浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

首相演説も、アメリカが事前チェック

2015-01-15 20:40:56 | 政治
 今日の『東京新聞』夕刊の記事。日本の「属国」状態を示す記事。他紙も報道している。


米圧力で首相演説修正 65年沖縄訪問時 佐藤氏「基地重要」

2015年1月15日 夕刊

 一九六五年八月に当時の佐藤栄作首相が米国統治下の沖縄訪問時に行った演説に関し、基地の意義を強調するよう求める米側の圧力で内容を修正していたことが、十五日公開の外交文書で明らかになった。冷戦下を念頭に「極東の平和と安定のために沖縄が果たしている役割は極めて重要」との一節を加え、実際に読み上げた。基地存続を前提とする文言で、米軍普天間飛行場を含む沖縄の過重負担問題に影響を及ぼしたと分析できる。

 佐藤氏が沖縄訪問時に、米側現地トップのワトソン琉球列島高等弁務官との会談で「返還は日米安全保障条約の下に実施したい」と伝えていたことも判明した。当時米国は七〇年の安保条約延長の見送りを懸念しており、佐藤氏としては米側に延長を示唆する意図があったとみられる。

 佐藤氏の沖縄訪問を受け、沖縄返還交渉は六七年から本格化し、七二年の返還実現につながった。

 佐藤氏は六五年八月十九日に沖縄を訪れた。二日前の十七日付で外務省が作成した文書などによると、日本側と在日米国大使館担当者が十七日、佐藤氏の現地での演説内容をめぐり協議した。

 米側は、事前に受け取った那覇空港到着時と映画館「国映館」での演説案について「沖縄の戦略的、軍事的重要性に言及していない」と指摘。「極東全般のみならず日本防衛に有する重要性を述べることを強く希望する」と迫った。

 日本側は「首相決裁後で変更は困難」と伝えた。しかし、米側は翌十八日の協議で「ワシントンより訓令」とした上で「米国施政への軽蔑」「このままでは沖縄での日米協力関係に障害があり得る」と、強い口調で対応を求めた。

 結局、日本側は佐藤氏の判断で国映館の演説については譲歩し、十八日中の再協議で「わが国は安保条約で米国と結ばれている。沖縄の安全がなければ日本本土の安全はない」などの内容を加えた案を米側に手渡した。

 一方、日本側は空港到着時の演説最終案に、当初案にはなかった「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない」との有名な一節を盛り込み、佐藤氏は返還への強い決意をアピールした。
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シャルリー・エブドのこと

2015-01-15 08:19:11 | 社会
 『シャルリー・エブド』の最新号が発刊された。表紙は、ムハンマドが涙を流しながら「私はシャルリー」というアピール文をもっているという図柄である。そしてバックにはTout est pardonnéが記されている。

 さてこの表紙をどう読み解くか、フランス語をまったく知らないボクは、何とも言えない。

 そのことばを、フランス語の理解を背景に読み解いた文が下記にある。

http://synodos.jp/international/12340

 どういう意図であの画を描いたのか、そしてそこにつけられている、Tout est pardonnéにどういう意味を付与しようとしたのかはボクには判断できないが、しかしムハンマドを描かないという原則はムスリムの間では一般的である。上記のサイトに、いやそういう例があると記されているが、しかしそれは稀である。

 昨日の『毎日新聞』に、「仏連続テロ:「表現の自由、制限ない」風刺画家が会見」(2015年01月14日)という記事があった。その一部を掲載する。

 仏週刊紙「シャルリーエブド」襲撃事件で、14日発行の特別号の表紙となるイスラム教預言者ムハンマド(マホメット)の風刺画を描いた風刺画家のルス氏らが13日、パリ市内で記者会見した。ルス氏は、一部のイスラム教徒などが風刺画掲載続行に懸念を示している状況について、「表現の自由は、条件や制限がついたものではない」と述べ、風刺やユーモアへの理解を求めた。またルス氏は襲撃現場となった同紙編集室に遅れて到着した時に目撃した惨状についても語った。【パリ篠田航一、宮川裕章】

 ボクは、「表現の自由は、条件や制限がついたものではない」ということばには、若干の抵抗を感じる。「表現の自由」があるから、いかなることでも「表現」してよいのかというと、そうではないだろうと思う。

 ボクは、その際、東京新大久保や大阪の鶴橋などで起きている「ヘイトスピーチ」を思い浮かべる。「朝鮮人を殺せ」「いい朝鮮人も悪い朝鮮人もいなくなれ」というような罵詈雑言を、公然と街の中で叫んでいる人びと、この「ヘイトスピーチ」により、在日の人びとが精神に大きな打撃を受けている。

 「表現の自由」にも、内在的な制約はあるだろう。以前ある女性作家が知り合いのプライバシーを小説化したことがあった。確か、その際の判決はその知り合いが勝訴したと思う。

 様々な事例を考えていくと、まったく自由の「表現」が保障されているわけではなく、そこには内在的な制約があると考えるべきであろう。

 今度の『シャルリー・エブド』の問題も、もちろんテロでその社員らを射殺するなんてことはあってはならないことであるが、その雑誌がイスラム文化への理解を欠いたまま、ムハンマドを揶揄するような図画を何度も掲載することは、ムスリムを刺激することは明らかであるだろうし、同時にボクはそうした図画に「差別の視線」を感じてしまう。もちろんそれは、フランス人によるイスラム世界への「差別の視線」である。

 その意味で、E・サイードの『オリエンタリズム』や『イスラム報道』は読むべきで、日常的な意識の中に潜在している差別を自覚すべきなのである。

 「表現の自由」について、「ヘイトスピーチ」の問題、そしてこの『シャルリー・エブド』の問題などを題材にして、考えるべきなのである。

 メディアでも、そうした視点の記事や報道が増えてきているようだ。

 今日ボクは、某所で「イスラム文化ー理解すること、共生すること」と題する講演を行う。

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