浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

国辱

2020-10-18 21:59:33 | 芥川

『芥川龍之介全集』第八巻の最後は、漱石についての文である。芥川はしばしば小宮豊隆らと漱石宅を訪問した。

 早稲田南町にあった漱石の書斎はこういう状況であった。

 「書斎は畳なしで、板の上に絨毯を敷いた十畳位の室で、先生はその絨毯の上に座布団を敷き机に向かって原稿を書いて」いた。

 その部屋で開かれた「木曜会」に芥川は参加していた。その書斎を自慢する漱石がどうも不思議であった。こういう書斎であったからだ。

 「天井板に鼠の穴が見え、処々に鼠の小便の跡も見ることが出来」、「一つの高窓があるのですが、その高窓に・・・・頑丈な鉄格子がしてありました」。

 ある日、漱石に会いたいという手紙を米国の女性が送ってきた。漱石はもちろん英文の手紙でそれを断った。

 芥川はなぜ断ったのかを尋ねた。漱石は、

「夏目漱石ともあろうものが、こんなうすきたない書斎で鼠の小便の下に住んでいる所を、あいつ等に見せられるか、アメリカに帰って日本の文学者なんて実に悲惨なものだなんと吹聴されて見ろ、日本の国辱だ」と答えたそうだ。

 漱石の気概やよし、である。しかし日本では、こういう自覚を持つ者は、今や少ない。

  世界標準の方法を無視してCOVID-19の流行に際してPCR検査を抑制し、アカデミーの殿堂である日本学術会議の人事に介入して、政権の意向と合わない学者の任命を拒否する、首相となって議会で所信表明もしないで外国訪問を行う・・・・・・これらはすべて「国辱」ものである。

 日本人は、アベ政権以降、サクラ、加計、森友と恥ずかしいことばかりしているのに、それが「国辱」ものであることを認識もしない。

 

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立ち位置

2020-10-18 21:17:11 | 芥川

「たね子の憂鬱」という短い小説。たね子は主婦、亭主は会社員だろう。

 夫婦は帝国ホテルで行われる結婚式に招待されていた。しかし田舎生まれのたね子はそれが気になって仕方がない。というのも、結婚式でだされる食事は洋食、たね子はそのマナーを全く知らなかった。

 亭主は次の日の午後、たね子をレストランに連れて行き、そのマナーを教えた。

 そして帝国ホテルでの結婚式に参加、無事であった。帰路、「食堂」の前を通った。シャツ一枚の男性と女中とがふざけながらタコを肴に酒を飲んでいた。たね子はそれを見て、軽蔑し、同時にその自由さを羨んだ。

 たね子は次の朝、夢の話をした。その夢は、汽車の線路に飛び込んで体がばらばらになったが、それでも生きている、というものだった。

 たったそれだけの話だ。

 ほとんど行くことのない帝国ホテルでの結婚式への参列、洋食を食べるときにみっともないことをしたらどうしようという心配・・・そして「食堂」の光景に、軽蔑し、ということは優越感を抱き、またその自由さをうらやむ。中産階級のもつ意識が記されているのだろう。

 私は今まで一度も帝国ホテルに行ったことがない。行こうという気持ちもない。私はそういうところとは縁のない者だという自覚をもっているからだ。

 私の立ち位置は、たね子が軽蔑し、羨むふつうの庶民である。そういう立ち位置を崩さずに生きてきた。虚飾を峻拒し、ただ生きる、それだけだ。

 芥川はどうしてこの小説を書いたのだろうか。芥川の立ち位置は、中産階級であろう。その立ち位置に嫌気がさしたのか。しかし汽車にひかれて「体は滅茶滅茶になって」も、そこにたね子が生きているように、芥川もそこ(中産階級)に生きているのだ。

 

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日本でも・・・・

2020-10-18 12:19:28 | 国際

アメリカ大統領選挙戦が激しくなっている。トランプは、前回と同様に、マスメディアが飛びつくような激しい演説を行い、とりわけテレビメディアでの登場回数を増やそうとしている。

日本でも、バイデンよりもトランプについて報じている。そのほうが視聴率がかせげるからだ。

たとえばTBS

 テレビメディアはカネ儲けのためにひたすら視聴率をあげようと躍起である。センセーショナルなもののほうが、人々は注目するから、そういうものをより多く報じるのだ。

 

 

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