私は学生時代から伊藤野枝に敬意を表してきた。野枝について、いろいろな誹謗中傷がなされていたが(栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』もその類いである)、彼女の主張は、今でも新鮮であるし、教えられるところをもっている。
たとえば「禍の根をなすもの」という文がある。1923年、虐殺された年の『中央公論』6月号に掲載されたものだ。
性問題を論じたものであるが、野枝はこう書く。
・・性問題を危険な傾向に導いたのは、みんな老人共の不純な精神だと。彼ら自身まづ性の差異に対する恥づべき意識を消すべきです。年若い子女達につまらない好奇心をわざわざ引き起さすような『隔絶』を止(よ)すべきです。男も女も、性別を意識するより先きに、まづ『人間』に対する識別を教へられるべきです。娘達は男の妻として準備される教育から解放されなければなりません。 男と女との差異を画然と立てた教育が先(ま)づ打破されなければなりません。子供の頭に、性の差別を激しく印象させる事が止められなければなりません。少年少女の間にある性別の意識を伴はないフレンドシップが自然に育てられなければなりません。
野枝は、保護者や教育者が、性別の意識にこだわることから解放され、「男も女もおんなじに、一人前の『人間』をつくる事を先づ心がけなければなりません。『人間』が立派に出来あがりさへすれば、他人の為めに余計な心配をする必要」がなくなり、子どもたちを信ずることができるのだ、と主張する。
いろいろな文を読むほどに、野枝の感受性の豊かさと、それをもとにした認識、判断力に感動するのだ。
野枝と大杉とがパートナーとなる過程で、いろいろ問題が起こったが、それを乗り越える中で、野枝と大杉とは「同志」的なカップルとなっていった。
私は大杉の、堀保子、神近市子、野枝との関係のなかで主張された「自由恋愛」論は、男にとって都合のいい身勝手な論理であると考えているが、それを経た野枝と大杉の関係は理想的なものであると思う。野枝の文には、二人のそうした関係が表現されている。