昨夜、といっても今日の夜中のNNNドキュメントを録画して、今見終わった。ドキュメントは、新潟水俣病をあつかったものだ。昭和電工のメチル水銀が原因と分かって50年。
ドキュメントをみて、水銀による肉体的な被害もさることながら、社会的な差別に心が痛んだ。被害者が水俣病だと認定され、補償金を受けとると、人々がやっかむ、あるいは「ニセ患者」だと罵倒する。だから「差別」をおそれて申請しない「潜在患者」がたくさんいるという。
また、以下に掲載した昨日の『新潟日報』の社説にもあるように、政府は認定基準を厳しくしているため、症状があっても認定しない「未認定患者」が多数いる。
水俣病の患者は、「認定患者」、「未認定患者」、「潜在患者」に分断され、そのまわりを水俣病患者を「ミナ」と差別する人々が取り巻いている。
どのような事件が起きても、被害者の声はすなおには通らない。企業や政府はみずからを守り、カネを出し惜しむ。周辺の人々は、患者たちの苦しみに思いを馳せることなく、「差別」したり、やっかむ。
福島における原発災害でも同じ事態が起きている。
被害者の苦しみ、肉体的かつ精神的な苦悩に思いを馳せること、想像することが、ボクたちには必要だ。
福島でいえば、毎日農業で汗を流す者として、日々の生業としての農業を取り上げられた人々の苦しみが想像できる。原発で放射能がまき散らされ、それによって仕事を奪われ補償金をもらうことより、2011年3月以前の生活を取りもどすことを、彼らは当然望んでいるはずだ。しかし東電はもとの生活に戻せないから補償金を払っているのである。「カネよりもとの生活を」と考えている被害者たちの苦しみを想像すること、理解すること、それが必要だ。
ボクは、やっかむ人々、「差別」する人々の品性を疑うが、そういう人は残念ながら少なくはない。
新潟水俣病50年 被害者の完全救済目指せ
四大公害病の一つ、新潟水俣病が公式確認されてから31日で50年となった。
阿賀野川は栃木、福島県境に源を発し、長さ210キロは国内10位、年間総流出量129億立方メートルは信濃川に次ぐ大河だ。豊かな流れは、ニゴイやウグイといった魚を育み、流域の人々の貴重なタンパク源になった。
猛毒、メチル水銀がその水を汚し、川の恵みを介して人々の健康をむしばんだ。それだけでなく、人間の絆を断ち切り、地域に深い傷痕を残した。
1950年代後半から60年代は、日本経済が敗戦から立ち上がり、高度成長を遂げた時期だ。新潟水俣病の原因をつくった重化学工業は、その推進役の一つだった。
◆高度経済成長の影で
経済成長の影で、何の罪もない人たちが突然、平穏な暮らしを奪われた。私たちの現在は、その犠牲の上にある。この事実を、胸に刻まねばならない。
新潟水俣病は、65年5月31日、新潟大学の教授が県に「水銀中毒患者が阿賀野川下流域に散発」と報告して確認された。メチル水銀は、阿賀野川の河口から約60キロ上流の阿賀町(旧鹿瀬町)にあった昭和電工鹿瀬工場から流出した。
汚染された魚を食べた人は神経を侵されて、手足の感覚低下、言語、歩行障害、視野狭窄(きょうさく)などの症状が出た。重症者は意識障害を起こし、死に至った。完治する治療法は今もなく、投薬による対症療法やリハビリ療法が中心だ。
被害者は、ほかの公害病に先駆けて67年、昭和電工を提訴し、勝訴した。だが問題は解決せず、提訴は5次にわたることになる。原因は患者認定のハードルの高さと、国のかたくなさといえる。
公害健康被害補償法が施行されると、患者認定されれば、補償が受けられるようになった。
71年の認定基準では、汚染された魚を食べ、水俣病症状のいずれかがあれば認定された。
国は77年、「複数の症状の組み合わせが必要」と基準を厳格化した。今年4月末までに申請のあった延べ2518人のうち、認定患者は702人にとどまっている。
4月末時点で患者を含む約3400人が補償、救済の対象とされたが、潜在的な被害者数はつかみきれない。
◆今も続く差別と偏見
被害者救済を第一としなければならない。国は被害者団体が求める流域の住民健康調査を実施し、全体像把握に踏み出すべきだ。
95年と2009年、一時金を柱とする被害者の救済で政治決着が図られた。09年の救済は12年に申請が締め切られた。なぜ期限があるのか。被害者が納得できないのは理解できる。
本県は棄却された被害者92人の異議申し立てを独自に受け付け、今年3月に3人の異議を認めた。
だが、わずかな前進でしかない。差別や偏見を恐れて申請できない被害者がまだいることを忘れてはならない。
認定審査をめぐり「偽患者」などと、根も葉もない陰口をたたかれた人もいるのだ。
加齢に伴い、症状が重くなる被害者も出ている。ためらわずに申請できる環境と、必要な人を漏れなく救済できる制度を早急につくらなければならない。
◆なぜ防げなかったか
熊本県水俣市で水俣病が公式に発見されたのは、新潟水俣病が公式確認される9年前の1956年5月だった。
59年には熊本大学の研究班が「魚介類を汚染している毒物としては、水銀が極めて注目される」との見解を示していた。
2次訴訟以降、原告は「第2の水俣病」は国が排水規制を行わなかったために起きたと責任を追及、国は否定してきた。真相解明の作業は続ける必要がある。
今年2月、新潟地裁であった第5次訴訟の弁論で、被告の国が注目すべき資料を提出した。
61年、水俣病の発生源となったチッソ水俣工場と同様に水銀を使用していた全国の6社6工場を国が調査し、全工場の排水からチッソと同程度の水銀を検出していたというのだ。
6工場の中に昭和電工鹿瀬工場は含まれていなかった。その理由を裁判の中できちんと説明してもらいたい。
企業が、安全性より経済性を優先するようなことがあってはならない。国には企業の活動を監視し、国民を守る責任がある。
発生当時も今も変わらないその大原則に立ち返り、国は被害者の完全救済に動くべきだ。それが悲劇を絶対に繰り返さないための第一歩であろう。