知った人々が、ひとり、またひとりとこの世から去っていく。それぞれの人について、もちろん私の脳裏に、多くの記憶がつくられている。
訃報を聞くたびに、あざやかな記憶が幾重にもよみがえってくるのだが、これ以後、新しい記憶はつくられることはなくなる。
永遠の別れとは、新しい記憶がつくられることがなくなるということ。
昨日、ひとりの知人の訃報が届けられた。30年間ほど、研究会や歴史の調査や、あるいはそのほかの場で、記憶をつくってきた。
しっかりとした、味のある文章を書く人だった。話をしている時、話を割って、全く別の話をする人だった。研究会では、女王蜂のような存在だった。
今年一月、明治維新の研究者・原口清先生の90歳を祝う会で同席したのが最後だった。プレゼントに赤いマフラーを買ってきて欲しいと頼まれ、それを持って行った。
その後入院されたと聞いた。まさか死へとつながるような病気とは思ってもいなかった。
長田弘『記憶のつくり方』という本を読んだ。
「あとがき」にこうあった。
記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの土壌となってきたものは、記憶だ。
逝去された知人の記憶も、私の記憶にとどまり、私の精神の土壌になっていくのだろう。
訃報を聞くたびに、あざやかな記憶が幾重にもよみがえってくるのだが、これ以後、新しい記憶はつくられることはなくなる。
永遠の別れとは、新しい記憶がつくられることがなくなるということ。
昨日、ひとりの知人の訃報が届けられた。30年間ほど、研究会や歴史の調査や、あるいはそのほかの場で、記憶をつくってきた。
しっかりとした、味のある文章を書く人だった。話をしている時、話を割って、全く別の話をする人だった。研究会では、女王蜂のような存在だった。
今年一月、明治維新の研究者・原口清先生の90歳を祝う会で同席したのが最後だった。プレゼントに赤いマフラーを買ってきて欲しいと頼まれ、それを持って行った。
その後入院されたと聞いた。まさか死へとつながるような病気とは思ってもいなかった。
長田弘『記憶のつくり方』という本を読んだ。
「あとがき」にこうあった。
記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの土壌となってきたものは、記憶だ。
逝去された知人の記憶も、私の記憶にとどまり、私の精神の土壌になっていくのだろう。