浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

第八巻

2020-10-07 17:05:45 | 芥川

 今日は午後2時頃から雨という予報だった。昼食ととってからすぐに畑に行った。昨日起こしたところに畝をつくっていった。里いもを掘った。あんがい出来ていた。ダイコンの種を蒔いた。雨が降り始めたので引き揚げた。

 家に帰り、少し昼寝をした。起きたら、気温がずっと下がっていた。久しぶりに寒さを感じた。羽毛のベストを着て芥川龍之介全集の第八巻の続きを読みはじめた。小説がなく、随筆めいたものが多い。

 私が読んでいる全集は、小説・随筆を年代順に並べてあるものだ。第八巻は、要するに芥川が自死へ向けて書いているような気がしてきた。死にまつわるものが多い。

 「追想」は、子どもの頃の思い出である。そこには死のことは書かれていないが、しかし過去のことを思い出して書きつけるということは、自分の人生を振りかえるということで、未来へ向いた文ではない。過ぎ去った過去との対話である。

 歴史学者の江口圭一さん、『まぐれの日本近現代史研究』を送っていただいた。自叙伝のようなものであった。しかしそのあと程なくして訃報が届いた。この本をまとめられたときは、まさかこの世から去るということは考えていなかったと思うが、このことから私は過去のことはあまり書かないようにしようと思った。

 第八巻を読んでいると、死の影がまとわりつつあるということを感じる。先を閉じようという思考が垣間見える。第八巻はだからなかなか進まない。

 

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点鬼簿

2020-10-07 17:05:45 | 芥川

 「点鬼簿」とは、死者の名を記したノートとでもいおうか。芥川龍之介の「点鬼簿」は、亡くなった身内のことを記したものだ。

 第八巻に入ってから、死とか病気とか、暗い話が多い。こういう話しばかり続くと気が滅入ってくる。

 「点鬼簿」は、狂人となった母のこと、一番上の姉のこと、そして父のことを綴ったものだ。もちろん三人の死にまつわる話である。姉は「初子」といい、芥川が生まれる前に亡くなっているから、芥川にとっては見知らぬ人ではある。しかしあんがい近しい姉でもある。こう書いているからである。

 僕は時々幻のように僕の母とも姉ともつかない40格好の女人が1人、どこかから僕の一生を見守っているように感じている。これは珈琲や煙草に疲れた僕の神経の仕業であろうか?それとも又何かの機会に実在の世界でも面影を見せる超自然の力の仕業であろうか?

 私の父は34歳で亡くなっている。私が2歳の時である。私は父を全く知らない。芥川と同様に、ふと「あっ、父に守られているな」と感ずることがある。

 芥川の父は、新宿で牛乳屋をやっていた。そこには久板卯之助という、大杉とも近い社会主義者が勤めていたことを、「追憶」という文の「久井田卯之助」で知った。これも第八巻所収である。

  いずれにしても、芥川は亡くなった身内のことを、なぜ書こうと思ったのか。

 この「点鬼簿」の前は、「春の夜」。結核を病む姉弟のいるところに派遣された看護婦の話である。これも暗い。

 芥川龍之介の精神が、死へと傾いているような気がする。

 

 

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「茹でガエル」

2020-10-07 07:39:15 | 政治

 安倍晋三=自民党・公明党政権以降、権力を握るものは、抑制的に振る舞うことをしなくなった。憲法、法律を無視し、おのれのしたいことを平然と行うようになった。近代国家の原則である「法治主義」、「法の支配」は何処へと捨て去ったようだ。

 法に基づかない政治は、専制政治、独裁政治とかわらない。日本国民は、それでもよいという選択をしているように見える。民主主義というのは、危険な制度である。確かに政権を握っている政党は、自由と民主主義と正反対の政策を行う自由民主党である。多くの国民がこの政党に権力を任せるという選択を行っている、またそのトップであるスカが民主的な手続きを無視しても、支持する者が多いという現実。

 1941年からの大日本帝国の対米英戦争は、国民の大半の支持の下に行われた。国民は正常な選択をする集団ではないということである。もちろん情報が流されなかったということもある。ラジオや新聞もまた大日本帝国の片棒を担ぐ、官製の広報機関と化していたから、生産力や軍事力からみればアメリカとの戦争では必ず負けるという報道は皆無であった。

 学者たちも学問の自由は奪われ、下手なことを言えば治安維持法で牢獄にぶちこまれるという状況であった。

 真実は力を持たなかった。

 今も又、真実は力を持たない。そういう時代は、悲しいことに暗愚な権力者でも権力を振るうことが出来る。

 東条英機、彼は対米英戦争を開始した。しかしマリアナ諸島が米軍に占領され、日本の敗戦が確実となった時点で退陣。彼は「戦陣訓」をつくらせ、「生きて虜囚の辱めを受けず」という文言をそこに盛り込んだ。敗戦後、彼は自殺を図ったが急所をはずしたために「生きて虜囚」となった。無様な姿をさらしたのである。

 スカの目を見れば、彼の人格がどういうものかがわかる。彼の目は人間を信じる目ではない。知性を持たない猜疑心の塊のような目だ。権力を求めて生き続けてきた者の目である。彼は権力を振るうために生きているような人物であり、中国の習近平やロシアのプーチンなどと肩を並べることができる。

 さて日本学術会議の問題であるが、これを撤廃させるためには、大学の教員などが総力で抵抗する必要がある。

 だがしかし、すでに大学は学長の専権が認められ、大学教員による自治的な側面はなくなっている。教員の人事でさえも、教授会はその権限を奪われ、学問的業績がない者が学長によって教授として任命されている。そういう事態に、大学教員の多くは抵抗しない。大日本帝国下の「大学の自治」のほうが、現在よりもずっとマシだった。

 民間企業の職場で経営者が絶大な権力をもつように、学校でも、自治体でも、トップに権限が集中されるようになった。新自由主義は企業経営こそがあるべきすがたであるとされ、学校では「学校経営」、自治体では「自治体経営」とトップダウンの経営方式が「正しい」とされ今に至っている。

 そうなると、官僚やメディア関係者が権力者におべっかを使いゴマをするように、どこでもそういう人間が増え、彼らがさらに権力者を横柄にし、増長させている。

 こういう社会に未来はない。

 日本社会は、あらゆる点で国際ランクが下がっている。そういうことが報じられないし、「ニッポンはすばらしい」というテレビ番組があるが故に、国民は井の中の蛙となって満足している。しかしその蛙は「茹でガエル」であって、「熱い!!」といってそこから飛び出るか、それとも気がつかずに死ぬまで茹でられ続けるか、おそらく後者であるだろう。

 未来は、いま生きている者が創り出すものだと思う。

 

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