昨日、富士市に行った。富士山は、くっきりとその姿を現していたが、車で東に向かうとき、富士山の姿がはっきりと出現するのは、大井川あたりである。大井川は、駿河と遠江を分かつ川である。静岡市など駿河では、富士山はその美しさと共に、その偉容さも見える。
大井川を渡るとき、駿河と遠江とは、異なる地域であるということを実感する。遠江から富士山が見えるところはたくさんあるが、しかし富士山はとても小さい。遠江からは、富士山は見ようとしないと見えない。
さて、ボクはイスラムについて語ろうと思う。
日本人のほとんどは、イスラムを知らない。ムスリム(イスラム教徒)の人口はとても多いが、日本ではそんなに日常的に見かけることはない。だからイスラムの文化を知らない。
こういう事件が起きると、どうしてもイスラムに向ける視線は厳しくなる。事件を起こしたのはムスリムだからだ。だが、すべてのムスリムがテロリストかというと、これは絶対に違う。もちろんムスリムの聖典は『コーラン』である。だからムスリムの信仰はまったく同一であると認識するのは仕方がないのだが、しかし実際にムスリムの間でスンニ派とシーア派という対立があるように、あるいは仏教には様々な宗派があるように、イスラム教には『コーラン』の内容についてたくさんの「解釈」があるのだ。今問題になっている「イスラム国」も、アブバクル・バグダディという指導者がいるが、彼は自らを「カリフ」とした。「カリフ」とはムスリムを統率する指導者ということだ。
『コーラン』を様々に解釈する「・・・師」がたくさんいて、その「・・師」のもとに、ムスリムはアッラーの神に祈りを捧げるのだ。
実はボクは、イスラム文化を理解すべく、また某所での講義の内容をイスラム文化と決めて、井筒俊彦氏の本を読み込んでいる。
何でもでうであるが、日常生活で見えないことをきちんと見えるようにすることも重要だ。それがないと、誤った認識を持ってしまう。
大井川を渡るとき、駿河と遠江とは、異なる地域であるということを実感する。遠江から富士山が見えるところはたくさんあるが、しかし富士山はとても小さい。遠江からは、富士山は見ようとしないと見えない。
さて、ボクはイスラムについて語ろうと思う。
日本人のほとんどは、イスラムを知らない。ムスリム(イスラム教徒)の人口はとても多いが、日本ではそんなに日常的に見かけることはない。だからイスラムの文化を知らない。
こういう事件が起きると、どうしてもイスラムに向ける視線は厳しくなる。事件を起こしたのはムスリムだからだ。だが、すべてのムスリムがテロリストかというと、これは絶対に違う。もちろんムスリムの聖典は『コーラン』である。だからムスリムの信仰はまったく同一であると認識するのは仕方がないのだが、しかし実際にムスリムの間でスンニ派とシーア派という対立があるように、あるいは仏教には様々な宗派があるように、イスラム教には『コーラン』の内容についてたくさんの「解釈」があるのだ。今問題になっている「イスラム国」も、アブバクル・バグダディという指導者がいるが、彼は自らを「カリフ」とした。「カリフ」とはムスリムを統率する指導者ということだ。
『コーラン』を様々に解釈する「・・・師」がたくさんいて、その「・・師」のもとに、ムスリムはアッラーの神に祈りを捧げるのだ。
実はボクは、イスラム文化を理解すべく、また某所での講義の内容をイスラム文化と決めて、井筒俊彦氏の本を読み込んでいる。
何でもでうであるが、日常生活で見えないことをきちんと見えるようにすることも重要だ。それがないと、誤った認識を持ってしまう。