「ニュースは人類の私小説」は、赤瀬川原平のことばだ。地球という星の中に、「高等生物」として人類という生物が生息している。今日も、明日も、人類の間をニュースが飛び交っている。そのニュースは、人類という生物から見れば、「私小説」の一部、なぜかくも世界の人類は殺しあっているのだろうか。
さてそのことばを紡いだ赤瀬川は、「超芸術家」である。今月号の『芸術新潮』の特集は「超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」である。今まで、赤瀬川は、ボクの脳裏にはいり、そして出て行った。彼の作品はボクの前にあったことはあったが、今まで関心を持って赤瀬川を見つめることをしてこなかった。
しかしこの特集を読み切ったボクは、彼をよく知るひとりになった。彼は、何という魅力的な人物であったことか。ボクは、彼についてもっともっと知ることになるだろう。
過去形で書いたのは、もう彼はこの世にいないからだ。だからこの特集は「追悼」のために編まれた。
彼は、まったくの自由人であった。ボクが望んでもぜったいに赤瀬川のように自由に生きていくことはできない、ボクにとってはまさにはるか高みにいる人である。
彼は自由な個として生きながら、時に集団で行動している。ボクが驚いたのは、彼がメンバーとなった「縄文建築団」が浜松市天竜区にある「秋野不矩美術館」、掛川市にある「ねむの木こども美術館」を建造していたことだ。ボクは、前者には何度か行っているし、後者については一度だけ行っている。そういえば、似ているところがある。それに今まで気がつかなかった。
この特集を読みながら、赤瀬川の人生を考える時、ボクは自分に与えられた狭い時空を絶えず何かで埋めていないといけないと思いながら生きてきたようだと思い当たり、何となく観察したり、何となく考えたりしてこなかったことに気づいた。無駄だと思えるようなことこそが芸術である、とするなら、ボクは芸術とは縁遠い存在なのではないかと考え込んでしまった。
ボクに対する要請に、誠実に応えようとして、みずからの生を狭いものにしているのではないか。
赤瀬川の作品に、尋ねてみたいと思う。これからは、彼の本の作品の紹介が、このブログに書かれることだろう。
さてそのことばを紡いだ赤瀬川は、「超芸術家」である。今月号の『芸術新潮』の特集は「超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」である。今まで、赤瀬川は、ボクの脳裏にはいり、そして出て行った。彼の作品はボクの前にあったことはあったが、今まで関心を持って赤瀬川を見つめることをしてこなかった。
しかしこの特集を読み切ったボクは、彼をよく知るひとりになった。彼は、何という魅力的な人物であったことか。ボクは、彼についてもっともっと知ることになるだろう。
過去形で書いたのは、もう彼はこの世にいないからだ。だからこの特集は「追悼」のために編まれた。
彼は、まったくの自由人であった。ボクが望んでもぜったいに赤瀬川のように自由に生きていくことはできない、ボクにとってはまさにはるか高みにいる人である。
彼は自由な個として生きながら、時に集団で行動している。ボクが驚いたのは、彼がメンバーとなった「縄文建築団」が浜松市天竜区にある「秋野不矩美術館」、掛川市にある「ねむの木こども美術館」を建造していたことだ。ボクは、前者には何度か行っているし、後者については一度だけ行っている。そういえば、似ているところがある。それに今まで気がつかなかった。
この特集を読みながら、赤瀬川の人生を考える時、ボクは自分に与えられた狭い時空を絶えず何かで埋めていないといけないと思いながら生きてきたようだと思い当たり、何となく観察したり、何となく考えたりしてこなかったことに気づいた。無駄だと思えるようなことこそが芸術である、とするなら、ボクは芸術とは縁遠い存在なのではないかと考え込んでしまった。
ボクに対する要請に、誠実に応えようとして、みずからの生を狭いものにしているのではないか。
赤瀬川の作品に、尋ねてみたいと思う。これからは、彼の本の作品の紹介が、このブログに書かれることだろう。