台湾ではもうマスクをしないでも生活できている。PCR検査を広範囲におこない、感染者を発見し隔離し、非感染者に感染させないというあたりまえの方法で、台湾は抑えることができたのだ。日本だってやれないことはないのに、やらない。その責任は、アベ・スカ=自民党・公明党政権であり、また厚労省の医系技官である。
現状のままなら、感染者数はどんどん増えていくだろう。
台湾ではもうマスクをしないでも生活できている。PCR検査を広範囲におこない、感染者を発見し隔離し、非感染者に感染させないというあたりまえの方法で、台湾は抑えることができたのだ。日本だってやれないことはないのに、やらない。その責任は、アベ・スカ=自民党・公明党政権であり、また厚労省の医系技官である。
現状のままなら、感染者数はどんどん増えていくだろう。
自分自身を表現する手段として、私は文字しか持っていない。しかし表現の手段はいろいろある。音楽は言うまでもない。このブログで韓国の民衆美術を紹介してきたが、美術もその手段である。
しかし美術という場合、それは絵画であり、また彫刻や版画である。だがそういうものに包含されない表現もある。『美術手帖』から送られてくる情報に、それを発見した。
それは、
である。
長崎の原爆投下地点に、被爆者が語った被爆体験の声紋を「描き」、そしてその声を聞く。
文字ではなく声紋。声紋ではもちろん何が言われているかはわからない。だが声紋を見る人びとは、おそらく被爆体験を想像するだろう。
そして実際に、その被爆体験を声で聞く。被爆という事実が、重なって、そこにいる人びとをとらえる。
被爆体験の継承、その手段は固定的ではなく、自由に開かれている。どう継承していくか、表現の手段は、きっともっとあるはずだ。
浜松市政は、浜松商工会議所の要望を受けながら展開されている。まあ商工と商が先に来ているが、浜松市の場合は「浜松工商会議所」というべきかも知れない。
さて、浜松商工会議所青年部が二次会の、おそらく飲み会を開き、それにより新型コロナウイルス感染者が20人にも及んでいる。しかしその店の名は公表されていない。また詳細な患者概要もない。
浜松市は、浜松商工会議所の関連だからということで、ほとんどを秘密にしている。
さて、飲み会を開催したであろうその店舗は、浜松商工会議所青年部の貸し切りであったと当初報じられていた。
ところが、実際は貸し切りではなく、4組12人が同時刻に利用していたという。ならば貸し切りではない。店舗名を公表すべきである。
浜松市がもし公表しないなら、浜松商工会議所関連に対しては「優遇」しているというしかない。
もう亡くなった松下竜一は、たくさんの本を出している。私は、若い頃、『豆腐屋の四季』を読んで、彼のファンになり、色々読んできた。しかしこの本ははじめてである。
河出書房新社が出している『松下竜一 その仕事』、その一冊として『久さん伝』がある。図書館から借りて一挙に読んだ。久さんは、和田久太郎である。大杉栄の仲間の一人である。
本書は和田久太郎の評伝である。久太郎の人生は波瀾に満ちているが、しかし松下の筆致は落ち着いている。淡々と書いている。久太郎は決して魅力的な人物ではない。しかし存在感がある。しかし存在感といっても、重いものではない。松下の書き方がそうだからかもしれないが、生まれ落ちてからの複雑な身の上、性格的な特徴、身動きの速さ・・・書きようによっては、もっと印象深く書けるかも知れない。だがそうではないのだ。三次元的ではなく、二次元的な描写である。
大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が官憲に虐殺された後、久太郎はその復讐に立ち上がる。だが読んでいて、強い復讐心をもっているようには見えない。ギロチン社の面々に影響を受けてテロに走るのだが、失敗する。失敗を導くほどの復讐心とでも言えるかも知れない。つまり強い殺意を持つことのできない人間なのだ。
そうした人間が、無期懲役の判決を受ける。中途減刑されるが、収監先の秋田刑務所で自死。無期懲役、つまり行動の自由を奪われる、さらに何と本を読むことすらも禁止される。久太郎はそれに絶望する。
久太郎は秋田刑務所で差し入れされた本を読む。本を読むということは、みずからの精神に未来を刻むことである。しかしそれが禁止されるということは、未来を閉ざされるということだ。久太郎の絶望を、私は想像できる。
久太郎は活動家である。活動しているからこそ久太郎なのである。それが懲役刑をくらって刑務所に閉じこめられる。大杉らが虐殺されたときの軍のトップ・福田雅太郎のを暗殺未遂事件を起こすのではなく、活動家で生きていられたら、もっと良い仕事をしたであろう。
読んでいて、歴史の主役ではない脇役としての久太郎について、よくもたくさんの資料を集めたものだと思った。久太郎が書いたものはすべて収集したようだ。
久太郎は浜松にも来たようである。1921年2月のことだ。これについては調べてみようと思う。
松下は、久太郎と野枝とはうまくいっていなかったとして、こう書いている。
もっとも、野枝とうまくいく者はほとんどいなかった。ある意味のエゴイストであり、感情も行動も本能的にふるまう野枝には敵が多く、同性の友はまったくいなかったし、同志の男性たちとも協調できなかった。(207頁)
これは松下の見解なのだろうが、私はこれには同感できない。
なお本書には、山口泉の「解説」がついているが、横道がたくさんあって、その横道が私には邪魔に思えた。ただし、ギロチン社をまったく評価しないという意見にはまったく賛成である。
私は、大杉栄、伊藤野枝に関わった人々について調べてみようという気持がある。その一環でこの本を読んだのだが、和田久太郎という人間像を二次元的に理解できたように思う。