物騒な時代になった。白昼、新聞社が襲われて12人もの命が奪われるというかなしい事件が起きた。
この事件を報道するテレビのコメントは、「表現の自由」や「報道の自由」が暴力によって侵害されたという。その通りなのだが、しかしテロ事件を起こした者たちは、そういう考え方をもってはいない。そうした「自由」なんか糞食らえと思っているはずだ。そういう人々に「表現の自由」の侵害だと非難しても、事態は変わらない。
要するに、今、テロ事件を起こした者たちとの、共通のことばや思考がなくなっているのだ。
なぜそうなったのか、を考えなければならない。
現在の事態がどういう経緯で起きてきたのか、その源をさかのぼること、そこから考えずに、ただ対処療法的に暴力に対して暴力を対置するのであれば、暴力(テロ)はさらに燃え広がるだろう。
ボクは、その際にいつも、アメリカという国家を想起する。アフガンのアルカイダを育てたのは誰か、フセイン統治下のイラクを崩壊させたのは誰か、シリアをひどく混乱させたのは誰か、はたまたウクライナは・・・・・常にその裏に、アメリカという国家が存在しているのだ。アメリカという国家は、軍隊を派遣しないまでも、カネを投下したり、CIAを動かしたり、アメリカという国家が許容できない国地域に混乱をつくりだしてきた。みずからの支配下におくためだ。もっともうまくいったのが、わが日本である。わが日本のような「属国」をつくりだそうとしてきたのだ。しかし、どこも日本のようにはうまくいかなかった。どこでも、アメリカの言いなりにならないという気概をもっているからだ。
なぜシリアやイラクの地域に「イスラム国」があるのか。もしフセイン政権が倒されなかったら、こういう事態は起きていなかったのではないか。
アメリカは自ら混乱を引き起こし、そしてその混乱がみずからの利害にあわないと判断するとそれを押さえにかかる。そうして世界中に混乱をつくり出し、その過程で多くの人を死に至らしめてきた。
そうしたアメリカのやり方に対して、イスラム圏の人々がテロで復讐を行っているのだ。
もちろんボクは、パリで起きたようなテロを容認する者ではない。しかし、その背景や経緯をしっかりと認識する必要があると思うのだ。
この事件を報道するテレビのコメントは、「表現の自由」や「報道の自由」が暴力によって侵害されたという。その通りなのだが、しかしテロ事件を起こした者たちは、そういう考え方をもってはいない。そうした「自由」なんか糞食らえと思っているはずだ。そういう人々に「表現の自由」の侵害だと非難しても、事態は変わらない。
要するに、今、テロ事件を起こした者たちとの、共通のことばや思考がなくなっているのだ。
なぜそうなったのか、を考えなければならない。
現在の事態がどういう経緯で起きてきたのか、その源をさかのぼること、そこから考えずに、ただ対処療法的に暴力に対して暴力を対置するのであれば、暴力(テロ)はさらに燃え広がるだろう。
ボクは、その際にいつも、アメリカという国家を想起する。アフガンのアルカイダを育てたのは誰か、フセイン統治下のイラクを崩壊させたのは誰か、シリアをひどく混乱させたのは誰か、はたまたウクライナは・・・・・常にその裏に、アメリカという国家が存在しているのだ。アメリカという国家は、軍隊を派遣しないまでも、カネを投下したり、CIAを動かしたり、アメリカという国家が許容できない国地域に混乱をつくりだしてきた。みずからの支配下におくためだ。もっともうまくいったのが、わが日本である。わが日本のような「属国」をつくりだそうとしてきたのだ。しかし、どこも日本のようにはうまくいかなかった。どこでも、アメリカの言いなりにならないという気概をもっているからだ。
なぜシリアやイラクの地域に「イスラム国」があるのか。もしフセイン政権が倒されなかったら、こういう事態は起きていなかったのではないか。
アメリカは自ら混乱を引き起こし、そしてその混乱がみずからの利害にあわないと判断するとそれを押さえにかかる。そうして世界中に混乱をつくり出し、その過程で多くの人を死に至らしめてきた。
そうしたアメリカのやり方に対して、イスラム圏の人々がテロで復讐を行っているのだ。
もちろんボクは、パリで起きたようなテロを容認する者ではない。しかし、その背景や経緯をしっかりと認識する必要があると思うのだ。