朝日新聞は、現在、支配権力の一角に大きな位置を占めるまでになっている。朝日の社説をはじめ、その内容は現在の支配権力の宣伝機関と化している。
だからといって、朝日の記者のすべてがダメということではない。中には、ジャーナリズムの精神、つまり批判的精神のことであるが、をもって、記事を書き続ける者もいる。
外岡秀俊は、そのなかのひとりである。
本書も、副題の通り、「国家」のあり方を俎上にあげている。第三章の「「帝国」はいま」において、「大日本帝国」について、それが「虚妄」であり、「敗戦の蓋をあけてみれば、そこには虚ろな形式だけしかなかった」と鋭い批判を浴びせている。島尾敏雄の小説を例にして、「「虚妄」の支配に対して、人は「虚構」で立ち向かうほかない」として、現在もその「虚妄」が存続していることを示唆する。
家父長主義、あるいは温情主義としてのパターナリズムは、「何の情報も与えず、その結果の責任をとらないという体制において」、「権威を維持するための支配原理となる」と外岡は指摘しているが、権威だけではなく利権も含まれているだろう。権威は利権と一体化しているはずだ。
この本は、震災と原発とを古今東西の文学と関連させて論じていくというものだが、随所に外岡の批判的精神が散りばめられていて、考えさせられる内容となっている。
詳細な報告は記さないが、読むべき本の一つであることは間違いない。
だからといって、朝日の記者のすべてがダメということではない。中には、ジャーナリズムの精神、つまり批判的精神のことであるが、をもって、記事を書き続ける者もいる。
外岡秀俊は、そのなかのひとりである。
本書も、副題の通り、「国家」のあり方を俎上にあげている。第三章の「「帝国」はいま」において、「大日本帝国」について、それが「虚妄」であり、「敗戦の蓋をあけてみれば、そこには虚ろな形式だけしかなかった」と鋭い批判を浴びせている。島尾敏雄の小説を例にして、「「虚妄」の支配に対して、人は「虚構」で立ち向かうほかない」として、現在もその「虚妄」が存続していることを示唆する。
家父長主義、あるいは温情主義としてのパターナリズムは、「何の情報も与えず、その結果の責任をとらないという体制において」、「権威を維持するための支配原理となる」と外岡は指摘しているが、権威だけではなく利権も含まれているだろう。権威は利権と一体化しているはずだ。
この本は、震災と原発とを古今東西の文学と関連させて論じていくというものだが、随所に外岡の批判的精神が散りばめられていて、考えさせられる内容となっている。
詳細な報告は記さないが、読むべき本の一つであることは間違いない。