヒトラー』上巻(河出書房新社)

2014-03-09 21:55:30 | 読書
 『週刊金曜日』の読書欄で見つけて読みたくなった。浜松市図書館にアクセスしたら購入されていたので、借りてみた。

 原題は、「彼はまたそこにいる」(Er ist wieder da.)という意味だ。

 読みやすく、肩の凝らない内容である。1945年にこの世から消えたヒトラーが2011年によみがえるのだ。フクシマの原発事故への言及があるから、3月以降である。彼が実際生きていた時代には、もちろんコンピュータもないし、ケータイもない。しかしこの本では、彼はそれを使う。

 時に面白く、ゲラゲラと笑う。いまだ上巻だけなので、この本がいかなる意味を伝えようとしているかはわからない。

 次は下巻である。読み終わったら、また書こう。まあまあ面白い。
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【本】猪野健治『やくざ・右翼取材事始め』(平凡社)

2014-03-09 16:50:02 | 読書
 やくざを調べることは、差別を考えることになる。猪野が言うように、「権力、支配層の側にある厳然たる差別がやくざを生み出している」からだ。

 しかし今、やくざは、暴力団排除条例などにより、壁際にまで追い詰められている。差別をなくさないままに、やくざを排除していけば、差別された者たちはいったいどこへ行くのか、ということを考えさせられる。

 そして右翼。右翼は支配権力のどこかと結びつきながら、様々なかたちで政財界、社会に影響を与えている。支配権力と結びつくことにより右翼は影響力を持つが故に、支配権力の意思は、同時に右翼の意思でもある。

 現在の支配権力は、「親米反共路線」であり、したがって右翼も「親米反共路線」である。日本がアメリカという国家に、属国のような、あるいは植民地のような扱いを受けていても、右翼は怒らない。

 ただ、あの安倍首相のお友だちである長谷川某という右翼オバサン、野村秋介を偲ぶ本に、朝日新聞社内での自死を褒め称えるようなことを記していたが、野村は日本の右翼の親米反共的なあり方に疑問を持っていたそうだ。ひょっとしたら、そうした文を寄られたことに、野村は墓の中でやめてくれ!と言っているかも知れない。

 ボクは野村秋介が書いた本を図書館から借りてきているが、右翼の中にもいろいろいるようだ。「日本神話」と、それをもとにした「国学」が、戦後日本にどのように生きているのかを考えながら講座の準備をしている。

 今読んでいる中島岳志の『血盟団事件』は、煩悶する青年のある種の生き方を考える上でとても参考になる。

 本書は、猪野がどのようにして右翼ややくざの取材を始めたか、その取材のなかでどういうことを知ったのかが、わかりやすく書かれている。

 軽い本である。書庫に収める必要はないような本ではある。
 
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【本】瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社現代新書)

2014-03-08 09:04:22 | 読書
 著者は、裁判官を退官して、現在は明治大学法科大学院に勤める。本書は裁判所に対する体験に基づいた批判の書である。

 この本を読むと、民事訴訟はしないほうがよいという結論になる。なぜかというと、裁判官は真剣に事案に取り組まないからだ。庶民が民事裁判に関わることは一生に一回もない。だからこそ、庶民は裁判官に期待する。だが裁判官はそうではない。本書を読むと、良心的な裁判官はほとんどいないようだ。

 「和解の強要、押し付けも、日本の民事裁判に特徴的な、大きな問題である」(133)とある。なぜ裁判官は和解を押し付けるかというと、まず「早く事件を「処理」したい」からであり、「判決を書きたくない」からだという。今民事の裁判官は、とにかくスピーディーに事件を処理していくことに邁進するようなのだ。

 裁判官の最大の関心は「昇進」。その世界で「昇進」するためには、徹頭徹尾“ヒラ目”でないといけない。裁判そのものについては、「事なかれ主義」で処理しながら、上部からの指示にひたすら従っていくのだ。特にこの傾向がでてきたのは2000年頃。それ以降、裁判官の人格的・能力的な低下が著しいようだ。その理由として、著者は三点を挙げる。ひとつは「裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だから」、二つ目、「裁判官が期を中心として切り分けられ、競争させられる集団の一員だから」、三つ目、「全国にまたがる裁判官の転勤システムのため」。「期」というのは、年齢に違いがあっても、司法試験に合格し司法修習生となったその年を「期」としてそれが法曹に携わる者の一種の区分けとなっているのだ。

 確かに、弁護士という独立した職業は別として、裁判官や検察官の世界は孤立していて、他の人間たちとの交流もあまりないままにその世界だけで生きていくことになると、みずからの「生の証し」は、自分が出世階段のどこに位置しているのかになってしまう。この著者の場合は、多方面に関心を抱き、特に民事訴訟法などの研究を行い、学会でも評価を得ているから、狭い世界での「昇進」に血道を上げる必要がなかったのである。しかしこれはどこの世界でも同じで、狭い世界だけで生きていると、いきおい「昇進」に目が行ってしまうのは避けられない。要は、自分の主要な仕事以外に、それを相対化できるものを持つことなのだ。

 裁判官は、最高裁の事務総局系の者が出世し、最高裁判所の裁判官は皆そうだという。要はヒラ目で生きていた裁判官が、最後のご褒美としてその地位に昇る。その地位にふさわしい人物というのではなく就任しているから、ろくな判決もでてこない。

 そして裁判官の世界は、裁判官そのものの「収容所群島」らしいから、裁判所は恃むことが出来ないところであると結論できる。良識ある裁判官は生き延びることがきわめて難しい世界のようだ。

 そして最高権力者である最高裁判所長官(支配権力のトップのひとり)の意向が下方に向かって伝えられ、上意下達の強固な権力機構となっている。これは戦前から変わっていないようだ。そういえば、戦後の民主的な改革は、裁判所内部には入り込まなかった。戦後処理のまずさが、現在の日本を呪縛する。

 だから日本の裁判所は「「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」という意味では、非常に、「模範的」」なのだ。

 
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2014-03-07 13:32:44 | 読書
 三冊の本が届いた。『幕末の天皇』(講談社学術文庫)、『レイシズム/スタディーズ序説』(以文社)、『絶望の裁判所』(講談社現代新書)である。まったく相互に関連のないものだ。

 最初の本は、「近代日本に於ける「国学」」という講座の準備のために読むもの。『レイシズム・・・』は、昨今の在特会の動きや社会の各所に現れでるレイシズム的な動向を理解するため、最後は、法学部卒というボクの経歴が買わせたもの。

 最後の『絶望の裁判所』の「はしがき」を読んでいたら、「(日本の裁判所は)「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」という意味では、非常に「模範的」な裁判所なのである」とあった。著者は元裁判官。経歴を見ると、勝手にエリートコースに乗せられていたようで、それがいやで仕方がなかったという、珍しい良心の持ち主だ。

 この本は、日本の裁判所の実態や機能が、内部から見た目で解剖されているようだ。読み終わったら報告しよう。

 ところで大学時代、ボクのサークルから裁判官になったS君は、どうしているだろうか。
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