浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

文章

2012-07-24 16:05:13 | 日記
 世の中には、すばらしい文を書く人がいる。その反対に、ひどい文を書く人もいる。

 まず悪文家について。某大学の名誉教授である某氏は、ひどい悪文である。あまりにひどいので、何を言おうとしているのかよくわからない。主語と述語も呼応していない。一応学者であるから論文を書いていたが、これがまとまりのない、結論が不明確なものばかり。私はなぜこの人が学者になれたのだろうかといぶかしく思っていたが、あるとき衒学的なわけのわからない文を書くからこそ、人々はありがたがって、彼の論文を過大評価したのではないかと思い当たった。わからない文章を読んでいるとき、わからないのは読み手の私の能力が低いからではないか・・などと、誠実な人は思ってしまうのだ。

 この人は、周囲の過大評価により、今も文を書く現場にいる。かつて私は、彼の文をひたすら読み、検討した。その結果、この人は学者としての資格がないと断定しているが、多くの人は私のように検討しないから、今もありがたがって書かせようとしている。

 私が名文家と思う人は、まず長田弘だ。ずっと前、『私の20世紀書店』(中公新書)を読んで、何とすばらしい文なのかと感動した。書物に関する短い文が書かれているのだが、そこに書かれた内容が、書かれた文=書かれた内容ではないのだ。文の背後に広い広い世界が描かれていたのだ。それ以降、長田弘の本はできるだけ読むようにしている。

 もちろん私には、長田のような文は書けない。書いた文=書いた内容という等式が成り立つような文しか、書けない。これは本多勝一の『日本語の作文技術』で文の書き方を学んできたからだ。

 もうひとりの名文家は、画家の野見山曉治である。この人も、長田のような文を書く。

 たとえば、

「すべての景色はうつろうものだ。今ある形は束の間のことだ。魔性を孕んでいるものは美しい」

 書かれている文の背後に、広がる世界がある。書かれた文<<書かれた内容、なのだ。

 今日、『ユリイカ』の臨時増刊号、「野見山曉治 絵とことば」が届き、野見山の絵と文、そして野見山について書かれた多くの人の文を堪能している。

コメント
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